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あれから、数年の月日が流れた。
公爵邸の庭園には、今日も穏やかな日差しが降り注いでいる。
「……ひぃっ! む、虫が……ハチが飛んでます!」
優雅なティータイム……のはずが、そこには相変わらずガタガタと震える女性の姿があった。
エルンスト公爵夫人、メフィアである。
彼女は高級な磁器のカップを両手で包み込み、小刻みに振動させている。
その振動により、紅茶の表面には美しい波紋(リプル)が広がり、香りが周囲に拡散されていた。
「奥様、お見事です!」
控えていたメイドたちが、うっとりと手を合わせる。
「虫の羽音に合わせて、ご自身の波長を同調させ、威嚇することなく平和的に追い払う……! なんと慈愛に満ちた波動でしょう!」
「さすが『聖女メフィア様』……! 今日も我々の魂が浄化されていくのを感じます!」
「ち、違います……! ただ怖いだけです……! 誰か追い払ってくださいぃぃ!」
メフィアの悲痛な叫びは、もはや「謙虚な聖女様の御言葉」として脳内変換されるのが常となっていた。
この数年で、メフィアの「小心者」という本性は、なぜか「高貴すぎて常人には理解できない聖なる振る舞い」として、国中に定着してしまったのだ。
「……相変わらず、崇められているな」
テラスから、呆れたような、しかし楽しげな声がかかる。
「あ、旦那様!」
現れたのは、宰相リュカ・エルンスト。
数年経ってもその美貌は衰えるどころか、大人の色気を増して破壊力が上がっている。
「助けてください! またメイドさんたちが集団幻覚を見ています!」
「放っておけ。……平和でいいではないか」
リュカはメフィアの隣に腰掛け、自然な動作で彼女の腰を引き寄せた。
「それより、メフィア。……今日は『記念日』だぞ」
「えっ? 何のでしたっけ? 結婚記念日は先月でしたし……」
「お前を拾った日だ」
「ああ! 私が城門前で野たれ死にそうになっていた、あの日ですね!」
「言い方を変えろ。『運命の出会いの日』だ」
リュカはメフィアの頬をつんと突いた。
「あれから数年……。お前は少しは図太くなったか?」
「なってませんよ! 毎日がサバイバルです!」
メフィアは抗議した。
「先週だって、隣国の使節団が来た時、緊張して水をこぼしたら『これが伝説の聖水シャワーか!』って感謝されて、壺を買わされそうになったんですよ!?」
「フッ……。あの壺、いい魔除けになりそうだったがな」
「買いませんからね!」
リュカはクスクスと笑い、メフィアの手を取った。
その薬指には、変わらず銀の指輪が光っている。
そして、その隣には――。
「……きゃっきゃ!」
足元から、可愛らしい声が聞こえた。
「あ、リュカジュニア! ダメよ、そこは危ないから!」
メフィアが慌てて抱き上げたのは、二人の間に生まれた息子、シオンだった。
銀色の髪に、紫色の瞳。
二人の特徴を受け継いだ天使のような幼児だが、その性格は……。
「パパ! ママがいじめてくる!」
シオンはリュカに抱きつき、ニヤリと笑った。
「……ほう? どういじめたんだ?」
「ママが震えて、ボクを『高い高い』してくれないの!」
「……シオン。それはママが怖いだけだ。いじめているわけじゃない」
「えー、つまんなーい。ママの震え、面白いのにー」
(うぅ……。性格は完全に旦那様似だわ……!)
メフィアはがっくりと項垂れた。
この屋敷には、私をいじって楽しむ「S」が二人に増えてしまったのだ。
「安心しろ、メフィア。……シオンは将来有望だ。お前の『小心者遺伝子』も少しは受け継いでいるかもしれん」
「どこがですか!? この子、昨日庭でヘビ捕まえてきて、私の枕元に置いたんですよ!?」
「それは私へのプレゼントだろう。……センスがいい」
「親子そろって感覚がおかしい!」
騒がしくも幸せな日常。
メフィアはふと、遠くの空を見上げた。
かつて、悪役令嬢として断罪され、全てを失ったあの日。
絶望の中で震えていた自分は、まさか数年後にこんな未来が待っているなんて、想像もしなかっただろう。
「……どうした、メフィア」
リュカが顔を覗き込む。
「泣きそうな顔をしているぞ。……また誰かにいじめられたか? 滅ぼしてやろうか?」
物騒な発言は相変わらずだ。
メフィアは首を横に振り、微笑んだ。
(相変わらず引きつった笑顔だけど)
「いえ……。幸せだなぁって、思っただけです」
「……」
「毎日怖いですけど、心臓止まりそうですけど……。でも、リュカ様とシオンがいてくれて、リリー様たちが遊びに来てくれて……」
メフィアはリュカの胸に寄りかかった。
「……私、ここに来て本当によかったです」
リュカは少し目を見開き、それから優しく目を細めた。
「……そうか」
彼はメフィアの頭を撫で、そしてシオンも一緒に抱き寄せた。
「私もだ。……お前という『退屈しないおもちゃ(愛妻)』を拾って、本当によかった」
「おもちゃって言いましたよね今!?」
「一生、私のそばで震えていろと言っただろう。……まだまだ楽しませてもらうぞ」
「ひぃぃ! お手柔らかにお願いしますぅぅ!」
公爵邸の庭に、悲鳴と笑い声が響き渡る。
「怒れる悪役令嬢」と呼ばれた小心者の少女は、最強の「氷の公爵」に溺愛され、今日も元気に(?)震え続けている。
その震えが止まる日は、きっと来ない。
だって、それが彼女の「幸せのサイン」なのだから。
(……あ、でもやっぱり、たまには一人でこたつに入りたいです……!)
メフィアの心の叫びは、春風に乗って空高く消えていった。
公爵邸の庭園には、今日も穏やかな日差しが降り注いでいる。
「……ひぃっ! む、虫が……ハチが飛んでます!」
優雅なティータイム……のはずが、そこには相変わらずガタガタと震える女性の姿があった。
エルンスト公爵夫人、メフィアである。
彼女は高級な磁器のカップを両手で包み込み、小刻みに振動させている。
その振動により、紅茶の表面には美しい波紋(リプル)が広がり、香りが周囲に拡散されていた。
「奥様、お見事です!」
控えていたメイドたちが、うっとりと手を合わせる。
「虫の羽音に合わせて、ご自身の波長を同調させ、威嚇することなく平和的に追い払う……! なんと慈愛に満ちた波動でしょう!」
「さすが『聖女メフィア様』……! 今日も我々の魂が浄化されていくのを感じます!」
「ち、違います……! ただ怖いだけです……! 誰か追い払ってくださいぃぃ!」
メフィアの悲痛な叫びは、もはや「謙虚な聖女様の御言葉」として脳内変換されるのが常となっていた。
この数年で、メフィアの「小心者」という本性は、なぜか「高貴すぎて常人には理解できない聖なる振る舞い」として、国中に定着してしまったのだ。
「……相変わらず、崇められているな」
テラスから、呆れたような、しかし楽しげな声がかかる。
「あ、旦那様!」
現れたのは、宰相リュカ・エルンスト。
数年経ってもその美貌は衰えるどころか、大人の色気を増して破壊力が上がっている。
「助けてください! またメイドさんたちが集団幻覚を見ています!」
「放っておけ。……平和でいいではないか」
リュカはメフィアの隣に腰掛け、自然な動作で彼女の腰を引き寄せた。
「それより、メフィア。……今日は『記念日』だぞ」
「えっ? 何のでしたっけ? 結婚記念日は先月でしたし……」
「お前を拾った日だ」
「ああ! 私が城門前で野たれ死にそうになっていた、あの日ですね!」
「言い方を変えろ。『運命の出会いの日』だ」
リュカはメフィアの頬をつんと突いた。
「あれから数年……。お前は少しは図太くなったか?」
「なってませんよ! 毎日がサバイバルです!」
メフィアは抗議した。
「先週だって、隣国の使節団が来た時、緊張して水をこぼしたら『これが伝説の聖水シャワーか!』って感謝されて、壺を買わされそうになったんですよ!?」
「フッ……。あの壺、いい魔除けになりそうだったがな」
「買いませんからね!」
リュカはクスクスと笑い、メフィアの手を取った。
その薬指には、変わらず銀の指輪が光っている。
そして、その隣には――。
「……きゃっきゃ!」
足元から、可愛らしい声が聞こえた。
「あ、リュカジュニア! ダメよ、そこは危ないから!」
メフィアが慌てて抱き上げたのは、二人の間に生まれた息子、シオンだった。
銀色の髪に、紫色の瞳。
二人の特徴を受け継いだ天使のような幼児だが、その性格は……。
「パパ! ママがいじめてくる!」
シオンはリュカに抱きつき、ニヤリと笑った。
「……ほう? どういじめたんだ?」
「ママが震えて、ボクを『高い高い』してくれないの!」
「……シオン。それはママが怖いだけだ。いじめているわけじゃない」
「えー、つまんなーい。ママの震え、面白いのにー」
(うぅ……。性格は完全に旦那様似だわ……!)
メフィアはがっくりと項垂れた。
この屋敷には、私をいじって楽しむ「S」が二人に増えてしまったのだ。
「安心しろ、メフィア。……シオンは将来有望だ。お前の『小心者遺伝子』も少しは受け継いでいるかもしれん」
「どこがですか!? この子、昨日庭でヘビ捕まえてきて、私の枕元に置いたんですよ!?」
「それは私へのプレゼントだろう。……センスがいい」
「親子そろって感覚がおかしい!」
騒がしくも幸せな日常。
メフィアはふと、遠くの空を見上げた。
かつて、悪役令嬢として断罪され、全てを失ったあの日。
絶望の中で震えていた自分は、まさか数年後にこんな未来が待っているなんて、想像もしなかっただろう。
「……どうした、メフィア」
リュカが顔を覗き込む。
「泣きそうな顔をしているぞ。……また誰かにいじめられたか? 滅ぼしてやろうか?」
物騒な発言は相変わらずだ。
メフィアは首を横に振り、微笑んだ。
(相変わらず引きつった笑顔だけど)
「いえ……。幸せだなぁって、思っただけです」
「……」
「毎日怖いですけど、心臓止まりそうですけど……。でも、リュカ様とシオンがいてくれて、リリー様たちが遊びに来てくれて……」
メフィアはリュカの胸に寄りかかった。
「……私、ここに来て本当によかったです」
リュカは少し目を見開き、それから優しく目を細めた。
「……そうか」
彼はメフィアの頭を撫で、そしてシオンも一緒に抱き寄せた。
「私もだ。……お前という『退屈しないおもちゃ(愛妻)』を拾って、本当によかった」
「おもちゃって言いましたよね今!?」
「一生、私のそばで震えていろと言っただろう。……まだまだ楽しませてもらうぞ」
「ひぃぃ! お手柔らかにお願いしますぅぅ!」
公爵邸の庭に、悲鳴と笑い声が響き渡る。
「怒れる悪役令嬢」と呼ばれた小心者の少女は、最強の「氷の公爵」に溺愛され、今日も元気に(?)震え続けている。
その震えが止まる日は、きっと来ない。
だって、それが彼女の「幸せのサイン」なのだから。
(……あ、でもやっぱり、たまには一人でこたつに入りたいです……!)
メフィアの心の叫びは、春風に乗って空高く消えていった。
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