霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

34 パブ1

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 同じ大学進学準備ファウンデーションコースに通う連中のなかで、なんとなく一緒にランチを食べたり、ディスカッションの準備をしたりする奴ができた。留学生がほとんどのこのコースだけど、彼はイギリス人だ。そのせいで、僕と同じく若干浮いていたからかも知れない。

 彼、ショーン・プレスコットは、工学系の課目でAレベル試験を受けたのに進路変更して、人文系の大学進学準備ファウンデーションコースを受け直している変わり種だ。といってもマリーみたいにお喋りじゃないし、アルビーほど無口でもなく、いたって普通。僕からしてみると、とっつきやすい存在だ。

 家にあまりいたくないのもあって、僕は彼と急速に親しくなっていった。

 一緒に夕飯を摂って、遅くまで図書館ですごす。それが日課になった。ずっと同じ机についているわけではないけれど、同じ館内で頑張っている仲間がいるんだと思うと励みになって、これまで以上に勉強に集中できたんだ。



 休日も図書館で待ちあわせて、夕方から本屋に案内してもらった。ずっと欲しかったパラケルススの『妖精の書』の古書を見かけた、と彼が教えてくれたのだ。こんなとき、同じ分野に関心のある友だちがいると助かる。アルビーやマリーには馬鹿にされるんじゃないか、って不安が過って話せないようなことも、普通に口にできるもの。
 

 その帰りがけに夕飯を食べていくことになった。今日は学食は休みだ。たまには贅沢してもいいかな、と彼の行きつけのパブへ連れて行ってもらった。ショーンはロンドンっ子だし、地元のことはやはりがぜん詳しい。カレッジから近くて、でも道順が入り組んで一回では覚えられないような、裏通りの大きな店構えのドアを押す。

 足の下で、使いこまれ擦りきれた板敷の床が、キュッ、キュッ、と小さく鳴る。天井から釣りさがる裸電球のペンダントライトと、ウォールライトが仄暗い空間に暖色の明かりを灯している。

 ショーンは、僕のために壁の黒板にチョークで書かれているメニューを読みあげてくれた。僕でも知っている定番料理ばかりだ。彼のお勧めのフィッシュアンドチップスにした。カウンターで注文するとき、彼はエールも頼んだので、僕も年齢確認の提示を求められた。すごく嫌だったけれど仕方がない。応じなければ、未成年の連れがいるということになってアルコールは売ってもらえない。下手すると店から追い出される。この国は未成年の飲酒にびっくりするほど厳しい。

 パスポートで年齢を見た瞬間、彼らが一様いちように見せるあの顔。
 嘘だろ、って妖怪かなにか見ているみたいな――。
 まじまじと僕を見つめ、この店員も例外なく目をくりくりとさせて軽く首を振っている。
 そんな店員の反応を見ても、ショーンは冷たい一瞥を返しただけ。それだけのことだけど、僕はとても嬉しかった。


 店内はレストランとパブコーナーに分かれていて、テーブル席のほとんどは予約がいるらしい。小さな丸いカウンターテーブルの、ちょっと安定感のない椅子に座った。
 ショーンがパイントグラスを両手に持って戻ってきた。
「こいつは俺のおごり」と、にこにこと笑っている。
 飲めないとはさすがに言えない。

 苦いエールをチビチビと舐めている間に、料理が運ばれてきた。
 大きな皿からはみだすほどの巨大な魚のフライに、山盛りのポテト。それにレモンとタルタルソース、緑のディップが添えてある。
 食べきれるかな。
 一番に過ったのはそんなことだ。

 でも、彼のお勧めだけのことはあって、イギリスに来てから食べたどんなフィッシュアンドチップスよりも、脂っこくなくて美味しかった。この一見不気味な緑は、グリンピースをすり潰したディップだ。マッシーピーズというのだと、ショーンが教えてくれた。
 ショーンは僕の友人に少し似ている。うんちくを語るのが好きらしい。僕はもう九か月もこの国に住んでいるというのに、観光で訪ねてきた異国の友人をもてなしているように、イギリス料理からビール、パブの歴史まで丁寧に解説してくれる。

 話も料理も美味しいけれど、半分くらいで飽きてきた。
 この白身魚、衣の下は淡白なたらだ。ディップソースがなくなると、なんだか物足りない。醤油か中濃ソースが欲しい。ここは諦めて定番のモルトビネガーをかけるべきか――。そういえば、このビネガーは付け合わせのチップスにかけるもので、フライにかけるものではないらしい。イギリス流に素材の味を楽しむのも限界がある、と僕は思うんだけど。

 ショーンのうんちく話を半ば聞き流しながら思案していたのだけど、薄暗い店内の奥からふと視線を感じて顔を向けた。

 ウォールライトに照らされた、壁を埋めつくす幾枚も重ねて貼られた古い映画のチラシ。その下部に沿った黒い合皮のテカテカしたソファー。そこは団子状にくっつきあって座っている学生連中で込みあい、煩いほど賑やかだ。


 けれど、どんな人混みのなかにいたって、アルビーはひと目で僕を引き寄せる。どんな薄暗い空間のわずかな灯りの下であろうと――。

 僕は息を呑み、唖然と彼を見つめていた。

 



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