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七章
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額に置かれたひんやりとした感触にアレンは不思議そうに瞼を持ちあげる。朦朧とした意識のまま首を捻ると、ベッド脇に、腕組みをした吉野が座っていた。
「起こしちまったか?」
心配そうな鳶色の瞳が覗き込む。
「これ、気持ちいい」
アレンはにっこり笑って額の濡れタオルにそっと触れた。
「だろ?」
吉野はそのタオルを額から外し、サイドチェストに置かれたボールに浸し、ぎゅっと絞る。
「汗、酷いな」
熱で赤く染まるアレンのうなじに手を差し込んで持ちあげ、汗ばんだ首筋を拭いてやる。
「医療棟へ、」
「嫌だ。あそこは嫌いだ」
きつく眉根を寄せ首を振るアレンの額に、もう一度絞り直したタオルがのせられる。
「じゃあ、俺がついていてやるから」
潤んだ瞳で吉野を見あげると、汗でべとつく髪をさっくりと掻き上げられた。
「安心して、寝てろ」
吉野の言うことは、いつも正しい。
だから、僕はいつだって吉野を信じられる――。
アレンは安心しきった様子でふわりと微笑んで、瞼を閉じた。
「このくそ寒空に水ぶっかけられたってか?」
アレンの部屋のドアに持たれ、吉野は心配そうに立ちすくんでいるフレデリックに確認するように繰り返した。
「やっぱり寮長に話して護衛の件、検討してもらわないと」
「こんなことくらいで騒ぐなよ」
「でも、」
誰よりも憤慨するだろうと思っていた吉野の口から出た、などと信じられない冷めた一言に、フレデリックは目を瞠っている。
「俺が収めるからさ、ことを荒立てるなよ。監督生ともある者がいじめを受けてるだの、嫌がらせに自分で対処できないとなるとさ、来年度の推薦を受けられなくなる」
「あ――」
「それより、医務室へ行って風邪薬を貰ってきてくれないか?」
「それより彼を医療棟に連れていった方がいいんじゃ?」
「あいつ、あそこが嫌いなんだよ。出入りする奴を把握しきれないだろ。それこそ二十四時間つきっきりで見張りをつけなきゃいけなくなる」
きゅっと唇を噛んで、フレデリックは頷いた。
医療棟は完全看護とはいえ、ベッドが一ダースも置かれている相部屋だ。アレンが入棟したとなったらどれだけの仮病者が出るか判らない。気持ちばかりが急いて冷静な判断ができていない自分に苦笑し、情けなさから吐息を漏らす。
足音を立てないようにそっと、消灯後の暗い廊下を急ぐ彼の背中を見送って、吉野はアレンの部屋へ踵を返した。
暗闇の中、アレンは吉野の姿を探している。
傍らの椅子が空っぽなのだ。だけど人の気配は確かにある。
雲が流れ、煌々とした月が室内を明るく照らしだす。
吉野は窓際の机に腰かけていた。机から窓枠に足をかけて、月を見ていた。青白い月明かりを受けながらその横顔の口元が動いている。
電話? ――ドイツ語?
ぼんやりとした意識に切れ切れに届く音を追ってみても、何を話しているのかはアレンには判らない。だから虚ろなまま、アレンはただ彼を眺めていた。ずっと独り言でも言うように話している彼を。じっと月を眺めている彼を。透明な群青に包まれている吉野は、夜の静寂よりもよほど、密やかでしめやかな空気そのもののようだ。
意味の判らない音の羅列が、突如人の言葉になる。アレンのわずかなドイツ語の知識のうち、知っている言葉が耳に飛び込んできたのだ。
熱に浮かされて火照った頭で、アレンはその言葉を反芻する。
イヒ リーベ ディヒ、――あなたを愛している……。
アレンはぎゅっと目を瞑って、シーツを引きあげ頭から被った。身体を縮こまらせて自分で自分自身を掻き抱く。吉野の口からでたその言葉は、前に彼女と一緒にいる吉野を見たときよりも、なぜだかよほどショックだったのだ。目の前で見ても、どこかで信じていなかったのかもしれない……。
でも、今のは違う――。
「おい、起きてるのか?」
吉野の手がアレンの背中を叩いている。びくりと身体が跳ねる。
「うん。熱くて」
なんでもないふりを装ってアレンはシーツから顔をだす。にっこりと口角をあげて。
「フレッドが薬を貰ってきてくれてる。飲んどけ」
頷いてアレンは身体を起こす。頭がふらついた。吉野が肩を掴んで支えてくれた。
「ほら」
薬をお湯で溶いたカップを渡され、こくりこくりと少しずつ飲みくだす。ホットレモンのような味がする。
「汗かいているだろ? 着替えろよ」
これも、フレッドが用意したのだろうか――。
膝に置かれたパジャマをぼんやり眺めていると、吉野の手が頬に触れた。
「まだ熱が高いな」
「あ、うん。着替えるよ」
「背中、拭いてやるから」
そういえば、制服のシャツのままだったのだ。言われるままにシャツを脱いで、絞ったタオルで背中を拭いてもらった。前は自分で拭け、とタオルを渡され身体を擦った。自分の細い骨ばった腕や、筋肉のない貧相な身体が急に恥ずかしくなった。情けなくて、急いでパジャマを羽織って腕を通す。
その間に吉野が整えておいてくれた枕に、倒れこむように頭をのせる。
吉野が、顔にかかった髪を長い指先で梳いてくれる。
「さっぱりした?」
「うん」
「そうか。ゆっくり休めよ」
吉野は鳶色の目を細めて笑っている。明るすぎる月灯りに照らされた彼は、窓辺で恋人と話していたときよりもずっと、優しげで温かに見える。
月に向かって淡々と呟かれた愛の言葉。
そのときは、その月光のような蒼銀の冷たさが怖かったのに――。
吉野への想いは恋などではない。
吉野が誰を好きでも、誰とつき合っていても終わらない。
いつか終わる恋なんて、いらない。
そんな覚悟にも似た想いが、熱に浮かされるように全身を満たしていることを、アレンは改めて自覚していた。
「ヨシノ、ありがとう」
自然にほころんだアレンの笑顔に、吉野はほっとしたように片唇を跳ねあげる。汗で固まった金の髪をかき散らし、くしゃくしゃと撫でる。
「ほら、もう寝ろよ。ずっといてやるからさ」
「起こしちまったか?」
心配そうな鳶色の瞳が覗き込む。
「これ、気持ちいい」
アレンはにっこり笑って額の濡れタオルにそっと触れた。
「だろ?」
吉野はそのタオルを額から外し、サイドチェストに置かれたボールに浸し、ぎゅっと絞る。
「汗、酷いな」
熱で赤く染まるアレンのうなじに手を差し込んで持ちあげ、汗ばんだ首筋を拭いてやる。
「医療棟へ、」
「嫌だ。あそこは嫌いだ」
きつく眉根を寄せ首を振るアレンの額に、もう一度絞り直したタオルがのせられる。
「じゃあ、俺がついていてやるから」
潤んだ瞳で吉野を見あげると、汗でべとつく髪をさっくりと掻き上げられた。
「安心して、寝てろ」
吉野の言うことは、いつも正しい。
だから、僕はいつだって吉野を信じられる――。
アレンは安心しきった様子でふわりと微笑んで、瞼を閉じた。
「このくそ寒空に水ぶっかけられたってか?」
アレンの部屋のドアに持たれ、吉野は心配そうに立ちすくんでいるフレデリックに確認するように繰り返した。
「やっぱり寮長に話して護衛の件、検討してもらわないと」
「こんなことくらいで騒ぐなよ」
「でも、」
誰よりも憤慨するだろうと思っていた吉野の口から出た、などと信じられない冷めた一言に、フレデリックは目を瞠っている。
「俺が収めるからさ、ことを荒立てるなよ。監督生ともある者がいじめを受けてるだの、嫌がらせに自分で対処できないとなるとさ、来年度の推薦を受けられなくなる」
「あ――」
「それより、医務室へ行って風邪薬を貰ってきてくれないか?」
「それより彼を医療棟に連れていった方がいいんじゃ?」
「あいつ、あそこが嫌いなんだよ。出入りする奴を把握しきれないだろ。それこそ二十四時間つきっきりで見張りをつけなきゃいけなくなる」
きゅっと唇を噛んで、フレデリックは頷いた。
医療棟は完全看護とはいえ、ベッドが一ダースも置かれている相部屋だ。アレンが入棟したとなったらどれだけの仮病者が出るか判らない。気持ちばかりが急いて冷静な判断ができていない自分に苦笑し、情けなさから吐息を漏らす。
足音を立てないようにそっと、消灯後の暗い廊下を急ぐ彼の背中を見送って、吉野はアレンの部屋へ踵を返した。
暗闇の中、アレンは吉野の姿を探している。
傍らの椅子が空っぽなのだ。だけど人の気配は確かにある。
雲が流れ、煌々とした月が室内を明るく照らしだす。
吉野は窓際の机に腰かけていた。机から窓枠に足をかけて、月を見ていた。青白い月明かりを受けながらその横顔の口元が動いている。
電話? ――ドイツ語?
ぼんやりとした意識に切れ切れに届く音を追ってみても、何を話しているのかはアレンには判らない。だから虚ろなまま、アレンはただ彼を眺めていた。ずっと独り言でも言うように話している彼を。じっと月を眺めている彼を。透明な群青に包まれている吉野は、夜の静寂よりもよほど、密やかでしめやかな空気そのもののようだ。
意味の判らない音の羅列が、突如人の言葉になる。アレンのわずかなドイツ語の知識のうち、知っている言葉が耳に飛び込んできたのだ。
熱に浮かされて火照った頭で、アレンはその言葉を反芻する。
イヒ リーベ ディヒ、――あなたを愛している……。
アレンはぎゅっと目を瞑って、シーツを引きあげ頭から被った。身体を縮こまらせて自分で自分自身を掻き抱く。吉野の口からでたその言葉は、前に彼女と一緒にいる吉野を見たときよりも、なぜだかよほどショックだったのだ。目の前で見ても、どこかで信じていなかったのかもしれない……。
でも、今のは違う――。
「おい、起きてるのか?」
吉野の手がアレンの背中を叩いている。びくりと身体が跳ねる。
「うん。熱くて」
なんでもないふりを装ってアレンはシーツから顔をだす。にっこりと口角をあげて。
「フレッドが薬を貰ってきてくれてる。飲んどけ」
頷いてアレンは身体を起こす。頭がふらついた。吉野が肩を掴んで支えてくれた。
「ほら」
薬をお湯で溶いたカップを渡され、こくりこくりと少しずつ飲みくだす。ホットレモンのような味がする。
「汗かいているだろ? 着替えろよ」
これも、フレッドが用意したのだろうか――。
膝に置かれたパジャマをぼんやり眺めていると、吉野の手が頬に触れた。
「まだ熱が高いな」
「あ、うん。着替えるよ」
「背中、拭いてやるから」
そういえば、制服のシャツのままだったのだ。言われるままにシャツを脱いで、絞ったタオルで背中を拭いてもらった。前は自分で拭け、とタオルを渡され身体を擦った。自分の細い骨ばった腕や、筋肉のない貧相な身体が急に恥ずかしくなった。情けなくて、急いでパジャマを羽織って腕を通す。
その間に吉野が整えておいてくれた枕に、倒れこむように頭をのせる。
吉野が、顔にかかった髪を長い指先で梳いてくれる。
「さっぱりした?」
「うん」
「そうか。ゆっくり休めよ」
吉野は鳶色の目を細めて笑っている。明るすぎる月灯りに照らされた彼は、窓辺で恋人と話していたときよりもずっと、優しげで温かに見える。
月に向かって淡々と呟かれた愛の言葉。
そのときは、その月光のような蒼銀の冷たさが怖かったのに――。
吉野への想いは恋などではない。
吉野が誰を好きでも、誰とつき合っていても終わらない。
いつか終わる恋なんて、いらない。
そんな覚悟にも似た想いが、熱に浮かされるように全身を満たしていることを、アレンは改めて自覚していた。
「ヨシノ、ありがとう」
自然にほころんだアレンの笑顔に、吉野はほっとしたように片唇を跳ねあげる。汗で固まった金の髪をかき散らし、くしゃくしゃと撫でる。
「ほら、もう寝ろよ。ずっといてやるからさ」
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