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第一章
模様
コウが、僕を拒絶した――。
そのくせおっとりと微笑んで、甘えるようなキスをせがんだ。矛盾している。僕にはこんな彼は理解できない。その不可解さがまた内側から僕をたぎらせた。コウのせいだ。僕には解らない言葉で僕を惑わせ、僕には解らない笑みで僕を誘う。あの薄く光の透ける、ケルムスコットツリーの迷路の中に――。
苛立ちを叩きつけるように、研究室のキーボードに向かっていた。腹立ちまぎれにコウを明け方近くまで寝かせてあげなかったから、僕も同じく寝不足ではあるけれど。しょせん数字を打ち込むだけの作業だ。頭を使うこともない。
ようやく僕から解放され、寝入ったばかりの彼を起こすのが忍びなくて、今日の朝食は適当にスタンドで買った。乾燥してぱさぱさのマズいサンドイッチと苦すぎるコーヒー。これでは苛立ちは募るばかりで解消されない。こうしてあの赤毛は――、いない時でさえ僕の日常を脅かす。
「アル、どうしたんだい? 難しい顔をして。何か不備でもあった?」
バニー。
くるりと椅子を回して彼を見あげた。
「そっちこそどうしたの? こんな時間に」
「ん? ああ、クライエントが急にキャンセルになってね、ぽっかり時間が空いてしまって。お茶でも、と誘いにきた」
僕だけだって、解っていたから? 同じチームのオルコットは、今日から教授のお供で米国だ。
「ねぇ、バニー、この統計に付属させる症例、他にないかな? この例では典型的とはいえない、説得力に欠けるように思うんだ」
「そうだね、」
バニーは真剣に画面を覗き込む。
「確か、資料室に――」
言いかけて僕に視線を移した彼は、すぐに意味を察してくれた。
「行こうか」
隣接する資料室に入って鍵をかけた。ブラインドの隙間から差し込む光に埃がきらきらと舞う薄明りの室内は、しんと冷気を帯びている。ずらりと並ぶ蔵書とファイルに圧迫され狭苦しく感じる書架と書架の狭間で、その一方に背中をあずけた。
「喉が渇いているんだろ? 飲んで、バニー」
彼の両肩に手を置いて、細い通路にしゃがみこませた。
「やれやれ、とんだ王さまだな」
「嫌なら――」
「かまわないよ。きみの望みに逆らえる人間なんているものか」
「ふふ。僕の祖先は人間じゃないらしいからね」
「そうだったね。妖精王」
馬鹿馬鹿しい――。とかく人というものは、美という概念に根拠を欲しがるものなのだ。ケルト民族に赤毛と同じくらい多いとされる黒髪。白皙の肌。珍しい深緑の瞳。白雪姫と呼ばれていたそんな母の美貌は、精霊の血を引くからだと言われていた。DNA解析でもしてもらいたいね。一般的な英国人とどれほどの差があるものか――。どうだっていいか、そんなことは。精霊どころか、僕の血の半分は狂人から引き継いだものだ。
「あ――」
溶け出していく――。
崩れ落ちないように、もたれかかる書架の横板を掴んでいた。
バニーは僕を知っている。僕をどう扱えばいいか、誰よりも知っている。
目を瞑って、差し出せばいいだけ。これまでしてきたように――。
「――バニー、僕を愛してみせて」
彼の頭を掴んで、そんなことを口走っていた。ハンカチで口許を拭いながら、彼は立ちあがる。
「アル、」
「上手く愛せないんだ。コウとのセックスは対話じゃない。彼を傷つけてしまう」
「きみだけの問題? 彼の方には問題はないの?」
鍵を開け、振り返ったバニーは軽く微笑を湛えて言った。
「コーヒーを淹れるよ。そのために来たんだ」
バニーは特に何も言わずに、手際よくコーヒーを淹れてくれた。今は独立しているけれど同じ教授に師事していたのだ。どこに何があるか、なんて迷うこともない。几帳面な教授の研究室は、何十年もの間、ペン一本の置かれる位置も変わることがないのだ。
「きみの憂いの種にお目にかかって納得できたよ。たしかに彼は強烈だな」
「――コウ?」
「赤毛」
渡された湯気の立つマグカップを膝の上で両手で抱え、バニーに視線を据えた。彼はコーヒーを一口飲み、それから深く頷いた。
「あんなタイプは初めてだ。きみが混乱するのも解るよ」
バニーがこんなふうに人を評するなんて――。
「確かに苦手ではあるけど……。きみの言う意味もよく解らない」
「人間臭さがない」
また臭いだ――。
「彼に言われたよ。僕にはきみの臭いが沁みついているって」
バニーは目を細めた。「カンが良いんだな」と、くすり、と笑って。
「あの彼ときみの可愛い小猫はどういう関係性? 幼馴染だったかな?」
軽く首を振る。僕だって良くは知らない。コウは赤毛のことを僕に話すのを嫌がるから。
「同じ日本の、同郷の友人だって聴いてる。でも、そこまで古くからのつき合いってわけでもない、って」
「それなのに、きみの子猫はきみという主人がありながら、以前の主人に逆らえない。言いなりか――。確かに、あの瞳に射すくめられたら、そうなるのかもしれないね。人というよりも獣のようだな、あれは」
言いなり――。はたして、そうだろうか。コウは決して彼の言いなりになっているわけではない。どちらかというと、文句ばかり言っているような――。
考え込んでしまった僕の顔を見て、バニーは「違和がある?」と訊ねた。
「きみの印象には納得するよ。でも、コウと赤毛の関係性からは、そういった強制的なものは感じられないんだ」
強制ではなく、コウは自分の意志で彼に従い、自分の心に従って僕の許に戻ってきてくれた。今だって――。コウは自分一人で全てを決める。コウの中に僕はいない。それが哀しい。
「彼の、あの火炎のタトゥーは一部だけ? それとも全身に入っているのかな?」
「さぁ? 見たことないな。あんなものにそそられるの?」
「きみの花園ほどじゃないさ。きみは? もう描かないの?」
「そんな暇ないよ」
「一分一秒、離れているのも不安なんだね。子猫をキャリーバックに入れて、ここに連れてきたらどうだい?」
「きみの分析を受けるようにって?」
冗談じゃない――。
苦笑いする僕を見て、バニーも余裕しゃくしゃくと微笑んだ。
「どちらかというと僕が興味あるのは、きみの子猫よりも、赤毛の彼の方だな」
そのくせおっとりと微笑んで、甘えるようなキスをせがんだ。矛盾している。僕にはこんな彼は理解できない。その不可解さがまた内側から僕をたぎらせた。コウのせいだ。僕には解らない言葉で僕を惑わせ、僕には解らない笑みで僕を誘う。あの薄く光の透ける、ケルムスコットツリーの迷路の中に――。
苛立ちを叩きつけるように、研究室のキーボードに向かっていた。腹立ちまぎれにコウを明け方近くまで寝かせてあげなかったから、僕も同じく寝不足ではあるけれど。しょせん数字を打ち込むだけの作業だ。頭を使うこともない。
ようやく僕から解放され、寝入ったばかりの彼を起こすのが忍びなくて、今日の朝食は適当にスタンドで買った。乾燥してぱさぱさのマズいサンドイッチと苦すぎるコーヒー。これでは苛立ちは募るばかりで解消されない。こうしてあの赤毛は――、いない時でさえ僕の日常を脅かす。
「アル、どうしたんだい? 難しい顔をして。何か不備でもあった?」
バニー。
くるりと椅子を回して彼を見あげた。
「そっちこそどうしたの? こんな時間に」
「ん? ああ、クライエントが急にキャンセルになってね、ぽっかり時間が空いてしまって。お茶でも、と誘いにきた」
僕だけだって、解っていたから? 同じチームのオルコットは、今日から教授のお供で米国だ。
「ねぇ、バニー、この統計に付属させる症例、他にないかな? この例では典型的とはいえない、説得力に欠けるように思うんだ」
「そうだね、」
バニーは真剣に画面を覗き込む。
「確か、資料室に――」
言いかけて僕に視線を移した彼は、すぐに意味を察してくれた。
「行こうか」
隣接する資料室に入って鍵をかけた。ブラインドの隙間から差し込む光に埃がきらきらと舞う薄明りの室内は、しんと冷気を帯びている。ずらりと並ぶ蔵書とファイルに圧迫され狭苦しく感じる書架と書架の狭間で、その一方に背中をあずけた。
「喉が渇いているんだろ? 飲んで、バニー」
彼の両肩に手を置いて、細い通路にしゃがみこませた。
「やれやれ、とんだ王さまだな」
「嫌なら――」
「かまわないよ。きみの望みに逆らえる人間なんているものか」
「ふふ。僕の祖先は人間じゃないらしいからね」
「そうだったね。妖精王」
馬鹿馬鹿しい――。とかく人というものは、美という概念に根拠を欲しがるものなのだ。ケルト民族に赤毛と同じくらい多いとされる黒髪。白皙の肌。珍しい深緑の瞳。白雪姫と呼ばれていたそんな母の美貌は、精霊の血を引くからだと言われていた。DNA解析でもしてもらいたいね。一般的な英国人とどれほどの差があるものか――。どうだっていいか、そんなことは。精霊どころか、僕の血の半分は狂人から引き継いだものだ。
「あ――」
溶け出していく――。
崩れ落ちないように、もたれかかる書架の横板を掴んでいた。
バニーは僕を知っている。僕をどう扱えばいいか、誰よりも知っている。
目を瞑って、差し出せばいいだけ。これまでしてきたように――。
「――バニー、僕を愛してみせて」
彼の頭を掴んで、そんなことを口走っていた。ハンカチで口許を拭いながら、彼は立ちあがる。
「アル、」
「上手く愛せないんだ。コウとのセックスは対話じゃない。彼を傷つけてしまう」
「きみだけの問題? 彼の方には問題はないの?」
鍵を開け、振り返ったバニーは軽く微笑を湛えて言った。
「コーヒーを淹れるよ。そのために来たんだ」
バニーは特に何も言わずに、手際よくコーヒーを淹れてくれた。今は独立しているけれど同じ教授に師事していたのだ。どこに何があるか、なんて迷うこともない。几帳面な教授の研究室は、何十年もの間、ペン一本の置かれる位置も変わることがないのだ。
「きみの憂いの種にお目にかかって納得できたよ。たしかに彼は強烈だな」
「――コウ?」
「赤毛」
渡された湯気の立つマグカップを膝の上で両手で抱え、バニーに視線を据えた。彼はコーヒーを一口飲み、それから深く頷いた。
「あんなタイプは初めてだ。きみが混乱するのも解るよ」
バニーがこんなふうに人を評するなんて――。
「確かに苦手ではあるけど……。きみの言う意味もよく解らない」
「人間臭さがない」
また臭いだ――。
「彼に言われたよ。僕にはきみの臭いが沁みついているって」
バニーは目を細めた。「カンが良いんだな」と、くすり、と笑って。
「あの彼ときみの可愛い小猫はどういう関係性? 幼馴染だったかな?」
軽く首を振る。僕だって良くは知らない。コウは赤毛のことを僕に話すのを嫌がるから。
「同じ日本の、同郷の友人だって聴いてる。でも、そこまで古くからのつき合いってわけでもない、って」
「それなのに、きみの子猫はきみという主人がありながら、以前の主人に逆らえない。言いなりか――。確かに、あの瞳に射すくめられたら、そうなるのかもしれないね。人というよりも獣のようだな、あれは」
言いなり――。はたして、そうだろうか。コウは決して彼の言いなりになっているわけではない。どちらかというと、文句ばかり言っているような――。
考え込んでしまった僕の顔を見て、バニーは「違和がある?」と訊ねた。
「きみの印象には納得するよ。でも、コウと赤毛の関係性からは、そういった強制的なものは感じられないんだ」
強制ではなく、コウは自分の意志で彼に従い、自分の心に従って僕の許に戻ってきてくれた。今だって――。コウは自分一人で全てを決める。コウの中に僕はいない。それが哀しい。
「彼の、あの火炎のタトゥーは一部だけ? それとも全身に入っているのかな?」
「さぁ? 見たことないな。あんなものにそそられるの?」
「きみの花園ほどじゃないさ。きみは? もう描かないの?」
「そんな暇ないよ」
「一分一秒、離れているのも不安なんだね。子猫をキャリーバックに入れて、ここに連れてきたらどうだい?」
「きみの分析を受けるようにって?」
冗談じゃない――。
苦笑いする僕を見て、バニーも余裕しゃくしゃくと微笑んだ。
「どちらかというと僕が興味あるのは、きみの子猫よりも、赤毛の彼の方だな」
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