胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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校長室のドアが開いたとたん、廊下に集まり、聞こえるはずもないのに聞き耳をたてていた生徒たちが、蜘蛛の子を散らすようにバタバタと走り去った。吉野は丁寧にドアを閉め、素知らぬふりをして顔を背けている生徒の間を悠然と歩き去る。

「ヨシ……」
 声をかけようとしたクリスを、吉野は冷たい目で一瞥し通りすぎて行く。クリスはうなだれて唇を噛みしめる。フレデリックは、そんな彼を労わるように肩を組んでゆっくりと歩いた。




 人目のない音楽棟の中庭まで来たところで、クリスは悔し涙を滲ませてフレデリックに怒りをぶつけた。

「こんなのは嫌だよ!」
「でも、ヨシノがそうしろって……」
「ヨシノは優しいから、僕たちまで嫌な目に遭わないようにそう言ってくれているだけだ! でも僕は学校中が敵になっても、ヨシノといる方がいい!」
「馬鹿を言うなよ」

 足下で声がした。驚いて振り返ると、地べたに座りこみ青々とした芝上に長い脚を放りだした吉野が、壁にもたれかかっている。吉野はにっと笑って、「でも、ありがとな」と片手を挙げる。クリスは勢い良く駆けよって、その手に自分の手をパンっと打ち合わせる。


「校長先生の話って、何だったの?」
 吉野の横に腰を下ろし、フレデリックは努めて冷静な様子で訊ねた。
「投資サークルのこと。もう少し続けてくれって」
「警察に捕まる、って言われているのに、校長先生は続けろって?」

 素っ頓狂な声をあげるクリスに、吉野は顔をしかめて、しぃーと唇に指を当てる。

「いくらここが死角になっているからって、そんなでかい声をあげたら誰かに気づかれるだろ」
「ごめん、ヨシノ」

 クリスは慌てて両手で自分の口を覆う。

「だから、まったくのデマだよ、逮捕うんぬんってのは。だいたい、なんだってそんな根も葉もない話が――」

 学舎の黒々とした影が包み込む芝生の上に、ふと、吉野は松葉杖をついていたアレンを思いだした。この場所でも、セドリックの取り巻き連中に絡まれていたことがあった。恨みを買っているとすれば、一番にあの連中だ。生徒会を引責辞任した奴らの中でまだ在学しているのは……。

 急に黙り込んだ吉野を、心配そうに二人が見つめている。吉野は安心させるように、「とにかく、そんな心配するなよ」と明るく言い放つ。


 目的は、俺だけじゃないのかもしれない――。

「俺、土日はケンブリッジに行ってくる。飛鳥が帰ってきてるんだ」

 脳細胞をフル回転で働かせて推量しているとはおくびにも出さずに、吉野は目を細め、嬉しそうににっこりと笑った。その笑顔に釣られて、クリスも、フレデリックもほっとしたように微笑み返していた。




 今日も、杜月吉野は一人っきりで歩いている。凛として、誰をも近づけず、堂々と――。

 礼拝堂での週初めの朝礼を終え、バラバラと早足で各々一限目の授業の始まる学舎に向かう。黒い燕尾服の群れの中、吉野の周囲にだけ、ぽっかりと穴が空いたような空間が広がっている。遠巻きに見つめる多くの生徒のその背中に注がれる視線には、軽蔑や怒りだけではなく畏怖や憧れも入り交じっている。

「どうして彼はあんなに堂々としていられるんだろう……」
「犯罪を犯すような奴はそういうものなんだよ。自分が悪いことをしているなんて、これっぽっちも思っていないのさ」
「そうかなぁ、こんなにみんなから白い目で見られて避けられているのに、彼はちっとも堪えてないようだよ。僕だったら、こんなの耐えられないよ。本当にそんな悪いことを、彼、したのかなぁ」

 そこかしこで小声で交わされているそんな会話も、本人の耳には届いていないように見受けられた。


「ヨシノ!」
 そんな中で大声で呼び止められ、吉野は何事かと振り返った。人混みをかき分けて、というよりも、人混みの方が腕を高く挙げて呼びかけているベンジャミンに道を開けている。

「何ですか、寮長」
 吉野は慇懃な口調で返事をする。
「アレンから連絡があったんだ。きみのところへは?」
 吉野は首を振る。
「予定では、今日にはってことだったんだけれどね、もう少し伸びるそうなんだよ」

 ベンジャミンは親し気に吉野の肩に腕をまわし、残念そうに溜息をつく。

「せっかくきみが骨を折ってくれたっていうのにね。どうやら彼、体調を崩しているらしくてね、本人も凄く残念がっていた。でも、遅れるっていってもわずかだからね。心配いらないよ」
「そうですか」
「そう、それでね、きみにちょっと頼みがあってさ、」

 ベンジャミンは声高に喋り続けた。吉野は感情の視えない顔で、時々頷いている。周囲は皆一様に顔を伏せて足早に歩きながらも、耳に神経を集中させているのがありありと判った。その中でも特に、キングススカラー達はお互いに顔を見合わせたり、目配せしたりし合いながら、微妙な表情で二人を見守っている。



 夕食後の自習時間に、ドヤドヤと今年のIGCSEを受ける三学年生と、一部の二学年生が自習室に入ってきた。が、入り口で根が生えたように立ち止まって動かない。背後から、「早くどけ!」「何やっているんだ!」と、罵声が飛び交う。最前列の生徒は互いに顔を見合わせて、おずおずと足を忍ばせるようにして室内に移動し、壁際に張りつくように順番に並んだ。もたもたと動かない入り口に、よく通る声が響きわたる。


「さぁ、早くするんだ。時間がもったいないだろ!」

 下級生をかき分けるようにして、ベンジャミンが部屋に入ってきたのだ。

「ああ、来てくれていたんだね! ありがとうヨシノ」

 朗らかに言い放ち、窓際の机についている吉野の傍に立つとその肩に手を添え、いまだ入り口に固まる下級生たちに呼びかけた。

「今日からこのヨシノが、チューターと一緒に、きみたちのIGCSEの勉強をみてくれるからね。彼は皆も知っての通り、一学年生の間にオールAの成績でこの試験を終えているんだ。判らないことは何でもきくといいよ!」

 じゃ、頼んだよ、とベンジャミンはもう一度、ポン、と吉野の肩を叩き部屋を後にする。入れ替わりに入って来たチューターのスコット先生に促され、入り口に溜まっていた生徒たちも次々と机に向かった。




 しーんと静まり返った室内に、ページを捲る紙のカサカサした音や、キシキシと椅子の軋む音、溜息や舌打ちなど、小さな雑音がやたらと耳についた。入れ替わり立ち替わりチラチラと視線を浴びている吉野は、背もたれに身体をあずけ、ぼんやりと窓の外を眺めている。
 日は傾き、西日が窓辺から覗く低木の緑を柔らかく照らしている。何に目を留めたのか、吉野はふっと表情を緩めて微笑んだ。

 ガタン、と木製の椅子が引かれる音が響き、ひとりの生徒が立ちあがった。おずおずと一歩一歩踏みしめるような足取りで吉野の傍らに立つ。緊張からか、彼の教科書を持つ手は震えている。

「あの、あの、数学を――」
「うん、いいよ。どこが解らないんだ?」

 吉野はにっこり微笑むと、傍らの椅子を静かに引いた。






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