夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

雑事 2

 早く帰ると約束したのに、バニーの親戚のアンティークショップへ連れていってもらい、その後お礼に食事につきあったりで、結局、遅くなってしまった。部屋に寄っていくかい――、と誘われもしたけれど、さすがに今日は断った。まだコウの感触が肌に残っているんだ。上書きする気になんてとてもなれない。

 気持ちだけは急いで戻ってきたつもりだったのだ。それなのに、コウは家にいなかった。朝には、「今日は早く帰ってくる?」って、ねだるような瞳でキスをくれたのに――。

 赤毛と出かけているという。コウはやっと体調が回復してきたばかりなのに――。赤毛にはコウを労わるって気持ちが欠片もないのか? 腹立たしさに、ついムッとした顔をしてしまう。

 それにしても――。

「その料理は?」

 コウがいないのに、食器を使って食事をしているなんて珍しい。マリーも、ショーンも、家で食べる夕食はたいてい、持ち帰りかデリバリーだ。それをわざわざ昨夜のままのディナーテーブルにきちんと料理を並べ、正式のディナーセットで食べているなんて……。

 まるで昨日の悪夢の続きじゃないか――。

 ショーンとマリーが顔を見合わせる。

「ドラコが昨日のお詫びだってさ。雇う、雇わないは関係なしで、しばらく夕食を提供したいって」
「椅子も元に戻すから心配いらないって、殊勝に頭を下げてたわよ」

 かわるがわる口を開くこの二人の気が知れない。こんな出来合いの夕飯で懐柔されるなんて――。

「きみも、」
「済ましてきた」

 そっけなく応えて、マリーに「後で部屋によって」と一声かけて早々に自室へ戻る。

 


 コウはいったい赤毛と何をしているんだ? 民俗学の研究? 資料集め? あの男は大学すら行ってないのに。まず、いくつなんだ、年齢は――。パスポート、賃貸契約の書類を作るときに確認したはずなのに。なぜだか奴に関する記憶はいつも曖昧で、すぐに忘れてしまう。霧散するのだ。拡散されてすぐに見えなくなる、むわりと白い蒸気のように。
 いつの間にかけむに巻かれているってやつだな――。

 やりきれなくて、深くため息を吐いていた。

 何がこうもあやふやなのだろう? 全てあの赤毛に関することばかり。いったい、奴はコウのなんなんだ?

 ベッドに転がって、ぼんやりと流れる思考の断片を眺めていた。コウと赤毛――。コウは迷惑がっている。それなのに、奴を切れないでいる。コウの消耗は、その心労のせいだ。なぜ、コウはああも奴を庇おうとするのだろう? 同郷のよしみ――。友人だから――。コウは、優しいから――。

 解らない。たとえ志を同じくして日本を発ってきたのだとしても、人生は別だ。コウに彼の不始末を背負う理由なんてない。いつまでもコウに甘えるだけの赤毛は、まるきり子どもじゃないか。なんでも金で片づけようとするところも――。



 そんなことを取り留めもなく考えているうちに、食事を終えたマリーが上がってきた。お茶をもって。

「驚いたよ。ショーンとずいぶん仲良くなったんだね」

 皮肉の一つも言いたくなる。マリーは唇をつきだして肩をすくめる。

「話してみると、まともなところもあるのよ、あいつ。少なくとも、コウに対してはまっとうだわ」

 彼にまで懐柔されたのか……。マリー、頑固なはずのきみの意志はどこにいった?

 思わずついて出たため息に、マリーは言い訳するように目を見開いて早口で喋りだす。

「解ってるわよ。出ていってもらうって気持ちは変わってないわ。ドラコはあの気性じゃ狂暴すぎてとても一緒になんて暮らせないし、ショーンは――、」

 ふっと言葉が途切れる。上手い悪口が思い浮かばないのかな。

「ショーンは?」
「優しいところもあるのよ。アルがいない間、一緒にいろいろ考えてくれて……」
「ミラの男だよ」
「――解ってるわよ! 私が好きなのは、」
「うん。顔の広い友人に尋ねてきた。だから帰りが遅くなったんだ」
「アル! ありがとう!」

 マリーが僕に飛びついてくる。僕を抱きしめる腕が緊張で震えている。今回はかなり真剣なんだね。

 マリーの恋はいつも上手くいかない。最初はいい感じでスタートしても、長続きしない。やっぱり違う、といつも彼女の方から終わってしまう。彼女は、恋愛に懐疑的で臆病な面があるのだ。半分は僕のせいもある。僕が彼女にいい影響を与えてこなかったから――。でも、マリーはミラのように飽き性でも、孤独を埋めてくれる相手なら誰でもいい、というわけでもない。僕がコウに巡り逢えたように、心から愛せるたった一人を見つけたいのだ。

「きみの話してくれた容姿だけじゃ、やっぱり誰だか判らないって」

 僕にもたれる彼女の力が、がっくりと抜けた。

「だから、研究所の夏の慰労会に来てみれば、って誘ってくれた。きっとそこで意中の彼にも遇えるんじゃないかな」
「本当!」

 もたれていた頭を跳ね起こして、頓狂な声をあげる。

「たまたまバカンス休暇を取っているのでもない限り、若い連中はだいたい来るそうだよ」
「ありがとう、アル!」

 僕は面倒臭くて、この恒例の慰労会にこれまで参加したことがない。だが今回はそんなわけにはいかない。新年度から入れ替わる、研究員や職員の送別会も兼ねているからだ。絶対に出席するように念を押して言われている。

 一目惚れしたというマリーの相手は、どうやら僕のいるデンマーク・ヒル・キャンパスの職員か研究員らしい。僕と話していた、とマリーは言うのだが、その場で言ってくれないと、誰のことだか皆目見当もつかない。だからバニーに尋ねてみたのだけど、漠然としすぎていて彼でも無理だった。「かっこいい」とか「優しそう」なんて言葉じゃなく、マリーはもっと人物を描写できる語彙を増やすべきだ。



 昨夜、僕とコウのことに水を差すようなことを言い、マリーは僕の注意を自分に向けさせた。焼きもちだ。僕だけが幸せ、なんて許せないのだ。

 僕は彼女に対して責任がある。彼女のこの甘えも、歪みも、僕が作り上げたものでもあるのだから――。




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