婚約破棄、あざーす!悪役令嬢は田舎へ飛びたい。

パリパリかぷちーの

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「待て! 待つんだモナ! 俺が悪かった、話を聞いてくれ!」

背後からカイル殿下の情けない声が聞こえてくる。

だが、私は一度も振り返らなかった。

私の手は今、氷の公爵ことアレクシス様に引かれている。

その手は意外なほど大きく、そして温かかった。

もっとも、私の頭の中は今、掌にある小切手の金額のことでいっぱいなのだが。

「叔父上! その女は俺の婚約者だぞ!」

カイル殿下が追いすがろうとする気配がした。

けれど、アレクシス様がピタリと足を止め、肩越しに鋭い一瞥をくれるだけで、その足音は凍りついたように止まった。

「元、だろう」

「うっ……」

「それに、彼女は今、私と契約を結んだ。部外者が口を挟むな」

地を這うような低い声。

温度のない瞳に見据えられ、カイル殿下は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて尻餅をついたようだ。

(さすが、氷の公爵様。威圧スキルがカンストしてらっしゃる)

私は心の中で拍手を送る。

これからは、この強力な盾(ボス)の下で働けるのだ。

未払い残業代を踏み倒そうとする元婚約者など、恐るるに足らず。

私たちはそのまま大広間を出て、王城の車寄せへと向かった。

そこには、漆黒の馬車が待機していた。

王家の馬車ですら霞むような、重厚で艶やかな黒塗りの馬車だ。

ドアにはミランド公爵家の紋章である「氷狼」が銀色で描かれている。

御者が恭しく扉を開けた。

「どうぞ」

アレクシス様が私をエスコートしようと手を差し出す。

私はその手を借りつつ、しかし職業病とも言うべき習慣で、馬車のステップを靴底でコツコツと叩いて確認してしまった。

(……良い木材を使ってる。塗装も五重塗りね。メンテナンスが行き届いているわ)

乗り込んだ車内は、さらに驚愕の空間だった。

ふかふかのシートは最高級のベルベット張り。

窓枠には紫檀が使われ、足元には毛足の長い絨毯。

振動を吸収する魔道具まで設置されているのか、走り出しても揺れ一つ感じない。

(この馬車一台で、私の実家の屋敷が三回は建て直せる……!)

向かいの席に座ったアレクシス様を見つめ、私は改めてゴクリと唾を飲み込んだ。

この人は、歩く国家予算だ。

私の新しい雇い主は、想像以上の太客(ふときゃく)であるらしい。

馬車が動き出すと、車内には沈黙が降りた。

アレクシス様は腕を組み、窓の外を流れる夜景を見ている。

横顔は彫刻のように整っているが、眉間には深い皺が刻まれていた。

(……怒っているのかしら?)

いや、さっき契約は成立したはずだ。

もしかして、あの破格の年俸を後悔し始めたとか?

「あの、閣下」

「……アレクシスでいい」

「はっ、ではアレクシス様。先ほどの契約内容についてですが」

私は確認のために口を開いた。

雇用条件のすり合わせは、早ければ早いほどいい。

「私の業務範囲は『屋敷の管理』とのことでしたが、具体的には? 財務の立て直しですか? それとも使用人の人事管理? あるいは、領地経営のコンサルティングでしょうか」

アレクシス様はゆっくりとこちらに向き直った。

その瞳が、じっと私を射抜く。

「……君は、仕事のことしか頭にないのか?」

「はい? 雇われたのですから、当然では?」

「……そうか。まあ、いい」

彼は一つため息をつくと、少しだけ姿勢を崩した。

「特定の業務というよりは……君には、私の『近く』にいてほしい」

「近く、ですか」

私は脳内検索をかけた。

『近くにいる業務』。

つまり、秘書兼ボディーガードのようなものだろうか?

あるいは、多忙な公爵様のために、常に即断即決できる補佐役が必要ということか。

「承知しました。常時帯同型の秘書業務ですね。スケジュール管理から雑務まで、お任せください」

「……秘書、か。まあ、当面はそういう名目でも構わない」

アレクシス様は何か言いたげに口籠ったが、結局それ以上は何も言わなかった。

(やっぱり口下手な人なのね)

コミュニケーションコストが高そうな上司だ。

だが、金払いが良いなら文句はない。

「ところで、君は……辛くないのか?」

「はい?」

「長年連れ添った婚約者に裏切られ、大勢の前で恥をかかされたのだ。普通なら、泣き叫んでもおかしくない場面だった」

アレクシス様の声には、わずかだが気遣うような響きがあった。

どうやら、私のメンタルヘルスを心配してくれているらしい。

福利厚生の一環だろうか。

私はニッコリと笑って答えた。

「全く辛くありません。むしろ、不良債権を切り離せた喜びでいっぱいです」

「ふ、不良債権……」

「ええ。カイル殿下は、投資対象として最悪でしたから。リターン(愛情・感謝)は見込めないし、維持コスト(ストレス・疲労)ばかりかかる。損切りするタイミングを計っていたので、向こうから契約解除を申し出てくれて助かりました」

「……君は、本当にブレないな」

アレクシス様は呆れたように、けれどどこか楽しげに目を細めた。

「俺の周りには、金や地位目当てで擦り寄ってくる人間ばかりだった。あるいは、俺の『氷の公爵』という二つ名に怯えて逃げ出すか、だ」

「まあ、確かに閣下の視線は室温を二、三度下げる効果がありそうですものね」

「……自覚はある」

「ですが、私は気にしません。私が興味あるのは、閣下が正当な対価(給料)を支払ってくださるかどうか、それだけですので」

「ふっ……くくく」

突然、アレクシス様が肩を震わせて笑い出した。

低く、喉の奥で鳴るような笑い声。

氷が溶けるような、不思議な色気があった。

「そうか。対価か。……いいだろう。君が望むだけ支払おう」

「言質、いただきましたよ?」

「ああ。その代わり、君のその能力……余すところなく俺のために使ってくれ」

「勿論です。骨の髄まで搾り取ってくださいませ」

(労働力的な意味で!)

私は力強く頷いた。

アレクシス様も満足げに頷く。

どうやら、お互いの利害は完全に一致したようだ。

(よかった。気難しそうな人だけど、話せばわかる合理的な方だわ)

私は安堵し、深くシートに身を預けた。

この時の私は、まだ気づいていなかった。

アレクシス様の言う「俺のために使ってくれ」という言葉の意味が、私の想定している「労働」とは、まるで次元が違うものであることに。



一時間ほど馬車に揺られ、私たちは公爵邸に到着した。

王都の一等地。

広大な敷地の中にそびえ立つ屋敷は、まさに「要塞」だった。

高い塀、厳重な門。

そして、本邸は黒っぽい石材で造られており、威圧感がすごい。

「……到着した」

アレクシス様のエスコートで馬車を降りる。

夜風が冷たい。

屋敷の玄関には、ずらりと使用人たちが整列していた。

執事服の初老の男性を筆頭に、メイドたちが十数名。

全員が緊張でカチコチに固まり、顔色が悪い。

(……お葬式?)

思わずそうツッコミたくなるような雰囲気だ。

アレクシス様が一歩踏み出すと、全員がビクッと肩を震わせた。

「お、お帰りなさいませ、旦那様!」

執事が声を張り上げる。

その額には冷や汗が滲んでいた。

アレクシス様は無言で頷き、私の背中に手を添えて前に押し出した。

「紹介する。今日からこの屋敷で暮らすことになった、モナ・バーンズだ」

「は、初めまして……?」

執事が困惑したように私を見る。

無理もない。

夜会帰りのドレス姿の女を、いきなり連れ帰ってきたのだから。

「彼女には、屋敷の全権を委ねる」

「ぜ、全権……でございますか?」

「ああ。私の妻として迎えるつもりだ」

「「「はあぁっ!?」」」

使用人たちの絶叫が夜空に響いた。

私も思わず「はあぁっ!?」と叫びそうになったが、ギリギリで飲み込んだ。

(妻!? いやいや、ちょっと待って)

私は慌ててアレクシス様の袖を引いた。

「閣下、ちょっと。契約内容と違います」

小声で抗議する。

アレクシス様は不思議そうに私を見下ろした。

「何がだ?」

「『妻』というのは、何かの隠語ですか? 『最高責任者』とか『総支配人』とか、そういう意味の業界用語でしょうか」

「……いや、文字通りの意味だが」

「ですが、私は『仕事』として雇われたはず」

「そうだな。公爵夫人としての『仕事』をしてくれればいい」

アレクシス様は平然と言い放った。

「対外的な防波堤となり、家政を取り仕切る。それが公爵夫人の務めだ。君の能力なら造作もないだろう?」

「それは……まあ、業務内容としては同じですが」

私は眉をひそめた。

確かに、貴族社会において「結婚」は家と家との契約であり、ビジネスライクな側面が強い。

特に高位貴族となれば、「白い結婚(契約結婚)」など珍しくもない。

(なるほど……つまり、こういうことか)

私は頭の中で素早く整理した。

この人は、女性不信で恋愛が面倒くさいのだ。

だから、金で割り切って働いてくれる「有能な管理人」を「妻」というポジションに据えて、面倒な社交や家政を丸投げしたいのだ。

愛だの恋だのを求められない、ドライな関係。

それを望んでいるに違いない。

(なんだ、それなら好都合じゃない!)

愛される必要がないなら、可愛げのない私でも務まる。

公爵夫人という肩書きがあれば、誰も文句は言えないし、権限も振るい放題だ。

「理解しました」

私はポンと手を打った。

「つまり、『契約上の妻(ビジネスパートナー)』として、この屋敷を完璧に運営しろということですね?」

「……まあ、入り口としてはそれでもいい」

アレクシス様は少し複雑そうな顔をしたが、否定はしなかった。

私は使用人たちに向き直り、ニッコリと笑った。

「皆様、ご紹介に預かりましたモナです。これから公爵家の経営改善(リストラ含む)に着手します。どうぞよろしく」

「ひっ……」

メイドの一人が悲鳴を上げた。

私の笑顔が怖かったのか、それとも「リストラ」という単語に反応したのか。

ともあれ、こうして私の「公爵夫人(仮)」としての生活が幕を開けた。

まずはこの、陰気で効率の悪そうな屋敷の改造から始めなければ。

私は手帳を開き、玄関ホールの照明を見上げながら呟いた。

「……暗い。この魔導ランプ、型が古すぎて魔力燃費が悪いですわね。全交換した方が長期的には安上がりだわ」

早速、私の瞳は「¥(エン)」マークになっていたかもしれない。

その様子を、アレクシス様がどこか愛おしげに見つめていることになど、気づきもしなかった。
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