胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 ロサンゼルス空港に着いた頃には、午後七時を回っていた。夕闇の迫る空港から迎えのリムジンに乗り、フェイラー邸に向かった。

「なぁ、こんな時間に行って迷惑じゃないの? 夕飯時だろ?」
「着く頃には、終わっているよ」

 ヘンリーは素っ気ない返事をして、顔を窓に向けたまま物思いに耽っている。
 吉野も、英国とは比べものにならない広い道路と、その縁に並ぶ背の高い椰子の木の街路樹を、ヘンリーに背を向ける形で窓から眺めながら訊ねた。

「俺もアレンの祖父さんに会うわけ?」
「そのために来たんだろう? きみが交渉するんだよ」
 窓ガラスに映った吉野の口角が上る。
「へぇ……。俺、あんたが交渉してくれるものだとばかり思っていた」
 戸惑いを含む吉野の声に、ヘンリーは、「それでは、きみをわざわざここに連れてきた意味がないじゃないか」と、呆れ声で応じる。

「アレンに会わせてくれるんだろ?」
「そのためにわざわざスーツに着替えさせた訳じゃない」

 その冷めたい口調に、吉野は黙りこむ。

「きみには、きみのしでかした事に対する責任を取ってもらうよ」
 ヘンリーは一度も吉野を振り返ることもなく会話を終わらせた。だからその時、吉野がどのような顔をしていたのか、知る由もなかった。




 一見豪華で煌びやかだが、威圧感がありどこか重苦しい、ルイ王朝様式のインテリアで統一された応接室に通された。

「お久しぶりです。お祖父さま」

 ヘンリーはしばらく待たされた後に現れたこの屋敷の主人である細身で長身の神経質そうな老人と、慇懃で他人行儀な握手を交わしている。

「彼はうちの子会社タイムスライスファンドのクオンツ・ファンドマネージャー、ヨシノ・トヅキです」

 次いで、にこやかに笑みをたたえて、吉野の肩に手を添えて親しげに紹介する。

「この少年が? 」
 訝しげに、ベンジャミン・フェイラーは太い眉の下の猛禽のような鋭い瞳を吉野に向ける。
「ええ。お聞き及びの事とは思いますが、今回、伺った理由は、」
「株か? 」
「彼が市場で買いつけた御社の株式一億二千万株を、母の持つジョサイア貿易の株式と交換していただきたい」

 ヘンリーの言葉に、フェイラーはどっと声を上げて笑いだした。ひとしきり笑いおえると、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、さも可笑しそうに、「わしには、何のメリットもないな、その提案は」とヘンリーに侮蔑的な視線を向ける。

「それだけか?」
 

「全米で五本の指に入る大会社の会長だっていうから、どんな凄い奴かと思っていたのに、大した事ないんだな」

 目の端にさえ入れていなかった東洋の小僧から発せられた言葉に、フェイラーはぎろりと目を剥いて視線を据えた。

「あんた、シェール市場の損失、今回の二百億ドルだけで済むと思ってるの?」
「ヘンリー、お前は社員の躾がなっていないようだな」

 生意気な子どもの戯言などには耳を貸すことなく、フェイラーはヘンリーを睨めつける。だが吉野は、かまわず喋り続けた。

「あんたの会社が出資しているシェールガス開発子会社、半年以内に潰れるよ。天然ガス価格は過剰生産でとっくに値崩れしているもの。これが第一段階。次、これから半年かけて、アラブ系政府ファンドはあんたの会社と原油先物に売りを仕かける。交渉決裂なら俺もこの持ち株を担保に最大限空売るよ。原油価格、一年後には、五十ドル/バレルを切るからね。ここが、第二段階」

 吉野は砕けた口調で話し続けて、「俺ならフェイラー社が抱えている不良採掘場、なんとかする手段教えてやれるよ」と真っ直ぐにフェイラーの険しい瞳を見返したまま、鳶色の目を細めてにっと笑う。

 ヘンリーは顔を伏せ、考え込んでいるような素振りで、しなやかな手指で口元を覆いながら、その下で必死に笑い出すのを堪えている。



「馬鹿馬鹿しい。何を根拠に!」

 フェイラーは拳をブルブルと震わせ、額に青筋を立てながらも、怒りを抑えた低い声で吐き捨てるように呟く。

「まだ一般には知られてないけど、あんたの所有するシェールの初期生産レート、一年後の減退率は70%だろ? おまけに無尽蔵に掘れる良井戸なんて幻想で、実際は不良鉱区ばかりだ。低い回収率、コストダウンできない掘削費、割に合わない減退率、採算が取れている採掘場だけを残したはずなのに、原油価格が八十ドル/バレルを切れば、一気に赤字転落だ。掘れば掘るほど赤字になる。根拠なら、ここにまとめてあるよ」

 吉野は無造作にポケットに丸めて突っ込んであった書類を、フェイラーの胸元に突きつける。そして、押し黙ってじっと吉野を睨みつけるフェイラーに、追い打ちを掛けるように言葉を継ぐ。

「シェール革命だとか言って騒ぎ立てて債券化されたシェール債が相次ぐシェール開発企業の倒産で紙屑になる。第三段階だ。あんたの抱えているシェール債の方も、紙屑になる前に俺なら助けてやれるよ」


 コンコン、と小さなノックの音に、ふっとその場の緊張がほぐれた。

「入りなさい」

 一気に老け込んだ顔つきで、フェイラーは、どさりとソファーに腰を下ろした。

「失礼します」
 お茶を運んできた執事とともに応接室に足を踏み入れたアレンは、祖父と向かいあって寛いだ様子でソファーに腰かけている吉野を見つけ、あんぐりと口を開け立ち尽くした。

「よう、元気そうだな?」
 吉野はにっこりと笑って片手を挙げる。

「なんだ、知り合いか?」
「俺たち、エリオットで同期なんだ」
「お前、エリオットの生徒なのか! 落ちたものだな、あの学校も――。さっさとアレンを引上げさせて良かったということだ」
「そうだね、俺、こいつがあのまま学校にいたら、あんたの会社がどうなろうと知った事じゃなかったもんな。こいつのおかげで助かったね」

 組んだ膝の上に頬杖をついて吉野は無邪気に笑っている。

「執事さん、俺、紅茶じゃなくてコーヒーにして」

 注がれたばかりのティーカップを脇に押しやり、「で、どうすんの?」と、吉野はもう一度フェイラーに笑いかける。

「なんなら、それ以降のシナリオも教えてやろうか?」

「ヨシノ、きみは次々とカードを切りすぎだ」
 とうとう堪え切れなくなったヘンリーが、クスクスと笑いだしながら吉野の頭を撫でた。

「お祖父さま、僕のファンドマネージャーはなかなか優秀でしょう?」
 押し黙っていたフェイラーは、眉をしかめたままヘンリーに顔を向け、脅しつけるような太い声で言い放った。

「馬鹿者めが、この程度の対応くらいできておるわ」
「馬鹿はあんただよ。あんた、自社株を別会社に貸し出してヘッジ売りをかけたつもりだろうけれど、ヘッジをかければかけるほど、株価は戻らなくなって、更なる下落を招くことになるよ。産油国のアラブ勢がいつまでも原油価格下落を容認するわけがないと思っているなら、それもお門違いだしね」

 吉野は呆れた様子で溜息をついた。

「もう、いいよ、面倒くさい。判るやつ連れてきて。あんたはそいつの判断に、サインするだけでいいからさ」
「ヨシノ――」

 ヘンリーはもう隠そうともせずに口許を晴れやかにほころばせている。だがやがて、怒り心頭といった体でブルブルと身体を震わせている祖父に向かい居住まいを整えると、「お祖父さま、明日、出直してきますよ。今夜一晩、じっくりお考えになって下さい」と告げると、おもむろに立ちあがった。

「あ、言い忘れていたけれど、俺の報酬な、こいつをエリオットに返して欲しいんだ。みんな、こいつが帰ってくるのを待っているからさ」

 吉野は部屋の半ばで立ち尽くしたままのアレンを指さして言い、「じゃ、いい返事を期待してるよ」と、腰を浮かせてフェイラーに右手を差し出した。だがすぐに、睨みつけられるだけで握り返されることのないその右手をひょいっと挙げて、肩をすくめて立ちあがる。


「ヘンリー、少し時間をくれよ。こいつと話したいんだ」

 快く頷いたヘンリーはもう一度ソファーに座り直し、吉野はアレンの肩を抱くと引っ張り出すように、応接室を後にした。





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