夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

夜 3

 ドアがノックされ、店長がまた顔を覗かせる。なんの用だと眉をしかめると、「オーナーが来てるんだ。アル、悪いけど頼むよ。ちょっとだけ顔を出してくれないか」と拝み倒された。「彼を一人にしておけない」と断ると、「それならきみの友人たちにここでしばらく休憩してもらうよう頼んでくるよ」と店長は、ショーンとバズをフロアから半ば強引に引っ張ってきた。やれやれだ。


「うおっ! VIPルーム!」
 歓声をあげて、ショーンはきょろきょろと室内を見回している。まるで田舎からでてきた観光客じゃないか。バズの方はそう驚いた様子でもないのに。これではまるきり反対じゃないか。
「適当に飲んでて。すぐ戻るから」
「しばらく彼を借りる分、サービスするよ。何がいい、ビール? それとも新作のカクテルを試してみるかい?」

 やたらと愛想がいいな。相当オーナーにうるさく言われてきたのか――。
 店長がそっと僕に目配せする。
 一人で待つの、と不安そうな顔をしていたコウだったが、ショーンとバズを見て安心したみたいだ。今は顔をほころばせて二人と喋っている。これなら、しばらく間はもちそうだ――。
「じゃ、行ってくる」とコウに軽く手を振る。彼はにっこりと頷いてくれた。


 個室を出て、オーナーの待つ部屋へと向かった。勝手知ったるというやつだ。

「アル! もう逢えないかと思ってたよ――」
 ドアを開けると、ソファーで項垂れていたエリックがびくりと顔をあげる。そして次の瞬間には、両手を広げて僕に抱きついていた。

「今日の僕は客なんだけどな」
「分かってる。分かってるよ、アル――」

 彼の背中をとんとんと叩いて宥め、ソファーに座らせた。いつものキスを受けとめた。酒臭い――。

「飲んでるね?」
「不安なんだよ。きみが僕を捨てていくなんて――」
「バニーのところへはまだ行ってないの? 話は通してあるって言ったろう? 彼は僕よりよほど実績のある優秀な心理士だよ。きっと、きみの力になってくれる」
「でも、アルビー、僕はきみでないと――」

 エリックは水中で溺れてでもいるかのように、必死の形相で僕を抱きしめる。

 ここを含めて市内に3店舗の系列店を経営するオーナーのエリックとは、僕が学生の頃からのつき合いだ。彼は30代に差しかかったばかりだというのに、重度のアルコール依存症に陥っている。だが傍からはとてもそんなふうには見えない、煌びやかで底抜けに明るく洒脱な、成功した青年実業家だ。
 アルコールを売る店を経営する彼がアルコールに溺れているなんて、まったくもってどうかと思うよ。だが、彼の問題は根が深い。初めは友人として愚痴を聴いていただけだったのが、いつの間にか専門的なアドバイスをするようになっていた。面接室ではなくこの店で話を聴いていた。それが間違いだったと、最近になってこのままではマズいと、気がついた。

 彼は、僕に寄りかかっているだけなのだ――、と。

 だから、僕の留学話はこの関係を終わらせるにはいい機会だと思った。彼の僕への依存を断ち切り、本格的な治療へと向かわせるためにも。

「アル、僕がこの環境で続けてこられたのは、きみがいてくれたからじゃないか――」

 エリックは瞳で僕にすがりつく。
 彼の言う通り、ここには酒が売るほどある。けれど僕と約束した期間中、彼はこんな環境の中であっても、断酒を続けることができていたのだ。

「もう僕がいなくても充分やっていけるだけの強い意志を、きみはちゃんと持てているよ」
 そう言って彼を宥めてやった。ともかく彼の件はバニーに引き継いでもらったのだ。僕が彼のためにできることはもう、なにもない。

「きみがいてくれたからだよ、アル。きみが励ましてくれたから僕は頑張ってこれたんだ。きみじゃないとダメなんだよ――」


 なにが僕でないとダメだって言うんだ? しがみつける相手さえいれば、誰だってかまわないくせに――。僕のことなんて、なにも知らないくせに――。

「エリック、そんなに怖がらないで。大丈夫だよ。その気持ちをそのままバニーに話してごらん。彼ならきみに最適な治療法を組んでくれる」
「アル、頼むよ。きみさえいてくれれば、僕は大丈夫な気がするんだよ。アル、僕は僕自身を簡単に裏切ってしまう、弱くてダメな奴なんだって解ってる。でも、僕はきみのことは絶対に裏切らない。きみを失いたくないんだ」


 僕はきみの嗜好品じゃないんだよ――、エリック。

 もうかなりの期間落ち着いていたのに――。彼が再飲酒スリップしたのは、僕を自分に繋ぎ留めるためなのか。依存症を再発させることで、僕の留学を阻止しようとしているのか。心理療法に則って順調に回復していると見えていたのに。なんのことはない、彼はアルコールから僕への依存に乗り換えただけだった。

 バニーのところへ行く気がないのなら、バニーをここへ連れてくるまでだ。

「不安なのは解るよ、エリック。こんなのはよくある再飲酒スリップだ。依存症再発リラプスじゃない。大丈夫、もう一度、いや何度でも回復への道のりを目指せばいいんだ」

 僕ではなく、バニーとね――。

「アル――」

 でも今は、彼の不安を受けとめてやった。唇を塞ぎ、侵入してくる舌に応えてやった――。はやく彼を宥めてコウのもとに戻らないと。そんな焦りの方が勝っていたのだ。


 エリックの不安は、彼をつき動かし僕までも取り込もうとする――。鋭い牙で頭からガシガシと噛み砕くような律動だ。
 ぼろぼろに粉砕されて唾液とともに不快に貼りつく、分化され粉々になったエリックのうちがわ。そして、密度の荒いぼこぼこの海綿のようなエリックの表皮そとがわが、僕に吸いつき吸収しようとねっとりと絡みつく。

 そんな彼の表皮の内側では、空っぽの薄闇色の穴ぼこが呼吸するように伸縮している。その中で僕だけが呑まれることなく、ぼやりとした真珠色の光彩を放ちながら存在している。

 これが、彼が教えてくれた彼の内的世界だ。
 だがそれは彼の創りだした幻影。彼の描いた夢にすぎない――。

 僕ではない。

 彼は自分の表面的な習慣をいじくるだけで、決して自分自身と向き合おうとはしなかった。彼を内側から燃やしてくれるアルコールで忘却の時間を創造するように、今は、引き延ばした僕の虚像で巨大な虚空を埋めようとしている。


「ダメだよ。今日は一人じゃないんだ。友人と一緒で、」

 やっぱり時間の無駄だ。絡みつく彼の腕を軽く拒んだ。コウが僕を待っている。それに、このシャツは皺になりやすいんだ。

「アル、そんなひどいことを言わないでくれ。僕にはきみが必要なんだ――」

 ソファーの上で圧しかかってくる彼は、いつにも増して瞳に狂暴な色を湛えている。もっとも、この海のような青が凪いだところなど、誰も見たことがないのだろうが――。

「アル、」

 深く諦めの息をついて、彼の頭を胸に抱えた。
 瞬間、天井が赤く染まる。頭をのけ反らせて、ガラス越しのフロアに向けた。

 天井から釣り下がる丸いいくつものオブジェに――、紫紺の空に散る星に見立てた、ランダムに吊り下げられた大小の銀色の球体の周囲に、赤く透き通った焔が、ぽっ、ぽっ、と花開くように燃え散っているではないか。

「まさか火事? 僕の店が――!」

 エリックのその一言で我に返った。見とれている場合じゃない。彼はとっくに飛びだしていっている。

 コウは? コウはぶじなのか!

 
 あり得ない想像に恐怖し、僕も部屋を駆けでていた。

 



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