もう何も奪わせない。私が悪役令嬢になったとしても。

パリパリかぷちーの

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クロンターリ伯爵邸からの帰りの馬車は、行きとは比べものにならないほど重苦しい沈黙に満ちていた。

私は馬車の窓から、急速に遠ざかっていく夜会の灯りを、冷めた目で見つめていた。

あの夜会で、私は確かに「悪役令嬢」としての第一歩を踏み出した。

私を嘲笑し、憐れんでいた者たちは、今頃私の「変貌」ぶりを酒の肴にしていることだろう。

それでいい。

噂は、大きく広がれば広がるほどいい。

「エレノア・ヴァルガスは狂った」とでも、「恐ろしい女になった」とでも、好きに言わせておけばいい。

だが、それだけでは足りない。

勢い任せに悪態をついただけでは、ヴァルガス家が置かれた苦しい状況は何も変わらない。

屋敷に戻り、重い足取りで父の書斎へ向かうと、父はまだ起きていた。

「……エレノアか」

父は、机に山と積まれた書類を前に、深くため息をついていた。

「お父様。状況は、やはり?」

「……芳しくない。クロンターリ伯爵は、我らとの長年の付き合いを慮(おもんぱか)って夜会への参加を認めてくれたが、他の者たちはそうもいかないようだ。取引停止の申し出が、後を絶たない」

父の顔には、疲労と悔しさが色濃く浮かんでいる。

「エドワード王子とリリアン王女は、今や『悲劇を乗り越えた真実の愛』として、民衆の一部からもてはやされているらしい。リリアン王女の可憐さと、それを守る王子の姿が、美談に仕立て上げられている」

「……馬鹿な話ですわ」

私から婚約者を奪った強奪者たちが、今や悲劇のヒロインとヒーローだというのか。

「情報が……。我らには、情報が足りなすぎる」

父が、こめかみを押さえながら呟いた。

「王宮で何が起こっているのか。リリアン王女が、隣国からどのような意図で送り込まれてきたのか。エドワード王子が、なぜあれほど簡単に私を切り捨てたのか……。その裏が、何も見えてこない」

そうだ。

私は、ただただ理不尽に打ちのめされ、感情的に反発しただけだ。

彼らがどのような策略を巡らせ、私を陥れたのか、その全貌を何も知らない。

このままでは、ただの負け犬の遠吠えだ。

その時、私の脳裏に、あの夜会で会った青年の顔が浮かんだ。

『私は、あの日の恩を決して忘れてはいません』
『あなたが戦うと決めたのなら、私は喜んであなたの剣となり、盾となりましょう』

アルベール・デュ・ランティエ。

あの男は、一体何者なのだろう。

あの時は、動揺して深く考える余裕もなかったが、今思えば不可解なことばかりだ。

なぜ、あのタイミングで私に声をかけた?

なぜ、私が「戦う」と決めたことを見抜いた?

そして、何より、あの貴族たちの社交場において、私に近づくことがどれほどのリスクになるか、分かっているはずなのに。

彼は、平然と私に協力を申し出た。

「……お父様」

私は、意を決して父に向き直った。

「私に、考えがございます」

「エレノア?」

「私に、動くための一つか二つの駒が必要ですわ。それも、王宮のしがらみに縛られていない、全く新しい駒が」

翌日、私はヴァルガス家が持つささやかな情報網を使い、アルベール・デュ・ランティエという男の素性を洗わせた。

しかし、分かったことは驚くほど少なかった。

彼は数ヶ月前に王都に現れたこと。

いくつかの目利きが必要な美術品や古書の取引で、莫大な利益を上げているらしいこと。

そして、「デュ・ランティエ」という家名が、どの貴族名鑑にも載っていない、謎の多い人物であること。

ますます怪しい。

だが、私にはもう、確実な安全など求めている余裕はなかった。

私は彼が滞在しているという、王都の旧市街にある一軒家を突き止めた。

貴族が住むにはあまりに質素な、しかし、人目を忍ぶには都合のいい場所だった。

私はアンナにも行き先を告げず、護衛もつけず、たった一人で馬車を降り、その家の扉を叩いた。

「……どちら様で」

扉を開けたのは、執事風の老人だった。

「エレノア・フォン・ヴァルガスと申します。アルベール様に、お取り次ぎを」

老人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情に戻り、「主がお待ちかねです」と私を中へといざなった。

待っていた?

通されたのは、壁一面が書物で埋め尽くされた書斎だった。

暖炉の火が静かにはぜる中、アルベールは窓辺の椅子に座り、一冊の古い本を読んでいた。

私が入室しても、彼はすぐに顔を上げなかった。

「……何の御用でしょうか、エレノア様。このような場所に、侯爵令嬢が一人で訪れるなど、感心いたしませんね」

彼は、本から目を離さずに言った。

「あなたに、昨夜の返事をいただきに参りましたわ」

「返事、と申しますと?」

「とぼけないでちょうだい。あなたは、私の剣となり、盾となると言ったはずよ」

私は、彼の前に真っ直ぐに進み出た。

「その言葉が真実ならば、今すぐそれを証明していただきたい」

そこで初めて、アルベールはゆっくりと本を閉じ、私を見上げた。

彼の瞳は、あの夜会で見た時と同じ、静かな知性を宿していた。

「……何を、お望みで?」

「情報よ」

私は、一気にまくし立てた。

「リリアン・フォン・エルステッド。彼女がこの国に来た本当の理由、彼女の周囲にいる人間、彼女の過去。すべてが知りたい」

「……」

「そして、エドワード王子。彼がリリアン様に籠絡(ろうらく)された経緯、王宮内での彼らの動向、彼らの弱点。私が反撃に転じるために必要な、あらゆる情報を」

アルベールは、私の言葉を黙って聞いていた。

そして、私が話し終えると、ふっと息をつくように微笑んだ。

「……ようやく、その目になられましたか」

「どういう意味ですの」

「昨夜の貴女は、まだ迷いを捨てきれていなかった。怒りと絶望の底で、かろうじて立っているだけだった。だが、今の貴女の瞳には、明確な『意志』がある」

アルベールは椅子から立ち上がり、私に顔を近づけた。

「よろしいでしょう。その『恩』、お返しいたします」

「……あなたは何者なの。なぜ、私にそこまでするの」

私の問いに、彼は首を横に振った。

「私のことは、今はどうでもよろしいでしょう。ただ、私はあなたの戦いを助けたい。それだけは真実です」

「……報酬は?」

「報酬、ですか」

アルベールは、少し面白そうに言った。

「私が欲しいのは金銭ではありません。……そうですね。報酬は、あなたの復讐が、いえ……あなたの望む未来が実現した時に、いただくことにしましょう」

それは、あまりにも不確かで、危険な契約だった。

だが、私はもう退(ひ)けない。

「いいわ。その契約、受けましょう」

私は、彼に手を差し出した。

「ただし、アルベール。あなたが私を裏切った時は、私も容赦はしないわ」

アルベールは、私の差し出した手を取らなかった。

代わりに、彼は私の手の甲に、貴族の礼のように、しかしそれよりもずっと親密に、軽く唇を寄せた。

「御意のままに、我が主(あるじ)よ」

その瞬間、反撃の狼煙(のろし)は、確かに上がったのだ。
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