夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

雑事

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 その夜は安心してコウのいるベッドで眠った。あまり無理をさせるわけにはいかないから抱きしめるだけだったけれど、それで充分だ。

 コウは赤毛よりも僕の方を優先してくれている。それが解っただけで、ぐずぐずと胸に巣くっていた何かは、あっけなくどこかへ消えていた。スティーブの壊れた椅子や、家政婦や、コウの――、屋根裏部屋の件、考えなきゃいけないことはいくらもあるけれど、どれもこれも、今、ここで考えるべきことじゃない。

 腕の中にコウがいて、安らかな寝息を立てているのだから――。

 この幸せを存分に味わうべきだと思う。そうすることでこそ、不愉快な雑事を何とかしようという気にもなれるというもの――。




 これまで通りの、コウの作ってくれた朝食で始まる朝は気分がいい。だから、研究室にかかってきた突然の医局からの電話に、特に深く考えることもなく頷いていた。体調を崩して休んだ心理士の代理で、新規の患者の査定アセスメントをしてほしいという依頼だ。多くの職員がバカンスを取るこの時期は、とかく人手不足なのだ。

 指定された時間が迫り移動する段になって、はたと困った。取りあえず急いで隣接する病院へ向かう。ナースステーションで顔見知りの看護師に包帯を借り、バニーの医局をノックする。

「おはよう。どうしたんだい、こんな朝っぱらから」
「面接が入ったんだ。バニー、包帯を巻くのを手伝って」

 真面目な顔で包帯を渡す僕を目の前にして、バニーは遠慮なく噴きだしている。

「僕だって、そんな上手いわけではないけどね――」

 笑いながら僕のリバーシブルのシャツの袖を丁寧に折り返してくれ、ヘナタトゥーに覆われた腕に白い包帯を巻きつける。

「気をぬきすぎだね、アル。こんな手首近くにまで絵を入れるなんて」
「まさか現場に出ることがあるなんて思わなかったんだ」

 まったく、病院勤務者のタトゥー禁止にしろ、院内感染予防のためのネクタイ、白衣、ジャケット、長袖シャツの着用禁止にしろ、確たる根拠があるとは思えない。かくして、タイ無し開襟シャツの病院内職員の服装はリゾート地と大差ないのだ。権威も威厳も感じさせない医者の恰好の方が、よほど問題なんじゃないの、という声さえあるのに――。

「そのうえ両腕に包帯を巻いていては、とても保健省のおっしゃるような『社会の信頼を高める服装』ができてるとは言えないな――」

 つい皮肉な愚痴がついてでる。シャツの内側の鮮やかな青色が肘上でかさばっているのだ。そこへさらに暑苦しい包帯なんて――。どうしようもなくダサいじゃないか。
 バニーは口許に楽しげな笑みを湛えて、「痛々しさに同情してくれるさ」などと軽口をたたいている。手持ち無沙汰から、空いている方の手で彼の襟足を嬲る。くすぐったそうに首が縮む。だけどバニーは「やめろ」とは言わない。


「どうも上手くいかないな。看護師にでも頼んだ方がいいんじゃないのかい?」

 苦笑しながら、バニーは目線だけで僕を見あげた。不格好にしか仕上がらない包帯を、もう何度も巻き直してくれていたのだ。最後に彼の頬をひと撫でして、これ以上悪さするのはやめてあげた。これでは遅刻してしまいかねないもの。

「以前一度頼んで、面倒くさいことになったんだよ。人の弱みにつけ込んで、鬼の首でも取ったように嬉々として、いろいろ要求されたよ」
「バラされたくなかったら、つきあってねって?」
「まあね、そんな感じ」
「その子、きみのタトゥーが消えてなくなった日には、この世の終わりかと嘆き悲しんだんじゃないのかい?」
「まさか!」

 どうなったかなんて、いちいち覚えていない。

「きみがここに来たのは、賢明な判断の上でってことだね。さ、できた。反対の腕を出して」

 礼を言って、右腕を差し出した。僕が身体に絵を描くことに関して、バニーは意見を言ったりしない。取り立てて偏見も示さない。たとえ消えないタトゥーを入れたとしても、僕を否定することはないのだろう。だけど社会はそうはいかない。僕の模様はベッドの上で楽しむのは良くても、白日の下ではまた違った意味合いを帯びるのだ。こうして隠され、人目をはばからなければならないものとして――。

 バニーは、今度はすぐに巻き始めずに、腕を支えたまま、しげしげと見つめている。

「こっちを巻いている時にも思ったんだけどね、綺麗な緑になったね。全身が見たくなるよ」

 緑――。そういえば、今回は色味の変化が早いように思える。コウも昨日驚いていた。透き通るような明るい緑に。

「何時に終わるの?」
「アセスメントは一件だけ。後はいつも通りだよ。でも今日は早く帰らなきゃ。今、家がごたごたしているんだ。そうだ、バニー、いいアンティークショップを知らないかい? 確か親戚にいるって言ってなかったっけ?」
「アンティーク? 何か探し物かい?」
「うん。今はあまり時間がないな。お昼を一緒に食べよう。時間が空いたら来て。研究室で待ってるから」

 今度は巻き直しなしで、バニーは手早く済ませてくれた。両腕に包帯なんて、いったい何事かといった感じだ。

「偉いさん方に見つからないようにね」
「自家中毒で酷い湿疹がでてるとでも言っておくよ」

 バニーの揶揄いに軽口で返した。

「じゃ、また後で――」


 

 外来棟へ向かう廊下を歩きながら、思いだしていた。昨日のこと。この包帯の下に隠した、描かれた模様のことを――。

 コウが悦んでくれていた。いつもよりずっと、激しく反応してくれていたのだ。この模様を細い指先で、唇で辿って。明らかにいつもとは違っていた――。

 思いだすだけで、身体が熱くなる。悦んでくれているコウに、僕もまた情動を抑えきれないほど反応していた。まるで化学変化を起こすようにスパークし、際限なく循環する、熱――。

 溶けあって、固まって、まったく新しい僕たちになる――。

 いつも初めてのように新鮮で、幾度となく繰り返してきたように懐かしい。

 僕のコウは、特別――。
 誰にも、何ものにも替え難い、僕の宝ものだ。





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