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Ⅲ.春の足音
115 旅33 白い道
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麓までの道を下り海岸端まで辿り着いた時には、水は更に引いて舗装された道が完全に現れていた。僅か三、四時間しか繋がらないこの石畳を、既に多くの人々が行き交っている。
車一台分ほどの幅で整然と舗装された敷石の両脇は、濃い緑色の苔に覆われた岩々が連なっている。さながら深い山の中で見られる、苔に覆われた参道のように。その神秘的な印象に、心が震えて堪らなかった。
彼岸から此岸へと白く伸びる、僅か十五分間の奇跡。
緩やかな波の音を聴きながらこの道を踏み締め、確かに還って行くのだ。こちら側に。そう実感する。
緩みっ放しの僕の顔を、ショーンがチラチラと見つめている。でも何も言わない。僕に怒っていたコリーヌは、そんなことはもう忘れてしまったかのように、歓声を上げてはしゃいでいる。このまま、この波間に流してくれればいいけれど。
道を渡り切り、振り返る。感慨深い想いとともに、この風景を心に焼き付けた。
ここからまたペンザンスの街に戻り、通りに面した適当なお店で食料を買い込み、次の目的地に向かった。
僕はなんだか、すっかり満足していたんだ。もう、旅を終えてしまった気分だった。このまま真っ直ぐロンドンに帰りたい。アルビーに逢いたい。彼を抱き締めて、今のこの気持ちを伝えたい。そんなふうに思っていた。
「ほら、」
と、ショーンからコーニッシュ・パスティを渡された。この街はパスティ屋さんが本当に多くて、パスティの種類も豊富だった。なんだか名残惜しい。
ショーンはフィッシュ・アンド・チップスを齧っている。お店でかけてきたらしい酢の臭いが車内に充満しているので、コリーヌが窓を開けた。
「次はどこだっけ?」
「まずメン・アン・トール、そこからローチ・ロック、ボトミンムーアで宿泊だよ」
ショーンではなく、ミシェルが答えてくれた。彼はコリーヌのように僕に怒っている訳ではないらしい。
彼女も車に乗るまでは、何か言いたげな眼つきで時々僕を見ていたけれど、さすがにこの狭い車内で話を蒸し返しはしなかった。ミシェルが彼女を諫めてくれたのかな? 大体、飲めないって言っているにも関わらず、自分がお酒を勧めておいて、僕が酔っ払って覚えていない、って責めるのは、筋が違うと思う。
でも、文句ばかり考えるのはやめにした。いい気分を壊したくなかったから。今のしっかりと地に足のついている感じを忘れたくない。口に頬張っているパスティを美味しいと、味わっている感じを楽しみたい。
この旅行に来るまで、僕はこんな当たり前の感覚すら忘れていた気がするんだ。ずっと不安で、足元が覚束なくて。味が判らない訳じゃなかった。甘い、辛い、酸っぱい……。ちゃんと判る。でも、味わってなんていなかった。ただ口に入れ、咀嚼するだけで。
いつも、アルビーで頭の中はいっぱいだったから。
アルビーでいっぱいだった。それは間違いない。でも、僕が考えていたのは、アルビーがどう思うかということばかりで。
彼はどう思っているのか? どんなふうに感じているのか? 彼は何を求めているのか? って、彼の気持ちを推察するばかりで。
僕はアルビー自身のことを考えても、感じてもいなかったんだ。
アルビーがどう思って、どう感じているのか、を想像するのではなくて、僕が彼をどう受け止めて、どう感じているのかを、考えなきゃいけなかったんだ……。
僕はアルビーと向き合ってはいなかった。僕が見ていたのはアルビーの眼に映る臆病な僕自身にすぎなかった。アルビーに触れていた時、アルビーでいっぱいだと思っていた僕自身は、ちゃんとそこにいたのだろうか?
僕は卑怯だ。ちっとも彼を受け止めてなんていなかった。セックスに応えることが彼を受け止めることだ、と安易に考えて躰だけを差し出していた。そんなことで、彼が満たされるはずがなかったのに。
黙々とパスティを頬張り、まだ温もりのあるコーヒーで流し込んだ。ふと気がつくと、ショーンが何とも言えない眼差しで僕を見ていた。
「そんなリスみたいに頬っぺた膨らませてバクバク勢いよく食って、平気かい? 二日酔いは?」
「うん、もうすっかり。きみのくれた薬が良く効いたみたいだよ。ありがとう、ショーン」
にっこりして答えると彼も安心したのか、ちょっと微笑んで食べかけの鱈のフライにかぶりついた。そして、「食えるんなら、もっと食っとけ」と、フライドポテトを分けてくれた。
一通り食べ終えると、
「これから行くメン・アン・トールはな、ケルト伝承の小人、コーンウォール鉱山のノッカーに紐付く遺跡群じゃないかと言われていてな、」
と、ショーンはいつものうんちく話を立ち上げ、何の蟠りもなく、コリーヌやミシェルと議論を始めた。
ムードメーカーのショーンのお陰で、不貞腐れて喋り出すきっかけを失っていたコリーヌも、すっかり普段通り。彼のこういうところ、僕には真似できない。
いろいろあっても、ショーンはやっぱりいい奴だと思う。
車一台分ほどの幅で整然と舗装された敷石の両脇は、濃い緑色の苔に覆われた岩々が連なっている。さながら深い山の中で見られる、苔に覆われた参道のように。その神秘的な印象に、心が震えて堪らなかった。
彼岸から此岸へと白く伸びる、僅か十五分間の奇跡。
緩やかな波の音を聴きながらこの道を踏み締め、確かに還って行くのだ。こちら側に。そう実感する。
緩みっ放しの僕の顔を、ショーンがチラチラと見つめている。でも何も言わない。僕に怒っていたコリーヌは、そんなことはもう忘れてしまったかのように、歓声を上げてはしゃいでいる。このまま、この波間に流してくれればいいけれど。
道を渡り切り、振り返る。感慨深い想いとともに、この風景を心に焼き付けた。
ここからまたペンザンスの街に戻り、通りに面した適当なお店で食料を買い込み、次の目的地に向かった。
僕はなんだか、すっかり満足していたんだ。もう、旅を終えてしまった気分だった。このまま真っ直ぐロンドンに帰りたい。アルビーに逢いたい。彼を抱き締めて、今のこの気持ちを伝えたい。そんなふうに思っていた。
「ほら、」
と、ショーンからコーニッシュ・パスティを渡された。この街はパスティ屋さんが本当に多くて、パスティの種類も豊富だった。なんだか名残惜しい。
ショーンはフィッシュ・アンド・チップスを齧っている。お店でかけてきたらしい酢の臭いが車内に充満しているので、コリーヌが窓を開けた。
「次はどこだっけ?」
「まずメン・アン・トール、そこからローチ・ロック、ボトミンムーアで宿泊だよ」
ショーンではなく、ミシェルが答えてくれた。彼はコリーヌのように僕に怒っている訳ではないらしい。
彼女も車に乗るまでは、何か言いたげな眼つきで時々僕を見ていたけれど、さすがにこの狭い車内で話を蒸し返しはしなかった。ミシェルが彼女を諫めてくれたのかな? 大体、飲めないって言っているにも関わらず、自分がお酒を勧めておいて、僕が酔っ払って覚えていない、って責めるのは、筋が違うと思う。
でも、文句ばかり考えるのはやめにした。いい気分を壊したくなかったから。今のしっかりと地に足のついている感じを忘れたくない。口に頬張っているパスティを美味しいと、味わっている感じを楽しみたい。
この旅行に来るまで、僕はこんな当たり前の感覚すら忘れていた気がするんだ。ずっと不安で、足元が覚束なくて。味が判らない訳じゃなかった。甘い、辛い、酸っぱい……。ちゃんと判る。でも、味わってなんていなかった。ただ口に入れ、咀嚼するだけで。
いつも、アルビーで頭の中はいっぱいだったから。
アルビーでいっぱいだった。それは間違いない。でも、僕が考えていたのは、アルビーがどう思うかということばかりで。
彼はどう思っているのか? どんなふうに感じているのか? 彼は何を求めているのか? って、彼の気持ちを推察するばかりで。
僕はアルビー自身のことを考えても、感じてもいなかったんだ。
アルビーがどう思って、どう感じているのか、を想像するのではなくて、僕が彼をどう受け止めて、どう感じているのかを、考えなきゃいけなかったんだ……。
僕はアルビーと向き合ってはいなかった。僕が見ていたのはアルビーの眼に映る臆病な僕自身にすぎなかった。アルビーに触れていた時、アルビーでいっぱいだと思っていた僕自身は、ちゃんとそこにいたのだろうか?
僕は卑怯だ。ちっとも彼を受け止めてなんていなかった。セックスに応えることが彼を受け止めることだ、と安易に考えて躰だけを差し出していた。そんなことで、彼が満たされるはずがなかったのに。
黙々とパスティを頬張り、まだ温もりのあるコーヒーで流し込んだ。ふと気がつくと、ショーンが何とも言えない眼差しで僕を見ていた。
「そんなリスみたいに頬っぺた膨らませてバクバク勢いよく食って、平気かい? 二日酔いは?」
「うん、もうすっかり。きみのくれた薬が良く効いたみたいだよ。ありがとう、ショーン」
にっこりして答えると彼も安心したのか、ちょっと微笑んで食べかけの鱈のフライにかぶりついた。そして、「食えるんなら、もっと食っとけ」と、フライドポテトを分けてくれた。
一通り食べ終えると、
「これから行くメン・アン・トールはな、ケルト伝承の小人、コーンウォール鉱山のノッカーに紐付く遺跡群じゃないかと言われていてな、」
と、ショーンはいつものうんちく話を立ち上げ、何の蟠りもなく、コリーヌやミシェルと議論を始めた。
ムードメーカーのショーンのお陰で、不貞腐れて喋り出すきっかけを失っていたコリーヌも、すっかり普段通り。彼のこういうところ、僕には真似できない。
いろいろあっても、ショーンはやっぱりいい奴だと思う。
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