霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅳ 初夏の木漏れ日

179 散歩

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「ありがとう」
 ふわりとアルビーは口許をほころばせた。それから後は、彼のことを訊ねなかった。


 
 朝食を終えて部屋に戻り、しばらく寛いでいたのだけれど、やっぱりプールに行こうと思う。

 どうも彼と密室に籠っているのは、精神衛生上よくないと思う。目が合うと駄目だ。僕はマタタビを嗅いだ猫になってしまう。アルビーがちょっと首を傾ける。僕はもうふらふらと彼の傍にすり寄って、僕のためのその位置に、頬をのせて彼の首筋に腕を回す。そこからはもう一直線だ。僕はもう、このまま過労死するんじゃないかって気さえしてくる。

「アルビー、」
「ん」
「スパに行こうか、せっかくだし」
「ん、行く」
 て、返事はするのに躰はいうことをきかない。離れない。

 結局、十一時のチェックアウトの時間まで、ベッドで絡み合ったままごろごろして、慌ててシャワーを浴び直す始末だった。


 

 フロントに荷物を預け戸外に出て、ホテルの裏庭のガーデンテーブルで一息ついた。
「このまま一日日光浴でもいいな」
「出掛ける前から疲れちゃったの?」
「疲れさせられた」
「なら、きみをおぶってこの坂を上ろうか?」

 この庭から牧場に続く道を、アルビーは視線で示している。

「行くよ。せっかくこんな綺麗な場所にいるんだもの」

 一度大きく息を吸い込んでから立ち上がる。空気がとても綺麗だ。

 

 庭を囲む木立を通る遊歩道を進み、しばらくすると視界が開けた。丘陵に緑の牧草地が広がる。その坂道をゆるゆると上っていく。両脇の柵の向こうには、羊がのんびりと寝そべっている。緑の上に丸まる白のふわふわは、どこかあの庭の白薔薇アイスバーグを思い出させた。
 なんだか不安になって、アルビーの袖を引いた。彼はすぐに僕の手を包み込むように握ってくれた。

 一歩上るごとに、遠く聳える霞んだ山々に近づくような気がする。空に近づくような気がする。

「アルビー、行きに、僕の田舎はどんなところか訊いただろ? ここは、少し似ているよ。山の中だからね。こんな風に山に囲まれていて、空が澄んでいるんだよ。ここみたいな、大きな湖はないけれどね。滝壺があって、水の音がするんだ」
「綺麗な場所なんだね」
「何もないところだけどね」


 都会の喧騒から離れたその何もない山奥が、僕の運命を変えた。その場所を思い起こさせる、この山並みに囲まれた地域で静かに暮らしていたアーノルドの運命を歪めたように。
 
 僕は彼のようにはならない。自分の望みを叶えるためにを利用しようとしたりしない。僕は……。

 アルビーと繋ぐ手が、気がつくとじっとりと汗ばんでいた。急勾配という訳でもないのに、息があがる。
 アルビーが立ち止まり、向き合って僕の額にかかる髪を掻き上げた。

「見て。良い眺めだろ」
 肩に軽く載せた手をそのまま伸ばし、僕を反転させて今来た道を指差した。

 牧草地のふもと。鬱蒼と茂る木立。黒みがかった灰色の屋根と白壁。その向こうに、きらきらと輝く湖面が広がる。蒼く霞む山並と、羊が跳ね飛んだような雲の浮かぶ空を背景にして。


「少し休もうか」
 アルビーは、道の脇の木の板を連ねた柵にもたれかかる。ギシッと音を立てたそれに、僕も手を添えて揺すってみた。
「壊れそうだよ?」
「平気だろ」
 アルビーはお構いなしだ。

「コウ、」
「何、アルビー」
「僕が一番幸せを感じる瞬間はね、」
「うん」
「コウとこんなふうに一緒に歩いているだろ。歩き始めは、コウは凄く早足なんだ。僕に合わせようとして。それから僕はそんなに早足じゃないのに気づいて、コウもゆっくりになってくるんだ。だんだんとね、歩幅が合ってくるんだ。それから呼吸も。そのうち二人でひとつの躰になったみたいに、呼吸も、歩幅も、ぴったりあうんだよ。それが何よりの快感なんだ」
「抱き合うよりも?」

 アルビーはちょっと苦笑いして頷いた。

「僕も、同じように考えていたよ」

 昨日、アーノルドの家で。

「今は違うだろ? コウはすぐに不安でいっぱいになる。まだ僕には話せない? 僕じゃ、きみの役に立てないのかな?」



 僕を見つめる深緑の瞳は、決して僕を責めている訳ではなかった。ただとても、淋しそうな色合いをしていただけで――。




 

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