174 / 193
Ⅳ 初夏の木漏れ日
169 訪問1
しおりを挟む
タクシーでの移動中、彼は余り喋らなかった。行き先についても何の説明もしてくれない。ただ僕の手を握り締めたまま、車窓に面を向けていた。
湖畔を走っていた車は、しばらくすると水辺から離れ、牧草地の広がる丘陵を抜ける道を走行する。牛や羊が至る所で草を食んでいる田園風景はいかにも英国らしい。けれどその背後に、蒼い空に霞む山々が連なっている。それがとにかく嬉しくて、これから行き着く先に待っているのが何なのか、と考えるよりも眼前に広がる懐かしくも美しい風景に見惚れていた。
時々、アルビーは思い出したように振り向いて僕を見ると、僕の頬を擦るように撫でた。親指で、僕の唇をなぞった。キスしたいのかな、と思ったけれど、彼はそうしなかった。だから僕も、彼の手のひらに唇を押し付けるだけに留めておいた。
アルビーが黙っているので、僕も途中で止まってしまっていた思考の続きを考えていた。列車の中で、中途半端なままで終わってしまった話の続き。ハムステッドヒースの、あの晩のこと。今、彼が僕に望んでいるであろうこと。あちこちに散らばってしまったパズルのピースを集めて、一つ、一つ、はめ込んでいく。全く無関係に思えていた事柄たちが、いくつもの糸で結ばれていく。時間と空間を超越する一枚の魔法陣の上で。
いつしか、また湖畔に出ていた。でもこれはホテルの面していた湖とはまた別の湖らしい。ここ、湖水地方は十六の大きな湖と無数の小さな湖があるんだ。
対岸の岸辺がずっと近い。山々の稜線を繋ぐ綿帽子のような雲が、澄んだ湖面に映っている。ここはなんだか、空がとても低く見える。手を伸ばせば届きそうなくらいに。そしてまた、湖畔から離れて緩やかな丘を登っていく。空に向かっているみたいだ。
アルビーが、ぐっと握る手のひらに力を入れた。
「そこで降ります」
タクシーから降りた道沿いには、整然とした樹々の並びが続いている。運転手と何か話していたアルビーがやっと降車すると、タクシーはUターンして元来た道を戻って行った。
「二時間したら迎えに来てくれるように頼んでいたんだ。この辺りじゃ、タクシーを呼ぶのも簡単じゃないからね」
肩を竦めてアルビーは苦笑している。
「こっちだよ。もうすぐそこだ」
そして、先に立って歩き出した。僕は半歩遅れて彼に続いた。
道沿いの樹々の陰に、脇に曲がる別の車道があった。そのどんつきに、大きな黒い鉄柵の門が見える。その両脇は、この辺りの家には珍しい高い塀で囲われている。
「ここがこれから会う来談者の家」
門前でいったん立ち止まり、アルビーは、その鉄柵の奥に見える大きな石造りの館を見上げて言った。そして僕に優しい視線を向けて、ふわりと笑った。
「行こうか。さっさと済ませて戻ろう」
門の脇にあるインターホンを押す。ほどなく聞こえた電子音の後、アルビーは門を押し開いた。玄関に続く、綺麗に整えられた庭の中央を通る道を、ゆっくりと進んだ。
僕は急に怖くなって、彼の腕を掴んでしまっていた。振り返った彼は、くしゃりと僕の頭を撫で、肩を抱いてくれた。
「緊張することなんてないよ。きみはただ、居てくれるだけでいいんだ」
玄関の呼び鈴を押すまでもなく、扉が開き、ひとの良さそうな老齢の婦人が迎えてくれる。アルビーを抱き締め、キスを交わす。親しいひとなんだ。なんだかほっと気が抜けた。
「スミスさん、電話で伝えた通り、今日は僕の友人も一緒なんだ」
「まぁ、可愛い坊ちゃんだこと! よろしくね!」
「こちらこそ」
スミスさんは僕の手を両手で抱えるように握り締め、にこにこと歓迎してくれた。ちょっと、アンナみたいだ。温かくて、おおらかで。
「彼は?」
「今日は作業場の方にいらっしゃるんですよ。坊ちゃんがいらっしゃるっていうのに! お呼びしてきますね」
「いや、いい。僕らが出向くよ」
アルビーは玄関口から踵を返す。
「お茶はどちらで? お持ちしましょうか?」
「後でいいよ。戻ってからで」
声高に答え、彼は僕の腕を引っ張った。
広々とした芝の上を突っ切り、厳格で、重苦しく、どっしりとした居住まいをみせる灰色の館の裏手に回る。菜園や花園に区画整備された庭の向こうに、小さな小屋があった。表で男が背中を向けて屈んでいる。アルビーは僕の腕を離し、一人、足を速めて彼の許へと向かった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは、先生」
男が立ち上がり、顔を上げる。
ああ、やはり……。
僕はその場に立ち尽くし、拳を握り締め、奥歯を噛み締めて視線を足下に向けていた。ドクドクと暴れ馬のように興奮している心臓を少しでも落ち着け、僕がここに来た意味を、過たず理解できるように。アルビーの心に沿えるように。
火蜥蜴、どうか僕に、きみの知恵と、きみの強い心を貸して。
湖畔を走っていた車は、しばらくすると水辺から離れ、牧草地の広がる丘陵を抜ける道を走行する。牛や羊が至る所で草を食んでいる田園風景はいかにも英国らしい。けれどその背後に、蒼い空に霞む山々が連なっている。それがとにかく嬉しくて、これから行き着く先に待っているのが何なのか、と考えるよりも眼前に広がる懐かしくも美しい風景に見惚れていた。
時々、アルビーは思い出したように振り向いて僕を見ると、僕の頬を擦るように撫でた。親指で、僕の唇をなぞった。キスしたいのかな、と思ったけれど、彼はそうしなかった。だから僕も、彼の手のひらに唇を押し付けるだけに留めておいた。
アルビーが黙っているので、僕も途中で止まってしまっていた思考の続きを考えていた。列車の中で、中途半端なままで終わってしまった話の続き。ハムステッドヒースの、あの晩のこと。今、彼が僕に望んでいるであろうこと。あちこちに散らばってしまったパズルのピースを集めて、一つ、一つ、はめ込んでいく。全く無関係に思えていた事柄たちが、いくつもの糸で結ばれていく。時間と空間を超越する一枚の魔法陣の上で。
いつしか、また湖畔に出ていた。でもこれはホテルの面していた湖とはまた別の湖らしい。ここ、湖水地方は十六の大きな湖と無数の小さな湖があるんだ。
対岸の岸辺がずっと近い。山々の稜線を繋ぐ綿帽子のような雲が、澄んだ湖面に映っている。ここはなんだか、空がとても低く見える。手を伸ばせば届きそうなくらいに。そしてまた、湖畔から離れて緩やかな丘を登っていく。空に向かっているみたいだ。
アルビーが、ぐっと握る手のひらに力を入れた。
「そこで降ります」
タクシーから降りた道沿いには、整然とした樹々の並びが続いている。運転手と何か話していたアルビーがやっと降車すると、タクシーはUターンして元来た道を戻って行った。
「二時間したら迎えに来てくれるように頼んでいたんだ。この辺りじゃ、タクシーを呼ぶのも簡単じゃないからね」
肩を竦めてアルビーは苦笑している。
「こっちだよ。もうすぐそこだ」
そして、先に立って歩き出した。僕は半歩遅れて彼に続いた。
道沿いの樹々の陰に、脇に曲がる別の車道があった。そのどんつきに、大きな黒い鉄柵の門が見える。その両脇は、この辺りの家には珍しい高い塀で囲われている。
「ここがこれから会う来談者の家」
門前でいったん立ち止まり、アルビーは、その鉄柵の奥に見える大きな石造りの館を見上げて言った。そして僕に優しい視線を向けて、ふわりと笑った。
「行こうか。さっさと済ませて戻ろう」
門の脇にあるインターホンを押す。ほどなく聞こえた電子音の後、アルビーは門を押し開いた。玄関に続く、綺麗に整えられた庭の中央を通る道を、ゆっくりと進んだ。
僕は急に怖くなって、彼の腕を掴んでしまっていた。振り返った彼は、くしゃりと僕の頭を撫で、肩を抱いてくれた。
「緊張することなんてないよ。きみはただ、居てくれるだけでいいんだ」
玄関の呼び鈴を押すまでもなく、扉が開き、ひとの良さそうな老齢の婦人が迎えてくれる。アルビーを抱き締め、キスを交わす。親しいひとなんだ。なんだかほっと気が抜けた。
「スミスさん、電話で伝えた通り、今日は僕の友人も一緒なんだ」
「まぁ、可愛い坊ちゃんだこと! よろしくね!」
「こちらこそ」
スミスさんは僕の手を両手で抱えるように握り締め、にこにこと歓迎してくれた。ちょっと、アンナみたいだ。温かくて、おおらかで。
「彼は?」
「今日は作業場の方にいらっしゃるんですよ。坊ちゃんがいらっしゃるっていうのに! お呼びしてきますね」
「いや、いい。僕らが出向くよ」
アルビーは玄関口から踵を返す。
「お茶はどちらで? お持ちしましょうか?」
「後でいいよ。戻ってからで」
声高に答え、彼は僕の腕を引っ張った。
広々とした芝の上を突っ切り、厳格で、重苦しく、どっしりとした居住まいをみせる灰色の館の裏手に回る。菜園や花園に区画整備された庭の向こうに、小さな小屋があった。表で男が背中を向けて屈んでいる。アルビーは僕の腕を離し、一人、足を速めて彼の許へと向かった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは、先生」
男が立ち上がり、顔を上げる。
ああ、やはり……。
僕はその場に立ち尽くし、拳を握り締め、奥歯を噛み締めて視線を足下に向けていた。ドクドクと暴れ馬のように興奮している心臓を少しでも落ち着け、僕がここに来た意味を、過たず理解できるように。アルビーの心に沿えるように。
火蜥蜴、どうか僕に、きみの知恵と、きみの強い心を貸して。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
恋文より、先にレポートが届いた~監視対象と監視官、感情に名前をつけるまで
中岡 始
BL
政府による極秘監視プロジェクト──その対象は、元・天才ハッカーで現在は無職&生活能力ゼロの和泉義人(32歳・超絶美形)。
かつて国の防衛システムに“うっかり”侵入してしまった過去を持つ彼は、現在、監視付きの同居生活を送ることに。
監視官として派遣されたのは、真面目で融通のきかないエリート捜査官・大宮陸斗(28歳)。
だが任務初日から、冷蔵庫にタマゴはない、洗濯は丸一週間回されない、寝ながらコードを落書き…と、和泉のダメ人間っぷりが炸裂。
「この部屋の秩序、いつ崩壊したんですか」
「うまく立ち上げられんかっただけや、たぶん」
生活を“管理”するはずが、いつの間にか“世話”してるし…
しかもレポートは、だんだん恋文っぽくなっていくし…?
冷静な大宮の表情が、気づけば少しずつ揺らぎはじめる。
そして和泉もまた、自分のために用意された朝ごはんや、一緒に過ごすことが当たり前になった日常…心の中のコードが、少しずつ書き換えられていく。
──これは「監視」から始まった、ふたりの“生活の記録”。
堅物世話焼き×ツンデレ変人、心がじわじわ溶けていく、静かで可笑しな同居BL。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
ポメラニアン魔王
カム
BL
勇者に敗れた魔王様はポメラニアンになりました。
大学生と魔王様(ポメラニアン)のほのぼの生活がメインです。
のんびり更新。
視点や人称がバラバラでちょっと読みにくい部分もあるかもしれません。
表紙イラスト朔羽ゆき様よりいただきました。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる