11 / 28
11
しおりを挟む
「……ミア様。この $x$ というのは、未知数であって、決して行方不明になった近所の猫の名前ではありませんわ」
私は、震える指先で数学の教科書を指した。
学園の図書室、その一角に設けられた豪華な特別ブース。ここには今、私、セドリック様、そしてミア様の三人が揃っている。
本来なら、王子とその婚約者、そして彼らの仲を裂く(はずの)ヒロインという、血の雨が降ってもおかしくない修羅場のはずだが……現実はもっと過酷な「精神的拷問」の場と化していた。
「ええっ!? でもローリー様、この問題文には『 $x$ を求めよ』って書いてありますよ? 一生懸命探してあげないと、 $x$ ちゃんが可哀想です!」
ミア様が、本気で心配そうな顔をして私を見つめてくる。
(……神様。なぜこの子に、これほどまでの『天然』という名の破壊兵器をお与えになったのですか?)
私は内側で荒れ狂う「ふざけるな!」という猛獣を、必死に「おほほ」という檻に閉じ込めた。
「……ふふ。ミア様、その優しさはとても素晴らしいですわ。ですが、数学の世界では、探し出すのは猫ではなく数値なのです。……さあ、深呼吸をして。この式を見てくださいな」
私は、般若のような形相になりそうな顔を、無理やり「慈愛の微笑み」へと成形し直した。
その様子を、隣で優雅に紅茶を飲みながら眺めている男が一人。
「……くくっ。ローリー、顔が引きつっているぞ。そんなに感動したか? 彼女の独創的な解釈に」
セドリック様が、面白くて仕方がないという風に肩を揺らしている。
(……この王子、絶対に後で呪ってやるわ。藁人形に銀髪を植え付けてやるんだから!)
「……殿下。私はただ、ミア様の無限の可能性に光を当てているだけですわ。……ふふっ、殿下もお暇でしたら、私と一緒に彼女を導いて差し上げてはいかが?」
私は、これ以上ないほどの嫌味……ではなく、聖女らしい「提案」を投げかけた。
「いや、私はいい。君がいつ『その猫を保健所に連れて行きなさい!』と叫び出すか、特等席で見守らせてもらうよ」
セドリック様の目は、完全に私を観察対象として楽しんでいる。前回の「賭け」以来、彼は私の化けの皮を剥がそうと、ことあるごとに私を揺さぶってくるのだ。
「ローリー様! わかりました! この $x$ は、きっと『3』です! 直感がそう言っています!」
「……勘で解くのは占い師の仕事ですわ、ミア様。……いい? まずは両辺に同じ数をかけて……」
「両辺……? 右の頬を打たれたら左の頬も、ということですか?」
(……それは聖書よ! 今は数学の話をしてるの!)
「……ふふっ、ミア様。あなたは本当に、信仰心が厚くていらっしゃるのね。ですが、今は数字の神様に従いましょうか」
私はペンを握る手に力を込めた。ミシミシと音がしているが、気にしない。
一時間後。
ミア様のノートには、数式ではなく、可愛い猫(おそらく $x$ ちゃん)の落書きが埋め尽くされていた。
「……今日は、ここまでにしましょうか。ミア様、よく頑張りましたわね」
「はい! ローリー様のおかげで、数学が大好きになりました! 明日もまたお願いします!」
ミア様は満面の笑みで教科書を閉じると、嵐のように去っていった。
嵐が去った後の静寂。
私は、ガクンと机に突っ伏した。
「……し、死ぬ……。脳みそが、脳みそが溶けてプリンになっちゃう……」
「おや。ようやく聖女様が、本音を漏らしたか」
セドリック様の声が、すぐ近くで聞こえた。
気づけば、彼は私の頭を覗き込むようにして立っていた。
「……殿下。まだいらしたのですか」
私は顔を上げず、机に顔を埋めたまま答えた。もはや表情を作る体力すら残っていない。
「君の頑張りには、正直驚いているよ。あそこまでボケ倒す相手に、一度も声を荒らげないとはな。……ローリー、君の『聖女』の演技は、もはや狂気の域に達している」
セドリック様の指先が、私の金髪に触れた。
「……演技ではありませんわ。私は、あの子の純粋さを守りたいだけですもの……。おほ、ほ……」
「声が枯れているぞ。……ほら、これを飲め。少しは楽になるだろう」
差し出されたのは、彼が飲んでいたものとは別の、温かいハーブティーだった。
「……毒、入っていませんか?」
「君じゃないんだから、そんなことはしない。……私の負けを認めるのは癪だが、今日の忍耐力には免じて、少しだけ優しくしてやろう」
私は恐る恐る顔を上げ、彼からカップを受け取った。
一口飲むと、喉の奥がじんわりと潤い、疲れが少しだけ和らぐ。
「……ありがとうございます。殿下の意外な優しさに、不覚にも少しだけ『ざまぁ』されそうな気分ですわ」
「『ざまぁ』? また変な言葉を。……まあいい。ローリー、明日もまた楽しみにしてるよ。君がいつ、ミアの首を絞め始めるかをね」
「……絶対にしませんわよ」
私はハーブティーを飲み干し、彼を睨みつけた。
けれど、その瞳に映る自分は、これまでの高飛車な令嬢ではなく、ただの疲れ果てた一人の少女のように見えた。
(いけないわ。殿下の前で、こんなに隙を見せるなんて。……でも、今日だけは、このまま少しだけ休ませて……)
私の「生存戦略」は、どうやら王子の「観察」という名の包囲網によって、じわじわと形を変えさせられているようだった。
私は、震える指先で数学の教科書を指した。
学園の図書室、その一角に設けられた豪華な特別ブース。ここには今、私、セドリック様、そしてミア様の三人が揃っている。
本来なら、王子とその婚約者、そして彼らの仲を裂く(はずの)ヒロインという、血の雨が降ってもおかしくない修羅場のはずだが……現実はもっと過酷な「精神的拷問」の場と化していた。
「ええっ!? でもローリー様、この問題文には『 $x$ を求めよ』って書いてありますよ? 一生懸命探してあげないと、 $x$ ちゃんが可哀想です!」
ミア様が、本気で心配そうな顔をして私を見つめてくる。
(……神様。なぜこの子に、これほどまでの『天然』という名の破壊兵器をお与えになったのですか?)
私は内側で荒れ狂う「ふざけるな!」という猛獣を、必死に「おほほ」という檻に閉じ込めた。
「……ふふ。ミア様、その優しさはとても素晴らしいですわ。ですが、数学の世界では、探し出すのは猫ではなく数値なのです。……さあ、深呼吸をして。この式を見てくださいな」
私は、般若のような形相になりそうな顔を、無理やり「慈愛の微笑み」へと成形し直した。
その様子を、隣で優雅に紅茶を飲みながら眺めている男が一人。
「……くくっ。ローリー、顔が引きつっているぞ。そんなに感動したか? 彼女の独創的な解釈に」
セドリック様が、面白くて仕方がないという風に肩を揺らしている。
(……この王子、絶対に後で呪ってやるわ。藁人形に銀髪を植え付けてやるんだから!)
「……殿下。私はただ、ミア様の無限の可能性に光を当てているだけですわ。……ふふっ、殿下もお暇でしたら、私と一緒に彼女を導いて差し上げてはいかが?」
私は、これ以上ないほどの嫌味……ではなく、聖女らしい「提案」を投げかけた。
「いや、私はいい。君がいつ『その猫を保健所に連れて行きなさい!』と叫び出すか、特等席で見守らせてもらうよ」
セドリック様の目は、完全に私を観察対象として楽しんでいる。前回の「賭け」以来、彼は私の化けの皮を剥がそうと、ことあるごとに私を揺さぶってくるのだ。
「ローリー様! わかりました! この $x$ は、きっと『3』です! 直感がそう言っています!」
「……勘で解くのは占い師の仕事ですわ、ミア様。……いい? まずは両辺に同じ数をかけて……」
「両辺……? 右の頬を打たれたら左の頬も、ということですか?」
(……それは聖書よ! 今は数学の話をしてるの!)
「……ふふっ、ミア様。あなたは本当に、信仰心が厚くていらっしゃるのね。ですが、今は数字の神様に従いましょうか」
私はペンを握る手に力を込めた。ミシミシと音がしているが、気にしない。
一時間後。
ミア様のノートには、数式ではなく、可愛い猫(おそらく $x$ ちゃん)の落書きが埋め尽くされていた。
「……今日は、ここまでにしましょうか。ミア様、よく頑張りましたわね」
「はい! ローリー様のおかげで、数学が大好きになりました! 明日もまたお願いします!」
ミア様は満面の笑みで教科書を閉じると、嵐のように去っていった。
嵐が去った後の静寂。
私は、ガクンと机に突っ伏した。
「……し、死ぬ……。脳みそが、脳みそが溶けてプリンになっちゃう……」
「おや。ようやく聖女様が、本音を漏らしたか」
セドリック様の声が、すぐ近くで聞こえた。
気づけば、彼は私の頭を覗き込むようにして立っていた。
「……殿下。まだいらしたのですか」
私は顔を上げず、机に顔を埋めたまま答えた。もはや表情を作る体力すら残っていない。
「君の頑張りには、正直驚いているよ。あそこまでボケ倒す相手に、一度も声を荒らげないとはな。……ローリー、君の『聖女』の演技は、もはや狂気の域に達している」
セドリック様の指先が、私の金髪に触れた。
「……演技ではありませんわ。私は、あの子の純粋さを守りたいだけですもの……。おほ、ほ……」
「声が枯れているぞ。……ほら、これを飲め。少しは楽になるだろう」
差し出されたのは、彼が飲んでいたものとは別の、温かいハーブティーだった。
「……毒、入っていませんか?」
「君じゃないんだから、そんなことはしない。……私の負けを認めるのは癪だが、今日の忍耐力には免じて、少しだけ優しくしてやろう」
私は恐る恐る顔を上げ、彼からカップを受け取った。
一口飲むと、喉の奥がじんわりと潤い、疲れが少しだけ和らぐ。
「……ありがとうございます。殿下の意外な優しさに、不覚にも少しだけ『ざまぁ』されそうな気分ですわ」
「『ざまぁ』? また変な言葉を。……まあいい。ローリー、明日もまた楽しみにしてるよ。君がいつ、ミアの首を絞め始めるかをね」
「……絶対にしませんわよ」
私はハーブティーを飲み干し、彼を睨みつけた。
けれど、その瞳に映る自分は、これまでの高飛車な令嬢ではなく、ただの疲れ果てた一人の少女のように見えた。
(いけないわ。殿下の前で、こんなに隙を見せるなんて。……でも、今日だけは、このまま少しだけ休ませて……)
私の「生存戦略」は、どうやら王子の「観察」という名の包囲網によって、じわじわと形を変えさせられているようだった。
33
あなたにおすすめの小説
断罪された公爵令嬢でしたが、今さら後悔してももう遅いです ~第二の人生は最愛の隣で~
nacat
恋愛
婚約者の裏切りと濡れ衣で断罪された公爵令嬢レティシア。
前世の無念を抱えたまま命を落とした彼女は、なぜか二年前に時間を巻き戻していた。
もう誰かに従う人生なんてごめんだ。今度こそ、自分の幸せをこの手で掴む。
――そして、かつて冷たかった彼が、今は異常なほどに私を求めてきて……?
痛快なざまぁの果てに、甘く狂おしい溺愛が待ち受ける転生ロマンス。
悪役令嬢のはずですが、年上王子が幼い頃から私を甘やかす気でいました
ria_alphapolis
恋愛
私は、悪役令嬢なのかもしれない。
王子の婚約者としては少し我儘で、周囲からは気が強いと思われている――
そんな自分に気づいた日から、私は“断罪される未来”を恐れるようになった。
婚約者である年上の王子は、今日も変わらず優しい。
けれどその優しさが、義務なのか、同情なのか、私にはわからない。
距離を取ろうとする私と、何も言わずに見守る王子。
両思いなのに、想いはすれ違っていく。
けれど彼は知っている。
五歳下の婚約者が「我儘だ」と言われていた幼い頃から、
そのすべてが可愛くて仕方なかったことを。
――我儘でいい。
そう決めたのは、ずっと昔のことだった。
悪役令嬢だと勘違いしている少女と、
溺愛を隠し続ける年上王子の、すれ違い恋愛ファンタジー。
※溺愛保証/王子視点あり/幼少期エピソードあり
【完結】前提が間違っています
蛇姫
恋愛
【転生悪役令嬢】は乙女ゲームをしたことがなかった
【転生ヒロイン】は乙女ゲームと同じ世界だと思っていた
【転生辺境伯爵令嬢】は乙女ゲームを熟知していた
彼女たちそれぞれの視点で紡ぐ物語
※不定期更新です。長編になりそうな予感しかしないので念の為に変更いたしました。【完結】と明記されない限り気が付けば増えています。尚、話の内容が気に入らないと何度でも書き直す悪癖がございます。
ご注意ください
読んでくださって誠に有難うございます。
ずっと引きこもってた悪役令嬢が出てきた
桜井ことり
恋愛
そもそものはじまりは、
婚約破棄から逃げてきた悪役令嬢が
部屋に閉じこもってしまう話からです。
自分と向き合った悪役令嬢は聖女(優しさの理想)として生まれ変わります。
※爽快恋愛コメディで、本来ならそうはならない描写もあります。
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
悪役令嬢に転生かと思ったら違ったので定食屋開いたら第一王子が常連に名乗りを上げてきた
咲桜りおな
恋愛
サズレア王国第二王子のクリス殿下から婚約解消をされたアリエッタ・ネリネは、前世の記憶持ちの侯爵令嬢。王子の婚約者で侯爵令嬢……という自身の状況からここが乙女ゲームか小説の中で、悪役令嬢に転生したのかと思ったけど、どうやらヒロインも見当たらないし違ったみたい。
好きでも嫌いでも無かった第二王子との婚約も破棄されて、面倒な王子妃にならなくて済んだと喜ぶアリエッタ。我が侯爵家もお姉様が婿養子を貰って継ぐ事は決まっている。本来なら新たに婚約者を用意されてしまうところだが、傷心の振り(?)をしたら暫くは自由にして良いと許可を貰っちゃった。
それならと侯爵家の事業の手伝いと称して前世で好きだった料理をしたくて、王都で小さな定食屋をオープンしてみたら何故か初日から第一王子が来客? お店も大繁盛で、いつの間にか元婚約者だった第二王子まで来る様になっちゃった。まさかの王家御用達のお店になりそうで、ちょっと困ってます。
◆◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◆
※料理に関しては家庭料理を作るのが好きな素人ですので、厳しい突っ込みはご遠慮いただけると助かります。
そしてイチャラブが甘いです。砂糖吐くというより、砂糖垂れ流しです(笑)
本編は完結しています。時々、番外編を追加更新あり。
「小説家になろう」でも公開しています。
悪役令嬢を演じて婚約破棄して貰い、私は幸せになりました。
シグマ
恋愛
伯爵家の長女であるソフィ・フェルンストレームは成人年齢である十五歳になり、父親の尽力で第二王子であるジャイアヌス・グスタフと婚約を結ぶことになった。
それはこの世界の誰もが羨む話でありソフィも誇らしく思っていたのだが、ある日を境にそうは思えなくなってしまう。
これはそんなソフィが婚約破棄から幸せになるまでの物語。
※感想欄はネタバレを解放していますので注意して下さい。
※R-15は保険として付けています。
悪役とは誰が決めるのか。
SHIN
恋愛
ある小さな国の物語。
ちょっとした偶然で出会った平民の少女と公爵子息の恋物語。
二人には悪役令嬢と呼ばれる壁が立ちふさがります。
って、ちょっと待ってよ。
悪役令嬢だなんて呼ばないでよ。確かに公爵子息とは婚約関係だけど、全く興味は無いのよね。むしろ熨斗付けてあげるわよ。
それより私は、昔思い出した前世の記憶を使って色々商売がしたいの。
そもそも悪役って何なのか説明してくださらない?
※婚約破棄物です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる