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「……ええ、こちらにサインをすればよろしいのかしら? ふふっ、事務作業というのも、なかなか奥が深くて興味深いですわね」
放課後の生徒会室。私は、眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒……名前は確か、事務局員のトーマス様……と共に、書類の山と格闘していた。
学園祭の予算申請書、部活動の備品リスト、そして謎の「激辛料理同好会」からの支援要請。
(……なんで公爵令嬢の私が、こんな地味な内職を手伝っているのかしら。ああ、そうだったわ。『誰にでも手を差し伸べる慈愛の聖女』としての実績を積むためだったわね。……肩が凝るわ、サイラス、今すぐ最高級の揉みほぐし師を呼んで!)
「は、はい! ローリー様、ありがとうございます! まさか公爵令嬢である貴女様が、僕のような下位貴族の仕事を手伝ってくださるなんて……!」
トーマス様が、感動でレンズを曇らせながら私を見つめる。
「あら、そんな。身分など関係ありませんわ。困っている方がいれば、放っておけない……ただ、それだけのことですのよ」
私は、練習通りの『控えめながらも気高い微笑み』を披露した。
(よし、完璧よ。これでトーマス様の心には、私という名の聖女の姿が刻まれたわ。さあ、学園中に広めるのよ。『ローリー様は事務作業も厭わない、光り輝く慈悲の塊だ』ってね!)
その時だった。
生徒会室の重厚な扉が、一切の遠慮なく蹴破るような勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、背後に氷山でも背負っているのではないかというほど、冷たいオーラを撒き散らすセドリック様だった。
「……ローリー。こんなところで油を売っていると思えば、随分と楽しそうじゃないか」
「せ、セドリック様? ごきげんよう。……ふふっ、油を売るだなんて。私はただ、事務局の方のお手伝いを……」
「ふん。手伝い、か。……おい、そこの眼鏡。君、距離が近すぎる。今すぐ三メートル下がれ。いや、いっそこの部屋から消えろ」
セドリック様の、地を這うような低い声。
トーマス様はヒッという短い悲鳴を上げると、書類をぶちまけながら「失礼しますっ!」と脱兎の如く逃げ去っていった。
(……ちょっと! 私の『布教活動』を邪魔しないでちょうだい!)
「……殿下。今の態度は、少々礼儀に欠けるのではなくて? 彼はただ、真面目に仕事をしていただけですわ」
私は立ち上がり、少しだけ……ほんの少しだけ、非難の色の混じった微笑みを向けた。
「礼儀だと? 君こそ、婚約者である私の前で見せたこともないような『無防備な笑顔』を、あんな路傍の石ころのような男に見せるとはどういうつもりだ」
セドリック様はツカツカと歩み寄り、机を挟んで私に顔を近づけた。
(……無防備? 私が? あの計算され尽くした『黄金比スマイル』が無防備ですって!?)
「……殿下。私はどなたに対しても、平等に接しているだけですわ。それに、嫉妬だなんて……殿下らしくありませんことよ? おほ……ふふっ」
私は、彼を挑発するつもりで扇子を広げた。
だが、セドリック様の瞳は笑っていなかった。それどころか、見たこともないような暗い情熱を帯びて、じっと私を見つめている。
「……嫉妬、か。認めよう。……今の私は、ひどく気分が悪い」
「え……?」
「君が他の男に微笑むたびに、その口を縫い合わせるか、君を誰もいない塔のてっぺんに閉じ込めたくなる。……ローリー、言ったはずだ。君を飼い慣らすのは私だとな」
セドリック様の手が、私の頬に触れた。その指先が少しだけ震えていることに気づき、私は息を呑んだ。
(……な、なんなの? この空気。これじゃまるで、本当に私のことが好きみたいじゃない!)
「……殿下、冗談は……」
「冗談で、こんなところまで追いかけてくると思うか? ……いいか、ローリー。君の『生存戦略』とやらが、私への関心を逸らすためのものなら、それは大失敗だ。逆効果だぞ」
セドリック様は、私の耳元に唇を寄せた。
「君が輝けば輝くほど、私は君を独り占めしたくなる。……覚悟しておけ。当日の夜会、君のダンスの相手は、私以外の一切を認めない」
彼はそれだけ言い残すと、嵐のように去っていった。
静まり返った生徒会室で、私は一人、赤くなった顔を押さえて立ち尽くした。
「……なによ、なんなのよ、もう! あんなの、聞いてないわよ!」
私は机をバンバンと叩いた。
生存戦略。それは、婚約破棄を回避し、静かな余生を送るためのものだったはずだ。
なのに、どうして。
王子の執着心が、予定の三千倍くらいに膨れ上がっている気がする。
「……サイラス……。私、もしかして……崖っぷちを回避しようとして、もっと深い底なし沼に足を踏み入れちゃったかしら……」
「お嬢様、ようやく気づかれましたか。その沼の名前は『溺愛』という、最も厄介な底なし沼ですよ」
いつの間にか扉の横に立っていたサイラスが、呆れたような、けれどどこか嬉しそうな顔で私を見た。
「溺愛なんて……そんなの、私のキャラじゃないわ!」
「ええ。ですが、あの殿下の目は本気でしたね。……さあ、お嬢様。赤くなった顔を冷やして、帰宅の準備を。明日はまた、別の意味で忙しくなりそうですよ」
私はサイラスに促され、ふらふらとした足取りで馬車へと向かった。
婚約破棄は回避できそうだが、その代わりに待ち受けている未来が、何だかとてつもなく甘くて重苦しいものになりそうな予感がして。
私の心臓は、これまでにないほど激しく鐘を鳴らし続けていた。
放課後の生徒会室。私は、眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒……名前は確か、事務局員のトーマス様……と共に、書類の山と格闘していた。
学園祭の予算申請書、部活動の備品リスト、そして謎の「激辛料理同好会」からの支援要請。
(……なんで公爵令嬢の私が、こんな地味な内職を手伝っているのかしら。ああ、そうだったわ。『誰にでも手を差し伸べる慈愛の聖女』としての実績を積むためだったわね。……肩が凝るわ、サイラス、今すぐ最高級の揉みほぐし師を呼んで!)
「は、はい! ローリー様、ありがとうございます! まさか公爵令嬢である貴女様が、僕のような下位貴族の仕事を手伝ってくださるなんて……!」
トーマス様が、感動でレンズを曇らせながら私を見つめる。
「あら、そんな。身分など関係ありませんわ。困っている方がいれば、放っておけない……ただ、それだけのことですのよ」
私は、練習通りの『控えめながらも気高い微笑み』を披露した。
(よし、完璧よ。これでトーマス様の心には、私という名の聖女の姿が刻まれたわ。さあ、学園中に広めるのよ。『ローリー様は事務作業も厭わない、光り輝く慈悲の塊だ』ってね!)
その時だった。
生徒会室の重厚な扉が、一切の遠慮なく蹴破るような勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、背後に氷山でも背負っているのではないかというほど、冷たいオーラを撒き散らすセドリック様だった。
「……ローリー。こんなところで油を売っていると思えば、随分と楽しそうじゃないか」
「せ、セドリック様? ごきげんよう。……ふふっ、油を売るだなんて。私はただ、事務局の方のお手伝いを……」
「ふん。手伝い、か。……おい、そこの眼鏡。君、距離が近すぎる。今すぐ三メートル下がれ。いや、いっそこの部屋から消えろ」
セドリック様の、地を這うような低い声。
トーマス様はヒッという短い悲鳴を上げると、書類をぶちまけながら「失礼しますっ!」と脱兎の如く逃げ去っていった。
(……ちょっと! 私の『布教活動』を邪魔しないでちょうだい!)
「……殿下。今の態度は、少々礼儀に欠けるのではなくて? 彼はただ、真面目に仕事をしていただけですわ」
私は立ち上がり、少しだけ……ほんの少しだけ、非難の色の混じった微笑みを向けた。
「礼儀だと? 君こそ、婚約者である私の前で見せたこともないような『無防備な笑顔』を、あんな路傍の石ころのような男に見せるとはどういうつもりだ」
セドリック様はツカツカと歩み寄り、机を挟んで私に顔を近づけた。
(……無防備? 私が? あの計算され尽くした『黄金比スマイル』が無防備ですって!?)
「……殿下。私はどなたに対しても、平等に接しているだけですわ。それに、嫉妬だなんて……殿下らしくありませんことよ? おほ……ふふっ」
私は、彼を挑発するつもりで扇子を広げた。
だが、セドリック様の瞳は笑っていなかった。それどころか、見たこともないような暗い情熱を帯びて、じっと私を見つめている。
「……嫉妬、か。認めよう。……今の私は、ひどく気分が悪い」
「え……?」
「君が他の男に微笑むたびに、その口を縫い合わせるか、君を誰もいない塔のてっぺんに閉じ込めたくなる。……ローリー、言ったはずだ。君を飼い慣らすのは私だとな」
セドリック様の手が、私の頬に触れた。その指先が少しだけ震えていることに気づき、私は息を呑んだ。
(……な、なんなの? この空気。これじゃまるで、本当に私のことが好きみたいじゃない!)
「……殿下、冗談は……」
「冗談で、こんなところまで追いかけてくると思うか? ……いいか、ローリー。君の『生存戦略』とやらが、私への関心を逸らすためのものなら、それは大失敗だ。逆効果だぞ」
セドリック様は、私の耳元に唇を寄せた。
「君が輝けば輝くほど、私は君を独り占めしたくなる。……覚悟しておけ。当日の夜会、君のダンスの相手は、私以外の一切を認めない」
彼はそれだけ言い残すと、嵐のように去っていった。
静まり返った生徒会室で、私は一人、赤くなった顔を押さえて立ち尽くした。
「……なによ、なんなのよ、もう! あんなの、聞いてないわよ!」
私は机をバンバンと叩いた。
生存戦略。それは、婚約破棄を回避し、静かな余生を送るためのものだったはずだ。
なのに、どうして。
王子の執着心が、予定の三千倍くらいに膨れ上がっている気がする。
「……サイラス……。私、もしかして……崖っぷちを回避しようとして、もっと深い底なし沼に足を踏み入れちゃったかしら……」
「お嬢様、ようやく気づかれましたか。その沼の名前は『溺愛』という、最も厄介な底なし沼ですよ」
いつの間にか扉の横に立っていたサイラスが、呆れたような、けれどどこか嬉しそうな顔で私を見た。
「溺愛なんて……そんなの、私のキャラじゃないわ!」
「ええ。ですが、あの殿下の目は本気でしたね。……さあ、お嬢様。赤くなった顔を冷やして、帰宅の準備を。明日はまた、別の意味で忙しくなりそうですよ」
私はサイラスに促され、ふらふらとした足取りで馬車へと向かった。
婚約破棄は回避できそうだが、その代わりに待ち受けている未来が、何だかとてつもなく甘くて重苦しいものになりそうな予感がして。
私の心臓は、これまでにないほど激しく鐘を鳴らし続けていた。
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◆◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◆
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