夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第一章

規則 7.

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 食後のコーヒーを飲み終わる頃にはもう、ショーンとは取り立てて話すこともなくなっていた。彼の方も気が済んだのか長居することもなく、自室に戻った。すっきり頭を切り替えてパソコン作業に勤しむことができた。コウが戻ってくるまでに集中して進めておかなければ――。昨夜のようなことになってはかなわないもの。


 予想外に早く玄関の鍵を開ける音がした。嬉しくて、迎えにでたよ。

「アル、ただいま! お腹空いたー!」
 僕の顔を見るなり、コウがゴムボールみたいに跳ねて飛びついてくる。
「おかえり、コウ」
 抱きしめて、絹の黒髪にキスを落とす。可愛い――。


「コウ、食事、まだなのか?」
 階上から声がかかる。ショーンが耳聡く聴きつけて、手摺りから身を乗り出して覗き下ろしていた。

「うん、夕飯はいらないって言ったのに、結局食べてないんだ。もう、ぺこぺこ。でも、気にしないで。適当に自分でするよ!」
 コウは、ぱっと僕から身体を離し、階上を見あげて声を張りあげる。
「俺はきみが作ってくれたスシを食べたんだ。だから、用意した夕飯が一人分残ってるよ。それを食べろよ」
「本当? ありがとう、ショーン、助かるよ」
 相好を崩すコウに照れた様子で笑い返しながら、自室に引っ込んだはずのショーンが当然のように階段を下りてくる。頭痛がしそうだ――。


「そういえば、彼、ドレイクは?」
「喧嘩しちゃって――」

 苦笑を見せ、コウは困りきった様子で小鳥のように首を傾けている。

「僕は怒ってるんだよ。こんな、いつもいつも彼のわがままに振り回されて! それで途中で別れて一人で戻ってきたんだ。きみの顔を見たとたん、ほっとしたよ。お昼も食べてなかったの、思い出した」

 夕食だけじゃなく、お昼も、って、こんな時間まで?

 思わず眉根を寄せてしまった。コウは、あっと言い訳するように、はにかんだ笑みを唇にのせる。

「ロンドン中、歩き回っていて、ついね。夢中で空腹を忘れていたんだ」
「観光地を歩いて回ったの?」
「観光地、っていうか――。ドラコの行きたいところ」

「コウ、温めてやるから、居間で待ってろよ」
「ありがとう、ショーン!」

 先にキッチンに入っていたショーンが顔をのぞかせ、玄関に佇んだままだった僕たちを促した。コウは明るく返事をする。僕の腕をしっかり掴んだまま。そして「くたびれた……」と、聞き取れないくらいの小声で呟いた。


 あの、赤毛――。

 僕の腕に自分の腕を巻きつけて、僕の肩に額をあずけているコウは、枝に絡まる蔦のようだ。

「ほっとする」

 僕を見あげて、目を細める。

 もっと甘えて。

 可愛くて、堪らなくて、深く口づけていた。こんなところで、こんなことをすることを、コウは嫌がるって知っていたけど。

 でも、コウは僕のキスに応えてくれた。甘えるように僕を噛んだ。


「コウ、」

 ショーンの声にも、僕の背に回した腕を解かなかった。離れることを拒むように、一瞬、より強く縋りついてくる。ショーンの視線も、絡みつく。

「うん、今、行く。ありがとう」

 名残惜しそうに、コウの指先から力が抜ける。琥珀色の瞳が、まだ嫌だ、と言っているのに――。

「アル、僕も、きみもペナルティ1だね。『公共スペースでいちゃつかない』って、もう違反しちゃったよ――」

 仕方ないな、と甘い吐息を漏らしコウは小さく笑う。そういえばそんな規則を入れたかな、と意識の隅を掠めたけれど、コウの疲れ切った様子が気になってそれどころじゃなかった。


「食事しておいで。お茶を淹れてあげる。中華だからジャスミン茶がいいかな」

 にっこり微笑んだコウの頭をもう一度軽くかき抱いた。コウが気にしない程度に、軽く。それから、ショーンと入れ替わりでキッチンに入った。

 

 ティーセットをトレイに載せて居間に戻ると、コウはさっき見せた疲れなんて吹き飛ばしたように、声を立てて笑っていた。テーブルの上の食事は、まだそれほど減ってない。

「あ、アル、ショーンがね、可笑しいんだよ!」

 涙を滲ませて、コウは笑い転げている。ショーンはニヤニヤ笑いながら、ちらと僕を見た。さも自慢げに――。

 気づかぬフリをして、コウの横に腰掛けた。テーブルクロスに隠れて、素足の指で彼のジーンズの下のソックスを挟んで脱がせ、そのまま足の甲に指先を滑らせた。ピクリと反応する。滑らかな肌は少し湿り気を帯びていて、柔らかい。子どものように小さな足。

 白いテーブルクロスの上では、素知らぬ様子で、とうとうと喋り続けているショーンの話に聴き入っている、そんなコウの笑い声が、徐々に不自然に掠れていく。口許に強張った笑みを湛えたまま。

 ――触れる先から、固まっていく。赤く、上気していく。僕の熱で窯変していく、可愛いコウ――。


「せっかくショーンが温め直してくれたのに、食べないと冷めてしまうよ」

 スプーンを握りしめたまま固まっている彼に、にっこりと微笑みかけた。すっかり染まってしまった面を伏せ、恨めしげに上目遣いに僕を睨んで、コウはぷんと膨れた頬にチャーハンを含んだ。今度は、脇目も振らずに食べることに精をだす。もう、ショーンの話も耳に入っていないのだろう。変に思われないように、代わりに僕が相槌を打ち、熱心に聞き入るフリをしてあげる。



「おやすみ、ショーン」

 食べ終えるとすぐに席を立ち、コウの肩を叩いて促した。「もう寝るのか?」とショーンは不満そうだ。「明日も早いからね」と吐息交じりに笑顔で返した。

「おやすみ。ここのお店の春巻き、美味しかった。また教えて」と、コウも取り繕うように言葉をつなぐ。ショーンは見るからに憮然としている。だが渋々と、「おやすみ」と呟くより仕方がない。

 コウの肩を抱いて居間を後にする。



 解っただろう――。僕のコウに、そんな色目なんて使うんじゃないよ。





 
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