霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅳ 初夏の木漏れ日

161 前日

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 明日はいよいよ約束の小旅行に、もとい、アルビーのボランティアの手伝いに
出発する。荷物、というほどでもないけれど、一泊分の着替えなんかを詰め終えてから、アルビーの部屋をノックした。

 明日、明後日をまるまるアルビーと二人で過ごすのだ。遊びで行く訳ではないのだから、二人っきりでという訳ではないのだろう。けれど、前回の旅行と違って、彼と共に過ごすことになる時間は、これまでで一番長くなるのではないかと思う。

 行き先は、鉄道で片道四時間弱もかかる交通の便の悪い場所らしい。移動だけでもう、その間ずっとアルビーと向かい合わせってことだ。
 今までアルビーと一緒にいる時間って、僕も、彼も互いに関係ないことをして過ごしていたんじゃないかな。ほとんどが、本を読んだり、レポートを書いたりで。講義でよく判らなかった内容を、噛み砕いて教えてもらったりすることもあるにはあったけれど。
 
 でも日々の生活の中でのことや、習慣の違い、些細で意味のない日常的な雑談は、ほぼマリーを加えた三人でいる時だった気がする。

 だって、何もせずに二人だけでいる時って、アルビーはすぐに僕に触れたがるし、僕はそんな彼を意識して、何か喋るよりもまず応えようと、先に躰が反応していた。

 旅行先で、これはマズいだろ。いくらなんでも。
 思い返せば返すほど、僕たちの間には会話が少ない。これも、マズいと気がついたんだ。
 
 こうしてその日が近づくにつれ、僕の心は楽しみよりも、そんな、いつの間にか青空を覆って鈍色に変える、あの小憎たらしいロンドンの灰色の雲のような不安に大きく支配されていったんだ。

 出発する前に心に引っかかっていることは吐き出して、先に解決しておかないと、道中で喧嘩でもしてしまったら目も当てられない。もし仮に、この場で以前みたいにすれ違ってしまったとしても、その方がまだマシなんじゃないかと思ったり。


 そんな鬱々とした、天が落っこちて来る的な想いに胸を塞がれていたせいだろうか。机についてパソコンを使っていたらしいアルビーは、顔を上げ僕を一目見るなり、とても優しい、おっとりとした笑顔を向けてくれた。

 営業スマイルだ。
 何故だか僕はそう思った。

 ショーンから聞くアルビー、臨床心理の博士ドクターになるアルビーと、僕の知る彼はかけ離れて一致しない。初めて逢った頃ほど、彼は無口ではないのはもう解っているけれど。アルビーは優しいけれど、さり気なく気を回すのがとても上手な大人だけど。
 でも、この顔は違う。アルビーじゃない。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。移動に時間がかかるだけで、活動内容はせいぜい一、二時間程度なんだから。観光地だし、ゆっくり週末を過ごそう」
 アルビーのクスクスとした軽い笑い声は、僕の気持ちを解すためみたいだ。僕だって、こんなふうに思い詰めるのは馬鹿みたいだ、って解ってはいるんだ。でも……。
「アルビー、今のうちに確認しておきたいことが幾つかあるんだ」
 思ったよりずっと押し殺したような、重たい声が出てきて自分でも驚いた。そんな、深刻に悩んでいる訳ではないつもりなのに。
「うん。何?」

 アルビーはやはり朗らかな声音で、歌うように訊き返した。そして当たり前のように僕に向かって手のひらを差し伸べる。

「あの日記のこと」
 慎重に、彼の表情に変化はないかと見つめていた。微笑を湛える彼にゆっくりと歩み寄って、伸ばされたままのその手を握る。

 僕は決して、彼に嫌な想いも、辛い想いもさせたくはない。でも、アルビーだって、このことを僕に訊ねていた。避けては通れないことだと思う。

「精霊の人形のこと。きみは、二度目の人形制作は、モデルになった誰だか判らない人に依頼されたって言っただろ? でも、日記にはそんな記述はなかった」

 読み終えてから一週間も経っているのに。僕は今頃になってこの話を蒸し返すんだ。逆に言えば、あの日記の内容を消化するのにこれだけの日数が掛かっていた。
 アルビーに、触れて欲しくはない話題を、自分から出すのに……。
 僕のそんな重苦しい葛藤とは裏腹に、彼は至って冷静な様子で頷いた。

「ああ、そうだね。先に言っておけばよかったね。依頼の件は日記には書かれていない。スティーブから聞いたんだよ」

 淡々とした彼の口調に、僕はなんだか拍子抜けた気分で首を傾げていた。

 
 




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