微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

135 トワレ

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 澱んだ澱が
 濁流に舞い
 やがて訪れる
 沈黙



 この一年の集大成とも言える創立祭を終えた翌日、僕は熱を出して寝込んでしまった。
 鳥の巣頭は雨に濡れたり、忙しく立ち働いたりで大変な一日だったのだから仕方がないよ、といつもと変わらない心配そうな顔で、「ちゃんと寝ているんだよ」と言い残してから学舎に向かった。

 創立祭当日と変わらないほど、後片づけの行われる今日は忙しいのに……。

 きっと鳥の巣頭は夜まで戻らない。

 ベッドに横たわったまま漆喰塗の天井を眺めながら、昨日のことを整理しようと思考を呼び起こしていた。微熱で身体がふわふわする。気怠く軽く頭痛もする。呼吸が少し苦しかったけれど、身体を包むこの熱はどこか心地良く好ましい。

 鳥の巣頭が寝転んだまますぐに手に取れるようにと、ベッドのすぐ横に置いてくれた椅子の座面からミネラルウォーターのボトルを取り、一口、二口飲んだ。熱い喉元を流れ落ちるその冷涼さに、大きく息を継いだ。


 もし彼の言うことを拒んだら、マクドウェルは僕をどうするのだろう?

 ジョイントを貰うために勝手にアヌビスの言いなりになって、蛇や梟を失望させた時のように、寮内やボート部の奴らに僕を払い下げて制裁を下すのだろうか? ――また、鳥の巣頭の目の前で。

 この想像に心よりも身体が先に反応した。胃がぎゅっと縮こまって喉元まで胃酸が上がる。浅い呼吸を繰り返し、もう一度ペットボトルのキャップを捻った。ごくごくと喉を鳴らして飲み下す。

 大きく息を吐いて、頭を枕に倒した。


 目を瞑って考えまいとしても、鳥の巣頭と銀狐の顔が浮かんでくる。何度も寝返りを打って振り払おうとしたけれど無駄だった。
 熱せられ対流を起こした水中の不純物が、沸々と水面に上がってくるように、澱んだ記憶に溶けていた彼らの断片が浮かび上がって瞼裏に貼りつく。


 ――僕じゃきみの慰めにはならない。
 そう告げた時の、銀狐の憂いを湛えた瞳を思いだしていた。

 たとえ身体に不具があったとしても、きみを凌辱する方法なんていくらでもあるんだ。

 あの時脳裏を掠めたこの浅慮を、僕は今でも彼に告げたいとも、身をもって教えたいとも思わない。
 真っ直ぐで自分を過信しすぎている誇り高い銀狐。彼を汚すことなど、許されない。僕にとっては――。

 けれど、マクドウェルにとってはどうだろうか?
 警察関係の親族をバックに、何者をも恐れず愚直なまでに行動する彼は、鳥の巣頭以上に目の上の瘤的な存在なのではないだろうか……?

 僕ならそう考えるけれど、マクドウェルなら――。



 ――ふーん、あの子が噂の銀ボタンくんか……。

 突然、マクドウェルの声が脳裏に蘇った。彼のあの、ねっとりと絡みつくような粘りのある声が。まるで女のご機嫌取りでもしているかのような、にやにやとした笑みを湛えた、人を小馬鹿にしたいやらしい言い方が。

 やっと合点がいった。彼が大鴉を知っていた理由に……。

 銀狐の言っていた詐欺事件に関係しているかは判らないけれど、マクドウェルはきっと大鴉のレポートの事は知っていたに違いない。だって、梟はあのレポートで、マクドウェルへの借金を全額返済して自由を手に入れたんだもの。――もしかしたら、借金以上のものを彼に差しだしたから、こんなにあっさりとあいつから逃げることができたのかもしれない。


 軽い頭痛が、段々ときりきりと差しこむような痛みに変わり、僕を苛んだ。

 大鴉をこんな災難に巻きこんだ元凶が、僕ででもあるかのような……。

 それはあながち見当違いではないだろう、と僕は確信に近い思いを抱いていた。そうでなかったらどんなに良かったか。そんな泡沫のような希望を消すことができないまま。


 ゴホゴホと咳まで出てきた。喉が痛い。咳をする度に涙が滲む。

 ゆっくりと半身を起こしベッドから降りると、机の引き出しから梟に貰ったオードトワレを取り出して、手首に吹きつけた。

 本当にどうしようもなく辛い時のおまじない。

 ベッドに倒れこみ、両手首を額の下に敷いて俯せた。こうすれば、清涼な空気が僕を包み慰めてくれる。大鴉の羽のようなローブを揺らす風の香りで。僕には相応しくないと解ってはいるけれど――。

 このトワレは持続時間が短いから、鳥の巣頭がいない時だけこうして使うんだ。だって、あいつはきっと嫌な顔をするに決まっているもの。
 梟に貰ったものだからじゃない。

 このトワレは、「サムライ」って名前だから――。


 僕はもう、あいつの泣き顔を見たくはないんだ。
 僕のことに、絶対にあいつや銀狐を、まして関係のない大鴉を巻きこむ訳にはいかないのだ。
 




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