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九章
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磨きあげられた大理石の上を兵士たちが行進し、コンピューターゲームの駒が自動的に盤上のマス目を埋めていくように規則正しく整列していく。彼らの上に降り注ぐ陽射しは、普段よりもよほど柔らかい。この日、宮殿内の中庭で行われるアリー・ファイサル・バッティの近衛師団長就任式は、この国では稀にみる雲の多い日だった。とはいえこの時期、5月半ばの日中気温は30度を優に超えるのだ。式は午前中に終える予定とされている。
エドワード・グレイは本殿二階の窓辺から、ここに来て初めて見る空を覆う灰色をいくばくかの安堵と郷愁を感じながら見上げ、ふたたび眼下で繰り広げられているどうにも現実感のない行進へと視線を移した。じきにそれにも飽きると窓に背を向け、この応接間に彼と同じく陣取っている英国人の情報部員――もっともあちらは秘密情報部なので、彼が所属する国防情報参謀部とは犬猿の仲、とまでは言わないが、膝を突き合わせて茶を飲みたいような気楽な相手ではない――を、見るともなく眺めた。
40代には見える年嵩と、エドワードと変わらないくらいの若手との二人組が、くつろいだ様子で差し向かいあい優雅に紅茶を嗜んでいるさまは、ここがどこで、今どんな状況にあるのか忘れてしまっているかのようだ。そんな緊張感のない彼ら二人ともが特に印象に残らない容貌をしていることも、いかにもSISらしいとエドワードは思った。
彼がSISとの過去の因縁をちらちらと思い返しては悶々としているうちに、窓外では漆黒に深緑のモールを下げた華やかな軍服の近衛兵1万余が、四方を馬蹄型アーチの連なるアーケードに囲まれた広大な空間に整然と並び揃った。彼らの頭部は、アラブの象徴とも見えるシュマッグで覆われている。陽の光を跳ね返して白く輝くそれが、画一的な軍服のなかでのこの国らしい特色の一つだといえるのかもしれない。もっともこれは儀式用の正装で、日常の勤務では軍服と同色のベレー帽を被っている。
この数か月で断行された彼ら近衛兵三分の一にも及ぶ再編成によって、師団を構成する顔ぶれは大きく変わったという。そうした大変革も、本日の式典でもってようやく完遂されるということだ。
なぜなら、昨年のクーデター未遂事件で王と皇太子を守り、また度重なるテロとの戦いでの功績を称えられたアリー・ファイサル・バッティの大佐から准将への昇進と勲章授与、そして近衛師団長任命によって、王から皇太子への指揮系統の移行がすべて整うことになるからだという。
「実に喜ばしいことじゃないか」と、思った以上に近い位置で聞こえている声に、エドワードは口をへの字に結び、仏頂面を保ったまま聞き耳を立てていた。
いつの間にか窓辺によっていた年嵩の男が、若手にそんな解説を始めていたのだ。
その政権移行の要となる式典を見せつけられることの意義を、どう捉えるべきなのか、探りあう相手は晴れやかな舞台にいる彼らではなく、こうして傍から眺めているもの同士の間ではないのか、とつい要らぬ思惑に気を重く沈め、聴こえぬふりを通して彼は式を見据えていた。
もちろん外野のそんな思惑など意に介することなく、式典は滞りなく進んでいた。その瞬間まで――。
窓外のスピーカーから響く理解できない言語をBGMのように聞き流しながら、エドワードは窓越しに眺め下ろしていたのだ。他の二人もそろそろ終盤だろうと、窓ガラスに腕をついて見下ろしていた。
「即席で仕上げた兵士にしては、よく統制されているじゃないか」
「ええ、まったく。ですがこうも皆が皆同じ格好では、王も皇太子も側近も、誰が誰やら判らないですね」
若手が追従笑いを浮かべて応えている。
黒の長衣を羽織っているのが国王だ、と年嵩が言った。
居並ぶ兵士たちよりも一段高く設けられている仮説ステージでは、国王自らの手によって、アリーに祝辞と勲章が授与されていた。
「あちらが皇太子だ」、と年嵩がステージの一方を指さした。
同じ壇上の端で控えていたサウード皇太子が、この日のハイライトとなる近衛師団長任命のために粛々と中央へと進む。王はその場を動かず皇太子を迎えていた。エドワードたちからは、その広いわずかに丸まった背中しか伺えなかったが。
王を挟んで直立不動で待つアリーの正面に止まり、サウードは満面の笑みを浮かべて両腕を広げた。アリーは畏敬を表すために一歩足を進めた。
直後――。
皇太子はカクンと膝を折り、冷たい大理石の上に崩れ落ちていた。
この広大な空間そのものが凍りついたような静寂が下りた。
居並ぶ兵士たちも、ステージ上にいた側近のうち誰一人として、微動だできる者はいなかった。
それも束の間、今度は王がくずおれた。
「衛兵! どうなってるんだ、衛兵! 早く陛下と殿下を保護しないか!」
一番に声を張りあげたのは、本殿の窓からこの式典を眺めていたエドワードだった。
「近衛兵は何をしているんだ? 救護班は?」
そして、SISの二人の諜報員たちだった。
エドワード・グレイは本殿二階の窓辺から、ここに来て初めて見る空を覆う灰色をいくばくかの安堵と郷愁を感じながら見上げ、ふたたび眼下で繰り広げられているどうにも現実感のない行進へと視線を移した。じきにそれにも飽きると窓に背を向け、この応接間に彼と同じく陣取っている英国人の情報部員――もっともあちらは秘密情報部なので、彼が所属する国防情報参謀部とは犬猿の仲、とまでは言わないが、膝を突き合わせて茶を飲みたいような気楽な相手ではない――を、見るともなく眺めた。
40代には見える年嵩と、エドワードと変わらないくらいの若手との二人組が、くつろいだ様子で差し向かいあい優雅に紅茶を嗜んでいるさまは、ここがどこで、今どんな状況にあるのか忘れてしまっているかのようだ。そんな緊張感のない彼ら二人ともが特に印象に残らない容貌をしていることも、いかにもSISらしいとエドワードは思った。
彼がSISとの過去の因縁をちらちらと思い返しては悶々としているうちに、窓外では漆黒に深緑のモールを下げた華やかな軍服の近衛兵1万余が、四方を馬蹄型アーチの連なるアーケードに囲まれた広大な空間に整然と並び揃った。彼らの頭部は、アラブの象徴とも見えるシュマッグで覆われている。陽の光を跳ね返して白く輝くそれが、画一的な軍服のなかでのこの国らしい特色の一つだといえるのかもしれない。もっともこれは儀式用の正装で、日常の勤務では軍服と同色のベレー帽を被っている。
この数か月で断行された彼ら近衛兵三分の一にも及ぶ再編成によって、師団を構成する顔ぶれは大きく変わったという。そうした大変革も、本日の式典でもってようやく完遂されるということだ。
なぜなら、昨年のクーデター未遂事件で王と皇太子を守り、また度重なるテロとの戦いでの功績を称えられたアリー・ファイサル・バッティの大佐から准将への昇進と勲章授与、そして近衛師団長任命によって、王から皇太子への指揮系統の移行がすべて整うことになるからだという。
「実に喜ばしいことじゃないか」と、思った以上に近い位置で聞こえている声に、エドワードは口をへの字に結び、仏頂面を保ったまま聞き耳を立てていた。
いつの間にか窓辺によっていた年嵩の男が、若手にそんな解説を始めていたのだ。
その政権移行の要となる式典を見せつけられることの意義を、どう捉えるべきなのか、探りあう相手は晴れやかな舞台にいる彼らではなく、こうして傍から眺めているもの同士の間ではないのか、とつい要らぬ思惑に気を重く沈め、聴こえぬふりを通して彼は式を見据えていた。
もちろん外野のそんな思惑など意に介することなく、式典は滞りなく進んでいた。その瞬間まで――。
窓外のスピーカーから響く理解できない言語をBGMのように聞き流しながら、エドワードは窓越しに眺め下ろしていたのだ。他の二人もそろそろ終盤だろうと、窓ガラスに腕をついて見下ろしていた。
「即席で仕上げた兵士にしては、よく統制されているじゃないか」
「ええ、まったく。ですがこうも皆が皆同じ格好では、王も皇太子も側近も、誰が誰やら判らないですね」
若手が追従笑いを浮かべて応えている。
黒の長衣を羽織っているのが国王だ、と年嵩が言った。
居並ぶ兵士たちよりも一段高く設けられている仮説ステージでは、国王自らの手によって、アリーに祝辞と勲章が授与されていた。
「あちらが皇太子だ」、と年嵩がステージの一方を指さした。
同じ壇上の端で控えていたサウード皇太子が、この日のハイライトとなる近衛師団長任命のために粛々と中央へと進む。王はその場を動かず皇太子を迎えていた。エドワードたちからは、その広いわずかに丸まった背中しか伺えなかったが。
王を挟んで直立不動で待つアリーの正面に止まり、サウードは満面の笑みを浮かべて両腕を広げた。アリーは畏敬を表すために一歩足を進めた。
直後――。
皇太子はカクンと膝を折り、冷たい大理石の上に崩れ落ちていた。
この広大な空間そのものが凍りついたような静寂が下りた。
居並ぶ兵士たちも、ステージ上にいた側近のうち誰一人として、微動だできる者はいなかった。
それも束の間、今度は王がくずおれた。
「衛兵! どうなってるんだ、衛兵! 早く陛下と殿下を保護しないか!」
一番に声を張りあげたのは、本殿の窓からこの式典を眺めていたエドワードだった。
「近衛兵は何をしているんだ? 救護班は?」
そして、SISの二人の諜報員たちだった。
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