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第二章
ショーン 5.
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なんというか、こいつは――。
一頻り喋って喉が渇いた、とキッチンにたったショーンのいぬ間に、複雑な想いで考え込んでしまっていた。
彼が話してくれたのは、イースター休暇中のコウとの旅行のことだ。彼らが旅先で出会ったフランス人カップルのコリーヌとミシェルには、旅の最終に加わった僕も逢っている。あまりいい印象はない。コウにとっても、僕自身にとっても。
その時の彼女、コリーヌと、ショーンは成り行きで関係を持ったらしい。それをコウに知られてしまった。
そのコウの反応が――。自分たちの友情もこれで終わりか、と覚悟を決めるしかないほど冷淡なものだったのだ、とショーンは肩をすくめて言った。一見普通に話してはくれる。けれど絶対に目を合わそうとはしてくれない。彼の方から話しかけてくることもしない。殻に籠ってしまい黙り込む。眠っているのか、眠っているふりをしているのか、その場にいても自分だけ存在しないように振舞う。
まるで、さっきのコウじゃないか――。
だが、ショーンやマリーには普通に話しかけていた。コウのあの態度は彼らのせいではなく、僕に向けられたものだ。僕に対する、軽蔑と嫌悪――。
やるせない――。
そんなもの、ただの誤解に過ぎないのに。僕はエリックのことなんて、どうとも思っていないのだから。
コウがこの場にいたなら、すぐにでも抱きしめて安心させてあげるのに――。
それにしても、エリックのあんな馬鹿げた策略に引っ掛かるなんて、なんてコウらしいんだろう!
解せないコウの態度に納得を得て、思わずくすくすと笑いがこみ上げていた。可愛い。焼きもちを焼いてくれていたなんて。
バズといるこの瞬間だって、きっとコウは僕のことを考えている。僕を失う不安で胸をいっぱいにして、憂いているに違いない。
コウの傍にいない間も、僕は彼の内側を埋め尽くしているのだ。肥大し、広がり、覆い尽くして。他の誰をも彼のなかに侵入させないほど、隙間なく。
――嫉妬はいいカンフル剤になるよ。
確かに、エリック、きみの言う通りだ。コウは僕から逃げだすことでより強く僕に結びつけられ、赤毛さえ、その心から閉めだしているに違いない。
僕はコウに愛されている。
それならば、彼が戻ったら、速やかにこの誤解を解いてあげればいいだけだ。コウを安心させてあげ、ますます僕でいっぱいに満たしてあげればいい。いやそれよりも、コウを追いかけていくべきだろうか。行き先は判っているのだ。
どちらがより効果的だろうか、と考えているうちにショーンが戻ってきた。冷えたビールを二本手にして。そんな気分じゃないのだが――。
「そういえば、日曜日の食事当番もドラコに任せることになったのかな? 本来ならコウの当番日だろ? アル、なにか聴いてるかい?」
一本を僕の傍に置き、ショーンはそのまま、くいとビールを煽る。食事当番のことなど頭から抜け落ちていた。答えられるはずもなく頭を横に振る。
「今の食事に不満はないんだけどさ、コウの作る日本食がふと食べたくなるんだよな。もとはといえば、あいつの負担を減らすための変更だってのにさ」
彼は「俺もずいぶん贅沢になっちまったよ。食事にこだわることなんてなかったのにさ」と言い足して苦笑いだ。
その感覚は僕にも共通するものがある。コウはなにか新しいメニューに挑戦する度に、僕の反応をそれは楽しみにしてうきうきと心弾ませてくれるから。そんな彼の小さな期待、自己肯定に応える機会がここしばらくなくなってしまっているのはつまらない。赤毛は、コウと僕の共有する大切なひと時をこうして奪っているともいえる。
だが――、「コウはきみの母親じゃないんだ。彼にきみを満足させてくれ、っていうのも違う気がするよ」と、ショーンにはやんわりと伝えた。
コウへの無意識の依存を、ショーンもいい加減気づくべきだ。彼が疲れ果ててしまう前に。
やはりコウのところへ行こう。バズがいたってかまうものか、とそう決めて、小さな水滴に覆われたビールをショーンの前にトンッと置き直して立ちあがった。
「解ってるって。だいいち俺の母親はコウみたいにできた奴じゃないよ。身勝手で、だらしなくてさ――」
ショーンは投げ遣りな口調で薄笑いを浮かべながら、僕を引き留めるように見あげた。これから出かけるから、と断りを入れかけた瞬間、ショーンの目は誇らしげに細められ、皮肉げに歪められていた口許は無邪気にほころんだ。僕は彼のその変化に戸惑い、言葉は喉元で留まったまま発する機会を失ってしまった。
「だからあの時、コウが言ってくれた言葉にさ、本当に感動したんだ」
彼の表情に相応しい内容が、滑らかに滑りだす。だが僕には意味が判らない。
どの言葉なのだ? まるで話が続かない。旅先でのアバンチュールがコウにばれて、軽蔑されて、そこまでしか聴いていないのだから。
好き勝手に喋っているときのショーンは、聴き手のことなどまるで眼中にない。時系列は跳ぶわ、誰の話をしているのか判らなくなるわで、あっという間についていけなくなる。とはいえ、彼がどうやってコウと仲違いせずに終わったのかは気になる。それに、ショーンがコウのどんな性質に惹きつけられたのかも――。
自動的に再び座り直し、カップに残っていた冷めたコーヒーを口に運んだ。
「あ、ビールよりそっちの方がよかったのかな? 淹れてこようか?」
「いや、いいよ。それよりきみの情事のあとの話。どうなったんだって?」
時々解りづらい点に口を挟みながら、その「感動した」時点から遡っての経緯を聴いた。結果知り得たのは、理解に遠い御伽噺世界の話は、僕にはやはりついていけないということ。それがコウの重大なトラウマにかかわることだと、解ってはいるのだが。
だが、ショーンとの共通認識の上にある、コウのある種潔癖な倫理観についての見解よりも、向かい酒とばかりにグイグイとビールを煽り、度を越して饒舌になっているショーンから零れ落ちる本音の方が、僕には益になったのかもしれない。
それは確かに、僕の杞憂をひとつ払拭してくれるものだったのだから――。
一頻り喋って喉が渇いた、とキッチンにたったショーンのいぬ間に、複雑な想いで考え込んでしまっていた。
彼が話してくれたのは、イースター休暇中のコウとの旅行のことだ。彼らが旅先で出会ったフランス人カップルのコリーヌとミシェルには、旅の最終に加わった僕も逢っている。あまりいい印象はない。コウにとっても、僕自身にとっても。
その時の彼女、コリーヌと、ショーンは成り行きで関係を持ったらしい。それをコウに知られてしまった。
そのコウの反応が――。自分たちの友情もこれで終わりか、と覚悟を決めるしかないほど冷淡なものだったのだ、とショーンは肩をすくめて言った。一見普通に話してはくれる。けれど絶対に目を合わそうとはしてくれない。彼の方から話しかけてくることもしない。殻に籠ってしまい黙り込む。眠っているのか、眠っているふりをしているのか、その場にいても自分だけ存在しないように振舞う。
まるで、さっきのコウじゃないか――。
だが、ショーンやマリーには普通に話しかけていた。コウのあの態度は彼らのせいではなく、僕に向けられたものだ。僕に対する、軽蔑と嫌悪――。
やるせない――。
そんなもの、ただの誤解に過ぎないのに。僕はエリックのことなんて、どうとも思っていないのだから。
コウがこの場にいたなら、すぐにでも抱きしめて安心させてあげるのに――。
それにしても、エリックのあんな馬鹿げた策略に引っ掛かるなんて、なんてコウらしいんだろう!
解せないコウの態度に納得を得て、思わずくすくすと笑いがこみ上げていた。可愛い。焼きもちを焼いてくれていたなんて。
バズといるこの瞬間だって、きっとコウは僕のことを考えている。僕を失う不安で胸をいっぱいにして、憂いているに違いない。
コウの傍にいない間も、僕は彼の内側を埋め尽くしているのだ。肥大し、広がり、覆い尽くして。他の誰をも彼のなかに侵入させないほど、隙間なく。
――嫉妬はいいカンフル剤になるよ。
確かに、エリック、きみの言う通りだ。コウは僕から逃げだすことでより強く僕に結びつけられ、赤毛さえ、その心から閉めだしているに違いない。
僕はコウに愛されている。
それならば、彼が戻ったら、速やかにこの誤解を解いてあげればいいだけだ。コウを安心させてあげ、ますます僕でいっぱいに満たしてあげればいい。いやそれよりも、コウを追いかけていくべきだろうか。行き先は判っているのだ。
どちらがより効果的だろうか、と考えているうちにショーンが戻ってきた。冷えたビールを二本手にして。そんな気分じゃないのだが――。
「そういえば、日曜日の食事当番もドラコに任せることになったのかな? 本来ならコウの当番日だろ? アル、なにか聴いてるかい?」
一本を僕の傍に置き、ショーンはそのまま、くいとビールを煽る。食事当番のことなど頭から抜け落ちていた。答えられるはずもなく頭を横に振る。
「今の食事に不満はないんだけどさ、コウの作る日本食がふと食べたくなるんだよな。もとはといえば、あいつの負担を減らすための変更だってのにさ」
彼は「俺もずいぶん贅沢になっちまったよ。食事にこだわることなんてなかったのにさ」と言い足して苦笑いだ。
その感覚は僕にも共通するものがある。コウはなにか新しいメニューに挑戦する度に、僕の反応をそれは楽しみにしてうきうきと心弾ませてくれるから。そんな彼の小さな期待、自己肯定に応える機会がここしばらくなくなってしまっているのはつまらない。赤毛は、コウと僕の共有する大切なひと時をこうして奪っているともいえる。
だが――、「コウはきみの母親じゃないんだ。彼にきみを満足させてくれ、っていうのも違う気がするよ」と、ショーンにはやんわりと伝えた。
コウへの無意識の依存を、ショーンもいい加減気づくべきだ。彼が疲れ果ててしまう前に。
やはりコウのところへ行こう。バズがいたってかまうものか、とそう決めて、小さな水滴に覆われたビールをショーンの前にトンッと置き直して立ちあがった。
「解ってるって。だいいち俺の母親はコウみたいにできた奴じゃないよ。身勝手で、だらしなくてさ――」
ショーンは投げ遣りな口調で薄笑いを浮かべながら、僕を引き留めるように見あげた。これから出かけるから、と断りを入れかけた瞬間、ショーンの目は誇らしげに細められ、皮肉げに歪められていた口許は無邪気にほころんだ。僕は彼のその変化に戸惑い、言葉は喉元で留まったまま発する機会を失ってしまった。
「だからあの時、コウが言ってくれた言葉にさ、本当に感動したんだ」
彼の表情に相応しい内容が、滑らかに滑りだす。だが僕には意味が判らない。
どの言葉なのだ? まるで話が続かない。旅先でのアバンチュールがコウにばれて、軽蔑されて、そこまでしか聴いていないのだから。
好き勝手に喋っているときのショーンは、聴き手のことなどまるで眼中にない。時系列は跳ぶわ、誰の話をしているのか判らなくなるわで、あっという間についていけなくなる。とはいえ、彼がどうやってコウと仲違いせずに終わったのかは気になる。それに、ショーンがコウのどんな性質に惹きつけられたのかも――。
自動的に再び座り直し、カップに残っていた冷めたコーヒーを口に運んだ。
「あ、ビールよりそっちの方がよかったのかな? 淹れてこようか?」
「いや、いいよ。それよりきみの情事のあとの話。どうなったんだって?」
時々解りづらい点に口を挟みながら、その「感動した」時点から遡っての経緯を聴いた。結果知り得たのは、理解に遠い御伽噺世界の話は、僕にはやはりついていけないということ。それがコウの重大なトラウマにかかわることだと、解ってはいるのだが。
だが、ショーンとの共通認識の上にある、コウのある種潔癖な倫理観についての見解よりも、向かい酒とばかりにグイグイとビールを煽り、度を越して饒舌になっているショーンから零れ落ちる本音の方が、僕には益になったのかもしれない。
それは確かに、僕の杞憂をひとつ払拭してくれるものだったのだから――。
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