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「……あ、あ、テステス。聞こえるか? 我が子よ」
早朝の公爵邸、主寝室。
まだ太陽も昇りきっていない薄暗がりの中、腹部に違和感を感じて目が覚めた。
目を開けると、そこには信じがたい光景があった。
アレクシス様が、私の平らなお腹に耳を押し当て、真剣な顔で話しかけているのだ。
「パパだぞ。……聞こえるか? アレクシス・ミランドだ。この国の公爵で、ママの夫だ」
「……旦那様」
「おっと、起こしたか? すまない。胎教(英才教育)の時間だと思って」
「まだ妊娠二ヶ月です。胎動どころか、耳も聞こえていません」
私は呆れて掛け布団を引き上げた。
「それに、なんで朝の四時に自己紹介しているんですか。赤ちゃんも寝ています」
「いや、優秀な遺伝子なら、早起きして市場の動向をチェックしているはずだ」
「私の遺伝子を過大評価しないでください」
妊娠が発覚してから数日。
「氷の公爵」改め「親バカ公爵」と化したアレクシス様の暴走は、留まるところを知らなかった。
「モナ。今日の予定だが」
アレクシス様が、サイドテーブルから分厚いファイルを取り出した。
「建築家に、屋敷の増築プランを作らせた」
「増築?」
「ああ。子供部屋だ。……とりあえず、東棟を全部改装して、屋内遊園地と、魔術訓練場と、専用の図書館を作る」
「却下です」
私は即答した。
「子供一人に一棟もいりません。掃除が大変です」
「だが、狭い部屋では感性が育たない!」
「六畳一間で十分です。狭い方が整理整頓のスキルが身につきます」
「むぅ……」
アレクシス様が唇を尖らせる。
世界最強の魔法使いが、妻の一言でシュンとなっている姿は、少し可愛い。
「……なら、これはどうだ」
彼は別のパンフレットを出した。
「最高級のベビー服カタログだ。王室御用達の職人が、最高級のシルクで……」
「赤ん坊はすぐ大きくなります。着られるのは数ヶ月です。高価なシルクなど、減価償却が悪すぎます」
「じゃあ、何を着せればいいんだ!」
「お古です。親戚や領民から募れば、タダで手に入ります」
「俺の子に、お古を!?」
アレクシス様が絶句する。
「エコです」
「……君は、ブレないな」
彼はガックリと肩を落とした。
「俺は……ただ、君と子供に、最高のものえを与えたいだけなのに」
その背中があまりに寂しげだったので、私は少し反省した。
(……言いすぎたかしら。彼なりに、父親になる責任を感じているのよね)
私はため息をつき、彼の手を取った。
「旦那様。……お気持ちは嬉しいです」
「モナ……」
「ですが、子供にとって最高の環境とは、豪華な部屋や服ではありません」
私はニッコリと笑った。
「『両親が仲良く、経済的に安定していること』。これに尽きます」
「……」
「ですから、無駄遣いは控えて、その分を『教育資金』として複利運用しましょう。ね?」
「……あ、ああ。そうだな」
アレクシス様は頷いたが、その目はまだ何かを考えているようだった。
その「何か」が、とんでもない行動に繋がるとは、この時の私は予想していなかった。
◇
その日の午後。
私は執務室で、産休に向けた引き継ぎ資料を作成していた。
すると、メイドのマリーが血相を変えて飛び込んできた。
「お、奥様! 大変です!」
「どうしたの? また旦那様が何か買い込んだ?」
「違います! お庭が……お庭が大変なことに!」
「庭?」
私はペンを置き、窓から中庭を見下ろした。
そして、言葉を失った。
「……な、なんですか、あれ」
いつもなら手入れされた芝生が広がる中庭が、一面の「氷の花畑」に変わっていた。
精巧に作られた氷のバラ、氷のユリ、氷のチューリップ。
それらが陽光を浴びて、ダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
そして、その中央に、アレクシス様が立っていた。
正装(軍服)に身を包み、なぜかマントを風になびかせている。
「……マリー。今、気温は?」
「春の陽気でございます」
「つまり、あれを維持するために、旦那様は膨大な魔力を垂れ流しているわけね」
私は頭を抱えた。
これは「ロマンチック」ではない。「エネルギーの浪費」だ。
「……行くわよ」
私は階段を駆け下り、中庭へと向かった。
◇
「……モナ」
私が中庭に出ると、アレクシス様が待ち構えていたかのように振り返った。
氷の花々に囲まれた彼は、まさに絵画のような美しさだった。
(……顔が良い。顔だけは本当に良いのよね、この人)
「旦那様。……これは何の真似ですか? 庭師のおじいさんが『植えたチューリップが凍った!』と泣いていましたよ」
「……すまない。後で解凍する」
アレクシス様は真剣な表情で、私に歩み寄ってきた。
その手には、何も持っていない。
いつものような高価なプレゼントも、花束もない。
ただ、彼自身がそこにいた。
「モナ。……話がある」
「なんでしょう? まさか、この氷の花を『溶けないうちに売れ』という無理難題ですか?」
「違う」
彼は私の目の前で立ち止まり、そして。
ドサッ。
その場に片膝をついた。
いわゆる、騎士の誓いのポーズだ。
「……え?」
周囲の使用人たちが、「きゃあぁっ!」「見た!?」「プロポーズよ!」と騒ぎ出す。
「旦那様? 服が汚れますよ?」
「構わない」
アレクシス様は、私の両手を包み込むように握りしめた。
その瞳は、出会った頃の冷徹な色は消え失せ、燃えるような情熱だけが宿っていた。
「モナ。……俺と、結婚してくれ」
「……はい?」
私は首を傾げた。
「あの、旦那様。記憶喪失ですか? 私たちは三年前に結婚しています。法的にも、神の前でも」
「わかっている」
「それに、お腹には子供もいます。今更そんな確認作業、必要ですか?」
「必要だ!」
アレクシス様が叫んだ。
「今までの契約は……不完全だった!」
「不完全?」
「ああ。最初は『雇用契約』だった。次は『借金返済のための契約』だった。そして三年前の結婚も……元を正せば『終身雇用』という名目の延長だった!」
彼は苦しげに顔を歪めた。
「俺は、君を縛り付けていた。……『公爵夫人』という仕事を与え、金を与え、君の能力を利用していただけかもしれない」
「……」
「だが、今は違う。子供が出来て、ようやくわかったんだ。……俺が君に求めているのは、仕事じゃない」
アレクシス様の手が、強く、熱く、私の手を握りしめる。
「俺は、ただの『アレクシス』として、ただの『モナ』を求めているんだ。……金も、能力も、公爵という肩書きも関係ない」
彼は、真っ直ぐに私を見上げた。
「もし俺が一文無しになっても。もし君が計算ができなくなっても。……それでも、君は俺の隣にいてくれるか?」
(……ああ、なるほど)
私はようやく理解した。
この人は、不安なのだ。
私が「仕事」として彼を愛しているのではないか。
「条件」が良いから一緒にいるだけではないか。
それが、子供が生まれるという変化を前にして、怖くなったのだ。
だから、すべての条件を取り払った、純粋な「求婚」をやり直したかったのだ。
なんて面倒くさくて、愛おしい男だろう。
「……バカですね、旦那様」
私はため息をつき、空いている手で彼の頬に触れた。
「一文無しになったら、私が稼ぎます」
「……っ」
「計算ができなくなったら、貴方が代わりに計算してください」
「……モナ」
「それに」
私は、周囲の氷の花を見渡した。
「こんな非効率で、何の生産性もない、ただ綺麗なだけの景色を作れるのは……世界中で貴方だけです」
私は彼の目の高さに合わせて、少しだけ屈んだ。
「貴方のその『無駄な情熱』こそが、私にとって最大の『配当(メリット)』なんです。……手放すわけないでしょう?」
「……!」
アレクシス様の瞳が潤む。
「じゃあ……」
「はい。……何度でも、結婚してあげますよ」
私が答えた瞬間。
パァァァァン!!
中庭の氷の花が一斉に砕け散り、キラキラと輝くダイヤモンドダストとなって舞い上がった。
「うおおおおお!! モナァァァァ!!」
アレクシス様が立ち上がり、私を抱きしめた。
「ありがとう! 愛している! 一生、いや来世まで離さない!」
「きゃっ! 苦しいです! 妊婦を圧迫しないで!」
「ああ、すまない! ……嬉しくて、つい」
彼は慌てて力を緩めたが、その顔は雪解けの春のように笑っていた。
「……さて、再契約成立だ。記念にこれを」
アレクシス様は、懐から小さな箱を取り出した。
「また指輪ですか? もう指が足りませんよ」
「違う。……これだ」
箱を開けると、中に入っていたのは。
「……鍵?」
古びた、真鍮の鍵だった。
「これは、公爵家の『隠し金庫』の鍵だ」
「隠し金庫!?」
私の目が「¥」マークに変わった。
「ああ。歴代当主が、緊急時のみに使うことを許された、裏資産だ。……王家の宝物庫に匹敵する額がある」
「な、なんですって……!?」
「これを、君に預ける」
アレクシス様は、私の掌に鍵を乗せた。
「俺の全財産、全権限、そして俺の命。……すべて、君が管理してくれ」
「……!!」
これは、ただのプレゼントではない。
「絶対服従」の証だ。
公爵家の全てを委ねるという、究極の信頼。
「……旦那様。後悔しませんか?」
「するわけがない。君に管理されるのが、俺の幸せだ」
「……わかりました」
私は鍵を、強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、今は熱く感じる。
「では、遠慮なく。……まずはこの隠し資産を元手に、子供のための『教育信託ファンド』を設立します」
「……夢がないな」
「現実的と言ってください。……さあ、部屋に戻りましょう。体が冷えます」
「ああ。……エスコートする」
アレクシス様は私を横抱きにし(やっぱり歩かせない気だ)、キラキラと光る氷の粒の中を歩き出した。
使用人たちが拍手で見送る中、私は旦那様の胸に顔を埋め、こっそりと笑った。
(……一文無しになっても、なんて言ったけど)
この隠し金庫があれば、孫の代まで遊んで暮らせる。
やっぱり、私の目に狂いはなかった。
最高の旦那様(優良物件)だわ。
……でも。
ふと、彼の心臓の音を聞きながら思う。
もし本当に金がなくなっても。
この温かさがあるなら、まあ、悪くないかもしれない。
なんて。
そんな甘い計算ミスを、私は許容することにした。
早朝の公爵邸、主寝室。
まだ太陽も昇りきっていない薄暗がりの中、腹部に違和感を感じて目が覚めた。
目を開けると、そこには信じがたい光景があった。
アレクシス様が、私の平らなお腹に耳を押し当て、真剣な顔で話しかけているのだ。
「パパだぞ。……聞こえるか? アレクシス・ミランドだ。この国の公爵で、ママの夫だ」
「……旦那様」
「おっと、起こしたか? すまない。胎教(英才教育)の時間だと思って」
「まだ妊娠二ヶ月です。胎動どころか、耳も聞こえていません」
私は呆れて掛け布団を引き上げた。
「それに、なんで朝の四時に自己紹介しているんですか。赤ちゃんも寝ています」
「いや、優秀な遺伝子なら、早起きして市場の動向をチェックしているはずだ」
「私の遺伝子を過大評価しないでください」
妊娠が発覚してから数日。
「氷の公爵」改め「親バカ公爵」と化したアレクシス様の暴走は、留まるところを知らなかった。
「モナ。今日の予定だが」
アレクシス様が、サイドテーブルから分厚いファイルを取り出した。
「建築家に、屋敷の増築プランを作らせた」
「増築?」
「ああ。子供部屋だ。……とりあえず、東棟を全部改装して、屋内遊園地と、魔術訓練場と、専用の図書館を作る」
「却下です」
私は即答した。
「子供一人に一棟もいりません。掃除が大変です」
「だが、狭い部屋では感性が育たない!」
「六畳一間で十分です。狭い方が整理整頓のスキルが身につきます」
「むぅ……」
アレクシス様が唇を尖らせる。
世界最強の魔法使いが、妻の一言でシュンとなっている姿は、少し可愛い。
「……なら、これはどうだ」
彼は別のパンフレットを出した。
「最高級のベビー服カタログだ。王室御用達の職人が、最高級のシルクで……」
「赤ん坊はすぐ大きくなります。着られるのは数ヶ月です。高価なシルクなど、減価償却が悪すぎます」
「じゃあ、何を着せればいいんだ!」
「お古です。親戚や領民から募れば、タダで手に入ります」
「俺の子に、お古を!?」
アレクシス様が絶句する。
「エコです」
「……君は、ブレないな」
彼はガックリと肩を落とした。
「俺は……ただ、君と子供に、最高のものえを与えたいだけなのに」
その背中があまりに寂しげだったので、私は少し反省した。
(……言いすぎたかしら。彼なりに、父親になる責任を感じているのよね)
私はため息をつき、彼の手を取った。
「旦那様。……お気持ちは嬉しいです」
「モナ……」
「ですが、子供にとって最高の環境とは、豪華な部屋や服ではありません」
私はニッコリと笑った。
「『両親が仲良く、経済的に安定していること』。これに尽きます」
「……」
「ですから、無駄遣いは控えて、その分を『教育資金』として複利運用しましょう。ね?」
「……あ、ああ。そうだな」
アレクシス様は頷いたが、その目はまだ何かを考えているようだった。
その「何か」が、とんでもない行動に繋がるとは、この時の私は予想していなかった。
◇
その日の午後。
私は執務室で、産休に向けた引き継ぎ資料を作成していた。
すると、メイドのマリーが血相を変えて飛び込んできた。
「お、奥様! 大変です!」
「どうしたの? また旦那様が何か買い込んだ?」
「違います! お庭が……お庭が大変なことに!」
「庭?」
私はペンを置き、窓から中庭を見下ろした。
そして、言葉を失った。
「……な、なんですか、あれ」
いつもなら手入れされた芝生が広がる中庭が、一面の「氷の花畑」に変わっていた。
精巧に作られた氷のバラ、氷のユリ、氷のチューリップ。
それらが陽光を浴びて、ダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
そして、その中央に、アレクシス様が立っていた。
正装(軍服)に身を包み、なぜかマントを風になびかせている。
「……マリー。今、気温は?」
「春の陽気でございます」
「つまり、あれを維持するために、旦那様は膨大な魔力を垂れ流しているわけね」
私は頭を抱えた。
これは「ロマンチック」ではない。「エネルギーの浪費」だ。
「……行くわよ」
私は階段を駆け下り、中庭へと向かった。
◇
「……モナ」
私が中庭に出ると、アレクシス様が待ち構えていたかのように振り返った。
氷の花々に囲まれた彼は、まさに絵画のような美しさだった。
(……顔が良い。顔だけは本当に良いのよね、この人)
「旦那様。……これは何の真似ですか? 庭師のおじいさんが『植えたチューリップが凍った!』と泣いていましたよ」
「……すまない。後で解凍する」
アレクシス様は真剣な表情で、私に歩み寄ってきた。
その手には、何も持っていない。
いつものような高価なプレゼントも、花束もない。
ただ、彼自身がそこにいた。
「モナ。……話がある」
「なんでしょう? まさか、この氷の花を『溶けないうちに売れ』という無理難題ですか?」
「違う」
彼は私の目の前で立ち止まり、そして。
ドサッ。
その場に片膝をついた。
いわゆる、騎士の誓いのポーズだ。
「……え?」
周囲の使用人たちが、「きゃあぁっ!」「見た!?」「プロポーズよ!」と騒ぎ出す。
「旦那様? 服が汚れますよ?」
「構わない」
アレクシス様は、私の両手を包み込むように握りしめた。
その瞳は、出会った頃の冷徹な色は消え失せ、燃えるような情熱だけが宿っていた。
「モナ。……俺と、結婚してくれ」
「……はい?」
私は首を傾げた。
「あの、旦那様。記憶喪失ですか? 私たちは三年前に結婚しています。法的にも、神の前でも」
「わかっている」
「それに、お腹には子供もいます。今更そんな確認作業、必要ですか?」
「必要だ!」
アレクシス様が叫んだ。
「今までの契約は……不完全だった!」
「不完全?」
「ああ。最初は『雇用契約』だった。次は『借金返済のための契約』だった。そして三年前の結婚も……元を正せば『終身雇用』という名目の延長だった!」
彼は苦しげに顔を歪めた。
「俺は、君を縛り付けていた。……『公爵夫人』という仕事を与え、金を与え、君の能力を利用していただけかもしれない」
「……」
「だが、今は違う。子供が出来て、ようやくわかったんだ。……俺が君に求めているのは、仕事じゃない」
アレクシス様の手が、強く、熱く、私の手を握りしめる。
「俺は、ただの『アレクシス』として、ただの『モナ』を求めているんだ。……金も、能力も、公爵という肩書きも関係ない」
彼は、真っ直ぐに私を見上げた。
「もし俺が一文無しになっても。もし君が計算ができなくなっても。……それでも、君は俺の隣にいてくれるか?」
(……ああ、なるほど)
私はようやく理解した。
この人は、不安なのだ。
私が「仕事」として彼を愛しているのではないか。
「条件」が良いから一緒にいるだけではないか。
それが、子供が生まれるという変化を前にして、怖くなったのだ。
だから、すべての条件を取り払った、純粋な「求婚」をやり直したかったのだ。
なんて面倒くさくて、愛おしい男だろう。
「……バカですね、旦那様」
私はため息をつき、空いている手で彼の頬に触れた。
「一文無しになったら、私が稼ぎます」
「……っ」
「計算ができなくなったら、貴方が代わりに計算してください」
「……モナ」
「それに」
私は、周囲の氷の花を見渡した。
「こんな非効率で、何の生産性もない、ただ綺麗なだけの景色を作れるのは……世界中で貴方だけです」
私は彼の目の高さに合わせて、少しだけ屈んだ。
「貴方のその『無駄な情熱』こそが、私にとって最大の『配当(メリット)』なんです。……手放すわけないでしょう?」
「……!」
アレクシス様の瞳が潤む。
「じゃあ……」
「はい。……何度でも、結婚してあげますよ」
私が答えた瞬間。
パァァァァン!!
中庭の氷の花が一斉に砕け散り、キラキラと輝くダイヤモンドダストとなって舞い上がった。
「うおおおおお!! モナァァァァ!!」
アレクシス様が立ち上がり、私を抱きしめた。
「ありがとう! 愛している! 一生、いや来世まで離さない!」
「きゃっ! 苦しいです! 妊婦を圧迫しないで!」
「ああ、すまない! ……嬉しくて、つい」
彼は慌てて力を緩めたが、その顔は雪解けの春のように笑っていた。
「……さて、再契約成立だ。記念にこれを」
アレクシス様は、懐から小さな箱を取り出した。
「また指輪ですか? もう指が足りませんよ」
「違う。……これだ」
箱を開けると、中に入っていたのは。
「……鍵?」
古びた、真鍮の鍵だった。
「これは、公爵家の『隠し金庫』の鍵だ」
「隠し金庫!?」
私の目が「¥」マークに変わった。
「ああ。歴代当主が、緊急時のみに使うことを許された、裏資産だ。……王家の宝物庫に匹敵する額がある」
「な、なんですって……!?」
「これを、君に預ける」
アレクシス様は、私の掌に鍵を乗せた。
「俺の全財産、全権限、そして俺の命。……すべて、君が管理してくれ」
「……!!」
これは、ただのプレゼントではない。
「絶対服従」の証だ。
公爵家の全てを委ねるという、究極の信頼。
「……旦那様。後悔しませんか?」
「するわけがない。君に管理されるのが、俺の幸せだ」
「……わかりました」
私は鍵を、強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、今は熱く感じる。
「では、遠慮なく。……まずはこの隠し資産を元手に、子供のための『教育信託ファンド』を設立します」
「……夢がないな」
「現実的と言ってください。……さあ、部屋に戻りましょう。体が冷えます」
「ああ。……エスコートする」
アレクシス様は私を横抱きにし(やっぱり歩かせない気だ)、キラキラと光る氷の粒の中を歩き出した。
使用人たちが拍手で見送る中、私は旦那様の胸に顔を埋め、こっそりと笑った。
(……一文無しになっても、なんて言ったけど)
この隠し金庫があれば、孫の代まで遊んで暮らせる。
やっぱり、私の目に狂いはなかった。
最高の旦那様(優良物件)だわ。
……でも。
ふと、彼の心臓の音を聞きながら思う。
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