夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

ゲスト

 八月になった。いよいよカウントダウンだ。この世の終わりを迎える日を知りながら日常を遺憾なく過ごすがごとく、僕たちは日々を装っている。内心はため息ばかりつきながら、焦燥と悔恨の間を振り子のように揺れている。どこかに行きつきそうでいて、決してあてなどない嘘という波間にゆらゆら漂いながら、僕はひとり、水面に反射する光のような、瞬間、瞬間の愛しい人をせめて瞳に焼きつけておこうと目を凝らす。何も手につかない自分自身を悪びれもせず、見せつけながら――。


「そんなに見られてると、恥ずかしいよ」
 テーブル越しに、コウがちらりと目線をあげる。
「見てないよ」

 僕は笑って嘘をつく。コウは軽く僕を睨んで、すぐに視線を本に落とす。本当は本なんて読んでいないくせに――。僕を意識してぎくしゃくとしているコウが可愛い。
 すっかり体調も良くなり普段のリズムを取り戻したコウは、大人しく寝ているしかなかった日々を取り戻すかのように、課題図書を読み耽っている、フリをする。せっかくの土曜日だというのに――。もっとも、コウは夏の陽射しに弱いのだから、こうして出歩かずに家にいてくれるだけでも、ほっとはするのだが。

 コウが当たり前に僕の眼前にいてくれる。赤毛とほっつき歩いたりせずに――。それが僕だけのためなら、どれほど嬉しいことか――。でも、現実はそんなに甘くない。彼がこうして朝からそわそわと落ち着かず、すべきことも尽きてやっとソファーに腰を下ろして本を開いたのは、僕のためじゃない。

 これから迎える客人のためだ。ショーンの従弟をさりげなさを装って迎えるためだ。

 日中の僕のいない時間帯に、コウは屋根裏を掃除し、簡易ベッドを入れ、使われなくなっていた古家具の手入れをし、すっかり居心地よく部屋を整えた。数日世話になっただけの相手のために。詳しく聞けば宿を借りただけで、そこでの食事は、ほぼコウが作ってやっていたという、世話になったのはいったいどっちなのだと尋ねたくなるような話だ。律儀なコウにしてみれば、一宿一飯の恩――、ということなのだろうが。

 Aレベル試験対策の夏季集中講座を受けるためにロンドンに来る、というからこの夏中ここに居座るつもりか、と一瞬背筋が凍りついた。けれど、さすがにそこまで常識のない奴ではないらしく、講座はショーンの実家から通い、週末を利用してコウに会いにくるだけだという。だがそういうことなら、わざわざ部屋を用意してまで泊める必要なんてないじゃないか。コウの話は、どこまでが本心なのか疑わしい。

 あの屋根裏部屋――。ショーンの従弟のためだなんて言い訳に過ぎなくて、本当は僕から逃げるために整えたのではないか、と――。そんな疑念が頭から離れない。
 僕が家を抜け出し、夜明け前に帰ってきたことに、コウは何も言わなかった。問い質すことも、糾弾することも。解らないはずはないのに。その後の、僕の横暴な振舞いに対しても――。

 そして、今も。
 コウは何も言わない。言ってくれない。



「アル」
「なに?」
「こっちに来て。視線がくすぐったいんだ」

 はにかんだように、微笑う。
 横に座り直すと、コウは当前のように僕の肩に頭を預ける。ローズマリーがふわりと香る。コウのもつ穏やかな空気が僕を包んでくれる。ほっとする。コウの領域に僕はいるのに、彼は僕を侵食しない。僕はただ、ということを許される。ガラスのローテーブルで隔てられていたわずかな距離がなくなるだけで、こんなにも安堵する。胸に渦巻いていたどす黒い波は穏やかに凪いで――。


「ねぇ、アル、」
「ん?」
「今日来る子、バズはね、自分の性的指向セクシャリティが判らなくなったって悩んでたんだ。そういうことって、よくあることなのかな?」
「きみは、コウ? 悩まないの?」
「よく判らないよ。僕は初めからきみが好きだったもの。性別なんて考えなかった」
「男なのに、って悩まなかったの?」
「うん。そんな基準で考えなかった。そのバズの悩みを聞いた後、考えてみたんだ。なんでだろうって――」
「うん」
「僕の家って、どんなときでも人対人なんだ。物心ついたころから、親と子どもじゃなくて、人と人として考えなきゃいけなかった。僕はそんなふうに育てられてきたんだ」

 でもそれでは――、

 続く言葉を口にすれば、コウを傷つけるのではないか、と喉元まで出かかった言葉を呑みこみ、肩にもたれるコウに腕を回してきゅっと抱きしめた。

「人としてのきみが好きだよ。僕は男が好きなんでも、女が好きなんでもない。きみっていう人が好き」

 コウは幼い。いまだに性の快楽を解っていない。自分の理性を信じ、理性にしがみつき、これは愛だと自分自身に言い聞かせる。そうやってコウが逃げるから、僕は彼を追いかける。掴まえて支配するために――。満足するまで貪るために――。

 コウのせいだ。

 コウのこの幼さが、僕の劣情を掻きたてる。コウをセックスで支配できたら僕は今よりももっと安心できる、とそんな気にさせる。コウのせいだ――。コウの全てを喰らい尽くせば、僕は――。



 玄関のブザーがなった。コウはぱっと笑みを広げる。

「来たみたいだ」

 いそいそと立ちあがるコウ。僕以外の男を迎えるために、僕の傍から離れていく。僕の知らないコウの世界を、この家に迎えるために。


 あの、赤毛のような――。




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