微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

191 ディナー

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 闇に揺れる蝋燭は
 想いを照らす
 最後の光源
 


「マシュー、そろそろ起きて。食事にしよう」

 暗闇に蝋燭が揺れていた。あの地下室のように――。

「マシュー」
 飛び起きた僕を、僕の一番良く知っている大きな手が受け止めてくれた。僕はこいつの首にしがみついて震えていた。
「電気をつけて」
 僕の怯えた声に鳥の巣頭は一瞬身体を強張らせ、すぐに僕の背をいたわるように擦ってくれた。
「大丈夫だよ、マシュー。ここは僕の部屋だよ。夕食の準備ができたんだ」
「お願いだ、電気をつけて」
 僕の髪をかき上げて、こいつは僕の面を心配そうに覗き込む。じっとりと嫌な汗が滲んでいた。

「シャワーを、先に」
 震える僕を支えて、バスルームまで連れていってくれた。
「一人で平気だから」
 鳥の巣頭をドアの向こうに残し、ざっとシャワーだけ浴びた。
 熱いお湯が、まといつく幻影を流してくれる。

 平気。僕は平気だ。

 ドアを開けると、タオルと着替えを用意してくれていた。部屋の灯りはいつものように、オレンジ色に戻っていた。



「ごめんよ、マシュー、何か気に障ってしまったんだね」
 鳥の巣頭の憮然とした表情に、僕はにっこりと笑みを返す。
「そうじゃないよ。ちょっと怖い夢を見ていたんだ」

 どんな? と問いたそうな顔をしている癖に、こいつは訊ねることを躊躇している。

「でも、目が覚めたら忘れてしまった。だからもう平気だよ。電気を消す?」

 着替えながら訊ねた僕に、こいつはちょっと微笑み返して、「まだ髪が濡れているよ」と、勉強机の椅子を無造作に引きだして僕に向けた。腰かけた僕の髪を丁寧に拭き、ドライヤーを当ててくれた。いつものように。

「綺麗な髪――」

 上向くと、鳥の巣頭は、はにかんだ様に笑った。
「母がいつも君の髪を羨んでいた」
「きみは?」
「もちろん。僕も、この生糸のような柔らかな輝きが大好きだよ。見るのも、触れるのも」

「ワックスを忘れるところだった」
 僕は立ちあがってバスルームに戻り、鏡の前で髪にワックスをつけて整えた。
 開け放したドアから、照明を落とし蝋燭に切り替わったテーブルの灯りが、窓ガラスに映って幾重にも揺れているのが見えた。



 白いクロスのかけられたカフェテーブルに、カットグラスに浮かぶフローティングキャンドルの焔が揺らめく。

 席に着くと、鳥の巣頭はシャンパンをシャンパンクーラーから取りだして丁寧にクロスで拭き、ボトルをゆっくりと廻して栓を開けた。 
 僕と自分のグラスに静かに注ぎ入れ、クーラーに戻してから、やっと自分の席に座った。

「乾杯しよう、マシュー」
「何に?」
「きみの新しい旅立ちが、幸多きものになるように願って」

 僕たちは、チンッとグラスを打ち合わせた。

「きみの自由に」

 僕の祝辞に、鳥の巣頭は不思議そうに僕を見つめ、次いで目を細めてにっこりと笑った。

「僕の自由を祝ってくれるの?」
 唇を湿らせる程度に濡らしてグラスを置くと、鳥の巣頭は立ちあがり、前菜のイワシのマリネにサラダ、パン、バターを載せた皿を次々と運んできた。
「手伝うよ」
 立ちあがりかけた僕を片手で制し、「忙しないから、コース順って訳にはいかないけれど、そこは大目に見てよ」と楽しげにカップに湯気の立つスープを注ぐ。

「僕の自由を許してくれてありがとう」
 スープを僕に給仕して自分の席に戻ると、こいつは口許から笑みを消し神妙な顔つきで僕を見つめた。
「僕も、きみも、自由だよ、マシュー。僕はきみがどんな選択をしようときみの意志を尊重する。でも、ジョイントだけは駄目だ。きみを損なうこの悪癖だけは、僕は認める訳にはいかない」
「解っているよ」

 僕は自分の皿に視線を落としたまま。じっと動かない僕の代わりに、鳥の巣頭がハーブを和えたサラダを取り分けてくれる。

「きみがコスナーとのことを許してくれるのなら、ジョイントは要らない。きみなら解るだろ? 僕は一人じゃ眠れないんだ」

 前菜のイワシに、サラダ、パン――。順番に、黙々と片づけているこいつをそっと見つめた。
 黙ったままのこいつにこれ以上どう言えばいいのか判らなくて、僕はサラダをつつき、シャンパンをちびちびと飲んだ。

「本当に彼が好きなの? それとも、彼は添い寝用のテディ・ベア?」

 僕の返答を聞く前にこいつは立ちあがり、オーブンのドアを開ける。

「辛い思い出ばかりのお古のぬいぐるみなんて、捨ててしまった方がきっとせいせいする。これは、きみが、きみ自身の過去と決別するために、必要な選択なのだと、僕も、思うよ」

 鳥の巣頭は、注がれたままのシャンパングラスを、もう一度僕のグラスに打ちつけた。

「きみの決意に、取り戻した自由に、乾杯」

 無理に口角をあげたまま、鳥の巣頭はグラスを口に運ぶことなくテーブルに置いた。

「運転するからね。きみを送っていかないと。……マシュー、メインはローズマリー風味のローストチキンだよ」


 僕たちはメインのチキンを黙ったまま食べた。美味しかったよ、とか、こんな素敵な食卓をありがとうとか、お礼の言葉はいくつも脳裏に浮かんできたけれど、そのどれも違う気がして、僕はなにも言うことができなかった。

 僕がのろのろしていたせいで時間がなくなり、デザートは食べずに僕たちはフラットを後にした。


 車の中でも、僕たちはもう、特に言葉を交わさなかった。




 学校の駐車場を超え、とっぷりと暗い夜道をさらに進み、寮を囲む煉瓦塀の近くで車を横づけてもらった。

「元気で」

 両の手でこいつの頬を包んで、その淋し気な唇にお別れのキスをした。乾いてカサカサな唇は、それでも優しく僕に応えてくれていた。

「きみの、この鳥の巣のような髪が、本当は僕のお気に入りだったんだ」

 錆色の巻き毛に指を絡ませ、かき抱く。

「愛してるよ、マシュー。僕を、忘れて。きみの辛い記憶は、全部僕が引き受けるから。僕を忘れて、幸せに、マシュー。約束だよ」

 僕の背にそっと腕を廻して、鳥の巣頭は消え入りそうな声で囁いた。
 僕は微笑んで、たぶん、微笑んで、この最後の抱擁に力を込めて告げた。


「約束する。さよなら、僕の錆色のテディ」





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