もう何も奪わせない。私が悪役令嬢になったとしても。

パリパリかぷちーの

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貴族議会での嵐が過ぎ去り、王都は、まるで何事もなかったかのように、表面的な静けさを取り戻していた。

だが、水面下では、激しい流動が始まっていた。

王妃とエドワード王子が失脚したことで、王家の権力に巨大な空白が生まれたのだ。

腐敗の根として断罪された貴族たちの後釜を狙う者。

王妃派から、いち早くヴァルガス家へ鞍替えしようと媚を売る者。

わたくしの屋敷には、昼夜を問わず、そうした貴族たちからの面会依頼が殺到していた。

「……愚かな者たち」

わたくしは、招待状の山を、暖炉の火にくべる。

父は、ヴァルガス家の当主として、国王陛下からの信頼回復と、領地経営の立て直しに奔走している。

だが、この国の貴族社会の、どす黒い部分……すなわち、セドリック様と共に戦う「裏」の戦いは、全てわたくしが引き受けていた。

もはや、わたくしは「侯爵令嬢」ではない。

ヴァルガス家の、実質的な「当主代理」であり、ランティエ家の「同盟者」。

それが、今のわたくしの肩書だった。

「……エレノア様。また、根を詰めておいでですね」

ふわりと、上質な茶葉の香りがした。

顔を上げると、アルベール様が、いつの間にか部屋におり、わたくしの前に温かいティーカップを差し出していた。

「……あなた、気配を消して入ってくるのは、やめてちょうだい。心臓に悪いわ」

「これは失礼を。ですが、貴女がこうして書斎に籠られてから、すでに三日目の夜でございますよ」

彼の言う通りだった。

セドリック様がもたらす、エルステッドの残党や、国内の腐敗貴族の動向を探る資料は、膨大を極めた。

休む暇など、あるはずもない。

「ありがとう。……でも、今はいいわ。それよりも、次の報告書を」

わたくしが、カップに手を伸ばさず、次の書類を要求すると、アルベール様は、困ったように眉を下げた。

彼は、わたくしの手から、強引とも言える手つきで、ペンと書類を取り上げた。

「何をするの、アルベール!」

「セドリック兄さんからの指示です。『同盟相手が過労で倒れては、元も子もない。少し休ませろ』と」

「セドリック様が、そんな人間らしいことを……?」

「いいえ。後半は、私の独断です」

アルベール様は、そう言うと、わたくしの向かいの椅子に、どかりと腰を下ろした。

それは、臣下の態度ではなく、まるで、対等な友人か……それ以上のような、無遠慮な仕草だった。

「……あなたのその態度は、兄であるセドリック様の前でも、同じなのかしら」

「まさか。兄さんの前では、私も『有能な弟』を演じておりますよ。……貴女が、ここで『冷徹な悪役令嬢』を演じておられるように」

「……!」

彼の言葉に、わたくしは胸を突かれた。

わたくしは、この男の前では、いつも「素」の部分を見抜かれている気がして、居心地が悪かった。

「……余計なお世話よ」

「ええ。重々承知しております」

アルベール様は、自らも紅茶を一口含むと、カップを置いて、わたくしを真っ直ぐに見つめた。

「エレノア様。……貴女は、私が街道で倒れていた時と、同じ目をなさっている」

「……」

「全てを、たった一人で背負い込んで。誰にも弱音を吐かず。……今にも、折れてしまいそうなほど、張り詰めている」

その言葉は、かつて、エドワード様がわたくしに求めた「完璧さ」とは、全く違うものだった。

彼は、わたくしの「強さ」を称賛するのではない。

わたくしの「弱さ」を、心配しているのだ。

「……セドリック様は、わたくしを『最強の駒』だと、そう仰ったわね」

わたくしは、わざと、冷たい声で言った。

「あなたも、そう思っているのでしょう?わたくしが、ランティエ家の復讐のために『使える』と」

わたくしの棘のある言葉に、アルベール様の表情が、初めて、痛みを堪えるかのように歪んだ。

「……兄は、そう思っております」

彼は、静かに答えた。

「兄は、貴女の聡明さと、貴族社会を動かせるその立場を、我らの目的のために最大限に『利用』しようとしている。……そして、私は、それがひどく、気に入らない」

「……気に入らない?」

「兄は、貴女を『駒』としてしか見ていない。だが、私は違う」

アルベール様が、椅子から立ち、わたくしの前に進み出た。

彼との距離が、近すぎる。

わたくしは、後ずさることができなかった。

「私は、貴女のその『悪役令嬢』の仮面の下にある、本当の姿を知っている。あの街道で、見ず知らずの、汚い男のために、護衛に逆らってまで馬車を降りた、貴女の『優しさ』を」

「……」

「貴女は、ご家族を守るために、その優しさを、冷たい仮面の下に隠した。……違うか?」

わたくしの心を、この男は、いとも簡単に見透かしてくる。

わたくしは、彼の視線から逃れるように、顔を伏せた。

「……アルベール」

「はい」

「……もし、この戦いが、全て終わったら」

わたくしは、何を言っているのだろう。

自分でも、分からなかった。

「わたくしが、『悪役令嬢』でいる必要がなくなったら。……わたくしが、ただの『エレノア』に戻ってしまったら」

わたくしは、顔を上げた。

「あなたの『剣』である必要が、もうなくなったら……。あなたは、どこかへ、行ってしまうのかしら」

それは、わたくし自身も予期しなかった、本心だった。

アルベール様が、目を見開いた。

彼の、あのいつも余裕のある表情が、驚きと、信じられないというような喜びで、揺らいでいる。

「……エレノア、様」

彼は、わたくしの手を取った。

あの夜、エドワード様が掴もうとして、わたくしが拒絶した、その手。

だが、アルベール様の手は、力強いのに、ひどく優しかった。

その温もりに、わたくしは、なぜか手を引くことができなかった。

「私が、初めて貴女に救われた、あの街道の日から」

彼は、わたくしの手の甲に、そっと唇を寄せるでもなく、ただ、両手で包み込むように握りしめた。

「私の命は、貴女のものです。貴女が『悪役令嬢』として戦場に立たれるなら、私は剣となる。貴女が、ただの『エレノア』として穏やかな日々を望まれるなら、私は貴女を守る盾となる」

「……それは、恩返しなの?」

わたくしは、かろうじて、そう尋ねた。

「いいえ」

アルベール様は、わたくしを見つめるその瞳に、初めて、兄セドリック様とは違う、彼個人の、燃えるような熱情を宿らせた。

「……それは、私が、貴女という人間を、心から、お慕い申しているからです」

「……!」

「貴女の『剣』であることは、貴女の傍らにいるための、私の、唯一の『口実』にすぎません」

エドワード様がわたくしに向けた、『所有欲』。

貴族たちがわたくしに向ける、『政略』。

それらとは、全く違う。

彼は、わたくしの地位も、家柄も、利用価値も、全てを通り越して。

ただ、わたくしという「人間」を、見ている。

「……アルベールの、馬鹿」

わたくしの口から、そんな言葉がこぼれた。

悪役令嬢の、冷たい仮面が、この男の前でだけは、音を立てて、溶けていく。

復讐の果てに、全てを失う覚悟を決めていたわたくしの心に、今、確かに、彼という温かい光が、差し込んでいた。
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