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「おはようございます、サイラス様。今日も素晴らしい朝を運んできてくれて、心から感謝いたしますわ」
翌朝。私はベッドから起き上がるなり、完璧な角度の会釈と共に、最上級の慈愛を込めた言葉を放った。
もちろん、語尾に「わ」を付けるのは忘れない。これは公爵令嬢としてのアイデンティティだ。ただし、これまでの「踏み潰して差し上げますわ!」という攻撃的な響きではない。そよ風に揺れる花びらのような、可憐な響きを目指したのだ。
……ガシャン。
目の前で、サイラスが持っていた銀のトレイが床に滑り落ちた。
ティーカップが踊り、高級な茶葉の香りが寝室に広がる。普段、鉄の仮面のような無表情を崩さない彼が、目を見開いて硬直していた。
「……お嬢様。今、私のことをなんと呼びましたか?」
「あら、サイラス様とお呼びしたのですわ。あなたは長年私を支えてくれた、家族も同然の存在。敬意を払うのは当然のことでしょう?」
私はベッドの上に座ったまま、聖母のような微笑みを崩さない。
心の中では「トレイを落とすなんて、後で減俸よ!」と叫びたい衝動に駆られていたが、それを飲み込むのが『淑女の皮』というものだ。
サイラスは無言で歩み寄ると、私の額にガシッと思いきり手を当てた。
「冷たい……いえ、熱はありませんね。しかし、明らかに脳の機能に異常をきたしているようです。すぐに主治医を呼びましょう。脳が腐食し始めている可能性があります」
「失礼なことを言わないでくださる? 脳はいたって健康よ。腐食しているのは、これまでの私の性格の方ですわ」
「それを認めるあたり、やはり末期ですね。お嬢様、落ち着いて聞いてください。私はただの執事です。『様』をつけて呼ばれるような身分ではありません。それとも、新しい嫌がらせのパターンですか? 慇懃無礼に接することで、私を精神的に追い詰めるおつもりですか?」
サイラスの目が、これまでにないほど鋭く光る。彼は本気で、私が新しいタイプの拷問を開発したと思っているらしい。
「違うわ。私はただ、これまでの非礼を詫び、心を入れ替えて、誰に対しても平等に慈しみを与えたいと思っているだけ……」
「『慈しみ』という言葉をお嬢様の口から聞く日が来るとは、明日は槍でも降るのでしょうか。いいえ、槍ならまだいい。空から巨大な馬糞でも降ってくる前触れに違いありません」
「例えが最悪ですわよ、サイラス! ……あ、ふふっ。冗談が過ぎますわね。さあ、汚してしまった床を片付けてちょうだい。私は自分で着替えを済ませますから」
私が立ち上がってクローゼットへ向かおうとすると、サイラスが素早い動きで私の前に立ちはだかった。
その手には、いつの間にか体温計が握られていた。
「お嬢様、失礼。脇を出してください」
「な、なんですの、いきなり!?」
「強制検温です。お嬢様の精神がこれほどまでに変容するということは、魔力暴走による高熱か、あるいは邪悪な精霊に憑依されたかのどちらかです。もし熱が平熱であれば、即座に教会から除霊師を呼びます」
「除霊師!? 私を悪魔か何かだと思っているの!?」
「悪魔に失礼ですよ。悪魔は契約を守りますが、お嬢様は自分の気分だけで契約を破り、相手を破滅させるお方ですから」
「……言い返せないのが辛いわ……」
私はガックリと肩を落とした。
結局、私はサイラスによってベッドに押し戻され、脇に体温計を挟まれる羽目になった。
「……三十六度五分。極めて正常ですね。お嬢様、正直に仰ってください。どこでその変なキノコを食べてこられたのですか?」
「キノコなんて食べてないわよ! サイラス、あなた、私がまともになろうと努力するのがそんなに信じられないの?」
私はついに我慢できず、少しだけ地が出た声で訴えた。
サイラスは体温計を片付けると、深いため息をついて私を見つめた。
「信じる、信じないの問題ではありません。お嬢様が『まとも』になるということは、狼が今日から菜食主義者になると宣言するのと同じくらい現実味がないのです」
「例えがいちいちトゲだらけですわね……。いい? 私は本気なの。学園入学まで、あと一ヶ月。それまでに私は、セドリック様が二度見するほどの聖女にならなければならないのよ。私の『首』がかかっているんだから!」
「『首』ですか。……まあ、殿下へのこれまでの態度を考えれば、いつ物理的に首が飛んでもおかしくはありませんでしたが」
サイラスは顎に手を当てて、ようやく少しだけ納得したような顔を見せた。
「なるほど。死の恐怖が、お嬢様の脳内に奇跡的な化学反応を起こしたわけですね。理解しました」
「わかってくれたのね! じゃあ、協力してくれるわね?」
「……仕方がありませんね。お嬢様が偽りの聖女を演じきれず、途中で発狂して周囲に毒を撒き散らさないよう、私が厳しく監視して差し上げましょう。まずはその、不自然な『おほほ笑み』の矯正からです」
サイラスは、落ちたトレイを拾い上げると、冷酷なまでの微笑を浮かべた。
「お嬢様、今日から一週間、おやつは抜きです。淑女たるもの、空腹すらも優雅な微笑みで耐え忍ぶべきですから」
「なっ……おやつ抜き!? それは死活問題だわ!」
「ほら、すぐそうやって声を荒らげる。……微笑むのです。おほほ、ではなく、ふふっ、です」
「……ふふ……ふふふ……(おのれサイラス、絶対に許さないんだから!)」
私の入学前特訓は、予想以上に過酷なものになりそうだった。
鏡の中の私は、相変わらず引きつった笑みを浮かべていた。
けれど、その目は「生き残る」という執念でギラギラと輝いている。
聖女への道は、想像以上に険しい。
翌朝。私はベッドから起き上がるなり、完璧な角度の会釈と共に、最上級の慈愛を込めた言葉を放った。
もちろん、語尾に「わ」を付けるのは忘れない。これは公爵令嬢としてのアイデンティティだ。ただし、これまでの「踏み潰して差し上げますわ!」という攻撃的な響きではない。そよ風に揺れる花びらのような、可憐な響きを目指したのだ。
……ガシャン。
目の前で、サイラスが持っていた銀のトレイが床に滑り落ちた。
ティーカップが踊り、高級な茶葉の香りが寝室に広がる。普段、鉄の仮面のような無表情を崩さない彼が、目を見開いて硬直していた。
「……お嬢様。今、私のことをなんと呼びましたか?」
「あら、サイラス様とお呼びしたのですわ。あなたは長年私を支えてくれた、家族も同然の存在。敬意を払うのは当然のことでしょう?」
私はベッドの上に座ったまま、聖母のような微笑みを崩さない。
心の中では「トレイを落とすなんて、後で減俸よ!」と叫びたい衝動に駆られていたが、それを飲み込むのが『淑女の皮』というものだ。
サイラスは無言で歩み寄ると、私の額にガシッと思いきり手を当てた。
「冷たい……いえ、熱はありませんね。しかし、明らかに脳の機能に異常をきたしているようです。すぐに主治医を呼びましょう。脳が腐食し始めている可能性があります」
「失礼なことを言わないでくださる? 脳はいたって健康よ。腐食しているのは、これまでの私の性格の方ですわ」
「それを認めるあたり、やはり末期ですね。お嬢様、落ち着いて聞いてください。私はただの執事です。『様』をつけて呼ばれるような身分ではありません。それとも、新しい嫌がらせのパターンですか? 慇懃無礼に接することで、私を精神的に追い詰めるおつもりですか?」
サイラスの目が、これまでにないほど鋭く光る。彼は本気で、私が新しいタイプの拷問を開発したと思っているらしい。
「違うわ。私はただ、これまでの非礼を詫び、心を入れ替えて、誰に対しても平等に慈しみを与えたいと思っているだけ……」
「『慈しみ』という言葉をお嬢様の口から聞く日が来るとは、明日は槍でも降るのでしょうか。いいえ、槍ならまだいい。空から巨大な馬糞でも降ってくる前触れに違いありません」
「例えが最悪ですわよ、サイラス! ……あ、ふふっ。冗談が過ぎますわね。さあ、汚してしまった床を片付けてちょうだい。私は自分で着替えを済ませますから」
私が立ち上がってクローゼットへ向かおうとすると、サイラスが素早い動きで私の前に立ちはだかった。
その手には、いつの間にか体温計が握られていた。
「お嬢様、失礼。脇を出してください」
「な、なんですの、いきなり!?」
「強制検温です。お嬢様の精神がこれほどまでに変容するということは、魔力暴走による高熱か、あるいは邪悪な精霊に憑依されたかのどちらかです。もし熱が平熱であれば、即座に教会から除霊師を呼びます」
「除霊師!? 私を悪魔か何かだと思っているの!?」
「悪魔に失礼ですよ。悪魔は契約を守りますが、お嬢様は自分の気分だけで契約を破り、相手を破滅させるお方ですから」
「……言い返せないのが辛いわ……」
私はガックリと肩を落とした。
結局、私はサイラスによってベッドに押し戻され、脇に体温計を挟まれる羽目になった。
「……三十六度五分。極めて正常ですね。お嬢様、正直に仰ってください。どこでその変なキノコを食べてこられたのですか?」
「キノコなんて食べてないわよ! サイラス、あなた、私がまともになろうと努力するのがそんなに信じられないの?」
私はついに我慢できず、少しだけ地が出た声で訴えた。
サイラスは体温計を片付けると、深いため息をついて私を見つめた。
「信じる、信じないの問題ではありません。お嬢様が『まとも』になるということは、狼が今日から菜食主義者になると宣言するのと同じくらい現実味がないのです」
「例えがいちいちトゲだらけですわね……。いい? 私は本気なの。学園入学まで、あと一ヶ月。それまでに私は、セドリック様が二度見するほどの聖女にならなければならないのよ。私の『首』がかかっているんだから!」
「『首』ですか。……まあ、殿下へのこれまでの態度を考えれば、いつ物理的に首が飛んでもおかしくはありませんでしたが」
サイラスは顎に手を当てて、ようやく少しだけ納得したような顔を見せた。
「なるほど。死の恐怖が、お嬢様の脳内に奇跡的な化学反応を起こしたわけですね。理解しました」
「わかってくれたのね! じゃあ、協力してくれるわね?」
「……仕方がありませんね。お嬢様が偽りの聖女を演じきれず、途中で発狂して周囲に毒を撒き散らさないよう、私が厳しく監視して差し上げましょう。まずはその、不自然な『おほほ笑み』の矯正からです」
サイラスは、落ちたトレイを拾い上げると、冷酷なまでの微笑を浮かべた。
「お嬢様、今日から一週間、おやつは抜きです。淑女たるもの、空腹すらも優雅な微笑みで耐え忍ぶべきですから」
「なっ……おやつ抜き!? それは死活問題だわ!」
「ほら、すぐそうやって声を荒らげる。……微笑むのです。おほほ、ではなく、ふふっ、です」
「……ふふ……ふふふ……(おのれサイラス、絶対に許さないんだから!)」
私の入学前特訓は、予想以上に過酷なものになりそうだった。
鏡の中の私は、相変わらず引きつった笑みを浮かべていた。
けれど、その目は「生き残る」という執念でギラギラと輝いている。
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