夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

御伽噺 5.

 夏の夜の訪れは遅く、頭上の空はいまだ明るい。だが長く伸びた影に包まれる庭は、少し肌寒い。コウは、はたはたとはためくオレンジ色のテントの向こう、シンボルツリーのふもとに寄る辺なくうずくまっていた。

 少し彼と距離を置いて佇んだ僕を自責に満ちた瞳で見あげ、軽く頭を傾げて、「ごめん、せっかくの夕食ディナーが台無しだね」と申し訳なさそうに苦笑う。身動ぎしてわずかに彼の横を空けてくれたので、ジャケットを脱ぎ、腰を下ろした。そのジャケットでコウを包み、そのまま小さくすぼめられた肩を抱いた。コウがこつんとこめかみを寄せる。そんな些細な仕草に安堵する。こうして追ってはきたものの、一人にして欲しいと、拒まれるかと思っていたのだ。

「とんでもない馬鹿だよ、僕は。脊髄反射でキレちゃって、こんな失敗ばかり繰り返すんだ。もっと、ちゃんと皆のことを考えなきゃいけないのに――」
 
 深くため息をつき、コウは何かを見ているというわけでもなく、ただじっと前方に視線を据えている。

「きみと彼の会話、僕には意味が取れなかった。何をそんなに怒ったの?」

 コウを刺激しすぎないように、控えめに訊ねた。

「契約。僕たちは彼が用意した料理を食べて、それを称賛した。でもあれは、彼が作ったものじゃない。ブラウニー……、いや、ブラウンさんが作ったものだ。僕らは彼らの料理を食べ、認め、彼らを受入れてしまったんだ。契約成立だ。もう取り消せない」
「それって、何? どこか古い種族の風習か何かなの――?」

  冗談だろ? 雇用契約を結ぶのは雇用者と労働者じゃないのか? 家主であるマリーの意見も聞かずに契約成立なんて、無茶ぶりもたいがいにしてほしい。あの赤毛、いったいどんな未開の地の出身だ? 国籍は英国でも、英国人としての社会通念を持ち合わせていないことは間違いない。十二分に常識あるコウと同郷とも思えない――。

「ドラコの世界ではそれで通るんだ。この契約を崩せる盲点がないか、考えているんだ」
「誉める、が承諾と受けとられるのなら、僕は何も言っていないよ」
「え……」
「あの場で言葉を発していない。全員一致でなければ認められない、ってこっちの契約書の方は意味をなさないのかな?」
「アルビー……、きみって本当に……」

 ぱぁっと花が咲くように、コウの沈んでいた表情に笑顔が戻る。同時に僕に抱きついてきた彼を、しっかりと抱きとめた。

「ありがとう、アルビー。まだ交渉の余地はある。頑張るよ。僕のせいでこれ以上この家をかき乱されるわけにはいかないもの――」

 それがこのところの、コウの心の重し?

 おそらくコウには確かな自覚はない。吐き気や眩暈、長引く微熱が精神的なものからきているのではないか、と以前彼に指摘したとき、彼は今のように怒って、叫んで、僕を拒んだ。コウは遺伝的な体質のせいだと言い、あれ以来、その話に触れたことはない。

 またあのときのように、過敏に拒否されるのではないかと不安で、僕は、コウのこの心の琴線に触れることができないでいる。苦しんでいると解っているのに――。打ち明けてくれれば、僕にできることだってあるかもしれないのに――。コウは一人で抱え込む。けれど……。

 あの赤毛がこの家にいることが、明らかにコウの心の負担になっている。間違いなく――。

 コウは赤毛の言いなりになっているんじゃない。自分の気持ちをはっきりと伝えている。それを赤毛があまりにも身勝手に扱うのだ。コウの想いをまるで顧みることなく。

 
 僕に縋りついているコウの深いため息が、首筋をくすぐる。愛おしすぎて、苦しくなる。

「こんなふうにきみに包まれていると、僕はとても熱くて――」

 え、っと思わず身体をひいた。

「僕のなかで燃え盛るきみへの想いで、きみが焼け焦げてしまうんじゃないかと不安になるんだ」

 僕が身体をひいた分、コウがその身を摺り寄せる。頬を胸に擦りつけ、背中に回した腕に力を込める。

「僕は地の精霊グノームの末裔なんだろ? 大地はどんな灼熱のマグマでも内包するよ。だから、きみが不安に思うことなんてない」

 そう応えて、ぎゅっと抱きしめた。コウがこんなふうに自分の気持ちを語ってくれることなんて、滅多にないのだ。嬉しくて心臓が早鐘のように打っていた。コウのなかに僕への想いがちゃんとあることを教えてもらえるだけで、こんなにも昂るなんて――。

「部屋に戻ろう」

 このままベッドになだれ込みたい。

「うん。話し合いに戻らないとね。いつまでも子どもみたいに不貞腐れてるなんて恥ずかしいね」

 コウは照れ隠しのような微笑を浮かべ、頬に軽いキスをくれた。

「アル、ありがとう。おかげで冷静になれたよ」

 ――僕の方は、もう、とても、冷静でなんか……。

 頭を抱えて、笑いだしてしまった。コウはとてもコウらしくて、僕はそんな彼に翻弄されっ放し。彼は決して僕の望むように動いてはくれない。コウはいつだって、コウ自身なのだから。そして僕は、そんな彼が愛おしくて堪らない。

「そうだね、戻って話し合いを続けよう」

 立ちあがって、コウに深く口づけた。僕の忍耐に対して、これくらいの見返りを期待したっていいだろう? 僕の愛しい人は、あまりにも僕という人間を知らないのだから――。






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