夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第一章

疑惑 7

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「おい!」

 けれど、そんな僕の願いはいつだって虚しく打ち砕かれるのだ。不躾で、無粋、配慮の欠片もない騒々しく甲高い、この金属質な声によって――。

 勢いよくドアが開く。コウがぱっと手を放して、僕の前に出ようと足を踏み出す。まるで僕を守るように。

白雪姫シュネービッチェン! 忘れもんだとさ!」
 ばさりと投げつけられたのは、僕の上着ジャケットだ。バニーが戻ってたのか――。

「コウ、さっさと芝生をなんとかしろ! 早くしないと俺がやるぞ!」

 赤毛の視線は、もう僕の横に立つコウに移っている。ビクリ、とコウの肩が跳ね上がる。凍りついた瞳で僕を一瞥する。可哀想に――。彼の肩を抱き寄せるよりも早く、コウは赤毛の脇をすり抜けていた。

「いい、僕がする! きみは絶対に手を出さないで!」
「コウ――、」

 もういない。我慢できない、この二人の関係――。どうしてコウは、ここまで彼の言いなりにならなきゃならないんだ? このままでいいはずがない。僕がなんとかしてあげないと――。


「あの男、お前の匂いが沁みついてた。お前の方も」

 玄関の開く音が聞こえたとたん、いきなり胸倉を掴まれ、掠れた声で囁かれた。コウには聴かれたくないのだろう。だがそんな遠慮なんて微塵も感じられない獣のように光る金色の瞳が、僕を睨みつけている。ぼさぼさの燃えるような赤い毛先が、額に触れるほどの距離で――。

「今のこの状態は想定外だ。あの馬鹿が、考えなしに誓約うけいなんぞ行いやがるから! 今に必ずこの呪を解いてやるからな。だがそれまでは、あいつを裏切るようなマネをするのは許さない!」

 脅しのつもりなのか、言いたい事だけ言って、赤毛はやっとその手を放した。直接肌に触れた訳ではないのに、掴まれた布地を通して熱が伝わってくる。

 怒りで発熱してるのか? 血の気が多すぎるんだ、この赤毛猿!


「許さないって? きみに僕をどうこうできるの? きみの方こそ、コウに対して問題があるじゃないか。彼はきみの下僕じゃないんだ」

 踵を返して立ち去ろうとしていた赤毛の背中に問いかけた。くるりとその背が振り返る。綺麗に整った人形のような、人間味のない冷ややかな面を僕に向ける。目ばかりぎらぎらとたぎらせて。僕がこの男が嫌いなのは、この顔のせいだ。コウの言っていたとおりの。

 この赤毛は、僕の父、アーノルドを連想させる。彼の創った人形に瓜二つの、この相貌のせいで。それとも、狂気を孕んだこの瞳のせいなのか――。否応なく僕を父に結びつけるこの顔が、僕だけではなくコウまでも苦しめているなんて。

「お前、今、何て言った?」
 甲高いはずの声のトーンが下がり、嘲るようにひきつれている。

 こんな機会はそうあるものじゃない。今まで溜まりに溜まっていた鬱憤を、今日こそぶちまけようと覚悟を決めたとたん、コウがパタパタと血相を変えて戻ってきてしまった。

「ドラコ、手を出さないでって言ったのに! 酷いじゃないか、あの有り様、どうするんだよ!」
「文句あるのか? 俺の寝場所を水びたしにしておいて」
 食ってかかるコウに、赤毛は平然と応じている。訳が解らない。
「何がどうしたの?」
 努めて優しくコウに問いかけると、彼は泣きそうに唇を歪めて僕を見た。

「ごめん、アルビー」

 それ以上は口をつぐみ、僕の袖を引っ張る彼について庭に出た。水びたしでぐちゃぐちゃになっていた芝生が、すっかり乾いている。いや、乾きすぎて芝が枯れ、白っぽく変色しているのだ。この僅かな間に! それだけじゃない、ところどころ焼け焦げているようにさえ見える。
 この不可思議で唐突な変化に呆気に取られ、継いで、深々とした吐息がついてでていた。

 熱いはずだ――、と。

 この赤毛なら、芝上の水溜まりをハンディバーナーの炎で乾かすような、普通じゃないことを試みたとしても、ちっとも不思議じゃない。とかく常識のない奴なのだから。コウが必死で止めていた理由もこれで解った。それに、さっき彼が怯えたような眼つきをしていた理由も。優しいコウは、火事でも起こしかねない赤毛のまぬけっぷりを、庇おうとしたのに違いない。


「乾燥剤でも撒いたの?」
 これ以上彼を追い詰めないように、とりあえず、気づかないフリを決め込んだ。
「え?」
 コウはトパーズのような瞳を、まん丸くしている。
「仕方ないね。一部分だけだし、芝を張り替えてもらえばすむことだよ。コウは、気にしないで」

 大きな瞳がうるうるしている。赤毛のせいで、こんなに気を揉んで――。
 
「請求書はきみに回すからね」
 コウの肩を抱きかかえ、首を捻って背後にいる赤毛を睨みつけた。相変わらずふてぶてしい面構えで腕組みする奴には、悪びれた様子もない。


 いつも小汚いティーシャツとジーンズのこの赤毛、こう見えてとんでもない金持ちのぼんぼんだ。手の甲から腕、折りあげたジーンズの足首にまで絡みつく火炎のタトゥーの入る、その突飛な外見からはとても伺い知れぬほどの――。

「これで足りるか?」

 ピンッと弾いてよこしたウィリアム三世五ギニー金貨は、推定価格、一枚、三万ポンドはする十七世紀のアンティークコインだ。マリーはこの金貨一枚で、このいけ好かない奴がこの家に滞在することを受け入れた。アンティーク収集が趣味の彼女の父、スティーブのために。だから僕も渋々頷かざるをえなかった。

 本当は、欲に負けた、といい換える方が正しいのかもしれないが――。


 この男が骨董屋で見つけたという、アーノルドの制作した人形サラマンダーを即決で買ったというのも納得だ。いくら高額といっても、たった一枚の金貨でこと足りるのだから。

 まったく、忌々しいとしか、いいようがないじゃないか――。






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