胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 以前、アーネストに言われた。
 スーツは男の鎧だ、と。そして、女の鎧は化粧だと。

 吉野は、目前にいる美しいひとに、朗らかな子どもらしい邪気のない笑顔を向けている。その場の殺伐とした空気など、まるで気がついていないかのように――。

 時代を感じさせる艶のあるダークブラウンの壁板に規則正しく埋めこまれたブルー&ホワイトの陶板画を背に座る彼女は、清廉で禁欲的な修道女を思わせる控えめな化粧をしている。地味な濃紫のスーツに身を包み、白金の髪をきちんと結いあげ、菫色の瞳をおとなしめに伏せて座っている。
 百合の花を思わせる高雅で清楚なその姿は、このエリオットの街一番の伝統あるホテルのティールームにいる誰よりも美しいに違いない。彼女の前に、こいつさえいなければ――。

 まるで受胎告知の絵みたいだ。

 マリアの前に降りたった大天使ガブリエル――。吉野はアレンのことを天使だなどと思ったことはなかったのに、この二人が並ぶと、どうもそんなふうに見える、と内心不思議がっていた。
 だが、この天使は目前のマリアなど眼中にないようで、その頭上に柔らかな光を注ぐステンドガラスをぼんやりと見あげていた。まるで、この苦痛なだけの時間がさっさと終わってくれるのを祈っているかのように――。



「それで、僕になんの要件ですか?」

 吉野は上品なクイーンズ・イングリッシュで訊ねた。彼女は、そっとその瞳を縁どる濃い睫毛を瞬かせて吉野を見あげる。

 うわっ、受ける印象は真逆でも、目つきがそっくりだ、このふたり――。

 彼女のその瞳の中にフィリップと通じる媚を見て、吉野は凍りついた笑顔を顔に貼りつかせ、隣に座るアレンを一瞥した。案の定だ。彼の心中でも、無関心の上に嫌悪感が上塗りされたに違いない。

「特に用事というわけじゃないのよ。この子からとても仲の良いお友達ができたって聞いたから、お会いしてみたかっただけ」

 彼女は、傍らのまた従兄弟の肩を抱き、柔らかな澄んだ声で応える。

 フィリップに紹介されたドイツからの訪問客は、まだ年若い女だった。ドイツ・ルベリーニ分家は女当主。話には聞いていたがここまで若いとは、吉野ですら知らなかった。だが若いといっても、もうじき二十六歳になるという。
 マリーネ・フォン・アッシェンバッハと名のった彼女は、フィリップの選んだ主人であるアレンに挨拶にきたのだという。そのわりに型通りの言葉を交わした後は、その注意のほとんどを吉野に向けている。詰まるところ、それは建前だ。

 気まずさがテーブルを包んでいた。取りたてて意味もない会話ですら、なぜか続かない。アレンの冷ややかな空気が、その場にいる誰をもの口を重くしていた。




 しばらくして運ばれてきたアフタヌーン・ティーセットに、ほっと空気が和む。一番上のケーキに伸びた白い指先を、吉野の手がペシッと叩く。

「サンドイッチからだろ」
「兄も、ラザフォード卿も、好きなものを食べればいいって、」
 口を尖らせるアレンに、吉野は渋顔を作る。
「お前、また昼食はサラダとデザートしか食べなかっただろ」
 吉野は胡瓜のサンドイッチとスコーンを皿に盛り、アレンの前に置く。
「どうして知っているの? 昼食ホールに来ないくせに」
 不思議そうに見つめる瞳に、吉野は悪戯っ子のように笑い返した。
「俺、魔法使いだから。なんでも見通せる水晶玉を持っているんだ」
「箒なしでも、飛ぶしね」

 その答えを信じてでもいるかのようにアレンもクスクスと笑った。それ以上文句を言うのはやめ、優雅にサンドイッチを摘み、口に運んだ。間を置かず、「魔法使い」という言葉にぴくりと反応したマリーネが、伏し目がちの目を上向けて吉野に据えた。

「魔法使いならただの石を金に変えられるかしら?」
「まさか! 石は金にはなりませんよ。構成元素が違うもの」
「同じものなら増やせるでしょ?」
「キリストのように? パンを増やせと?」
「あなたならできるって聞いたけれど?」

 マリーネは好奇心で瞳を燃えたたせ、軽く睨むように吉野を見つめている。

「空中からこうやってパンを取りだせと?」
 吉野はクスクス笑いながらパチンと指を鳴らす。
「もし俺がそうやって出したパンを食べていたら、それはどこかから、誰にも気づかれないように略奪してきたものですよ」
「あ! それ僕の分!」

 サンドイッチを頬ばる吉野にフィリップが声をあげる。その彼に向け、追い払うように吉野は手を振る。

「俺、これしか食えるものないもの。譲れよ。俺のスコーンとケーキ、食っていいからさ」

「あげるわ」
 マリーネは優雅に微笑みながら、自分の皿をフィリップの前に寄せる。
「そうね。確かにそうに違いないわ」

「世界はゼロサムゲームだもの」
 笑って答えながら、吉野は三段トレイに並ぶ数種類のケーキのひとつを取ると、眉を寄せて不安げに自分を見つめているアレンの前に差しだした。

「ここのお薦めはフラワームースなんだ」
「甘いもの食べないくせに」
「味見はしたよ」

 吉野は軽く吐息を漏らし、ひと匙ムースを掬ってアレンの口許にまで運んでやる。

「文句はつけるくせに、お前、やっぱり薔薇の香りが好きじゃん」

 ピンク色の花びらを散らした薔薇のムースが、アレンの口の中でじゅわっと溶けていく。

「うん。美味しい」

 固い蕾がほころんで花開いていくような笑みを浮かべる彼の横で、「どうぞ」と吉野は中腰になり、紫色のケーキに菫の花を添えてマリーネに差しだしていた。

「あなたの瞳に」

 驚いて目を瞠る彼女に言い添える。

「これ、料理長からの心遣いです。いつもは、このセットに菫のケーキは入っていないもの」
「きみ、違いが判るほどここに入り浸っているわけ?」

 アレンの険のある声に、吉野の頬が引きつった。

「いや、そういう訳じゃ……。ここの料理長さぁ、けっこういい奴でな、」

 慌てて取り繕うように、吉野は空になっているカップに紅茶を注ぎ足した。

「ほら、サンドイッチ旨かっただろ? 俺の育てた胡瓜だからさ」


 吉野の始めた温室栽培の野菜作りは、新年度その成果を認められ、エリオット校内の農業育成サークルと市民グループとの協力のもと、新たな取り組みが行われることになったのだ、と吉野は誇らしげに説明した。エリオット校内とは別に、新しく作られた温室で実験的な高級野菜栽培を開始したのだ、と。ここの料理長ともその一環で知り合ったのだという。

「きみ、本当に手広くやっているんだね」

 アレンの口からなんともいえない溜息が漏れていた。知っているつもりでも、知らないことの方がまだまだ多いのだ。吉野はアレンにとって、いつまで経っても判らない存在だった。


「トヅキさん」

 話が途切れたところでマリーネに呼ばれた。視線を移した先の菫色の瞳が、熱を持ったように妖しく輝いている。吉野は目を細め、皮肉気な笑みを浮かべて呟いた。

「糸屋の娘は目で殺す――、だな」

 その隣に座るフィリップの、年齢に見合わないどこか退廃的で自堕落な可愛らしさとは一線を画しているが、しょせん、自分の美貌を武器に相手を動かそうという姿勢はマリーネも同じだ。

 フィリップよりはマシかと思ったのに――。ルベリーニ一族には、こんなのしかいないのかよ?

「で、俺にどうして欲しいの? 俺の助言、高いよ。ロレンツィオ・ルベリーニに許可を貰ってからのがいいんじゃないの?」

 吉野は面倒くさそうに、目の前の清楚な女の蒼褪めた顔に、疲れたような侮蔑的な視線を向けていた。




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