夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

時計 8

 コウは僕と別れたいと思っているのだろうか――。

 もう何日もほとんど顔を合わせていない。なのに僕は、こうして彼の作ってくれる朝食を食べている。彼がどういうつもりでこの手の込んだ朝食や弁当を作ってくれているのか、まるで判らないままに。
 コウがいないのに、彼の作ったものを食べることの侘しさといったら、砂を噛むよりもひどい。けれど、これが今の僕にとって唯一の彼との接点だと思えば、残さず食べずにはいられない。
 彼が僕の健康を気遣って作ってくれているのだとしたら、まだ――、などと、そんな惨めな幻想にしがみつけるから。


 コウは日中もほとんど家にいることがなくなった。毎日出かけている。ロンドンのあちこちを歩き回っているようだ。おそらくは赤毛と一緒なのだろう。
 コウは僕に嫌気がさして、彼のもとに戻ることにしたのだろうか。こうした毎日のコウの不在には、ショーンやマリーも不安を掻きたてられている。彼らにしたところで、コウの整えてくれる優しく温かな空気に依存しているのだ。
 僕たちがいない間に掃除してくれたり、夕食の手配をしてくれたり、雑用は今までと変わらず、彼らしく律儀にこなしてくれているけれど。
 コウは解ってない。
 僕は、それにマリーやショーンにしても、家政婦ハウスキーパーが欲しいわけじゃない。彼にそんなことを望んでいるんじゃない。

 そんな二人は、このところずっと僕に気兼ねしている。僕らの間がおかしくなっていることに、気づかないわけがないのだから。

 息が詰まる。
 コウを僕のもとに取り戻したい。何としてでも。
 でもどうすればいいのか本当に判らなくて――。

 毎朝、盛大にため息をつきながら、こうして一人で朝食を食べているのだ。コウの戻ってくるのが遅いから、ショーンの帰りも遅くなった。必然的に朝起きてこない。本人は、バズの面倒を見てやっているからだと言っているけれど、要はコウのいない家にいる意味がないからだ。それでもこうして帰ってくるのは、わずかでも彼の顔を見て安心したいからだろう。遅くまでコウを待ち続け、少しでも話をしてから彼は自分の部屋へと戻っていく。
 それに比べて僕はというと、知らぬふりを通して、コウが僕の部屋へ戻ってきてくれないかと、そんな祈りにも似た想いだけを抱えてじっと息を殺し、階段の軋む音が聞こえはしまいかと聴き耳を立てているだけなのだ。どうせまた、小さな足音だけを残して彼はこの階を通り過ぎ、屋根裏部屋へと向かうだけだと解っているのに――。

 このままでは、僕はおかしくなってしまいそうだ。
 もう、研究室になんて行かずにずっと部屋に籠っていたい。コウが帰ってきてくれるのを、じっと身をひそめて待ち続けていたい。
 そんなわけにはいかないことくらい、重々解ってはいるのだけれど。

 
 いよいよバカンスを目前にして、僕はこの如何ともしがたい現状に見切りをつけるために、覚悟を決めてコウと向き合うことにした。
 もう研究室での仕事は今日でほぼ終わる。あとは休暇から戻った教授に報告を済ませ、恒例のパーティーに顔を出すだけだ。
 これからは、コウとの時間をゆったり持てるのだもの。彼が納得できるまで話しあえばいい。
 

 彼が僕の過去に対して許せないというのなら、僕にだって言い分がある。僕だって、コウが特別扱いをする赤毛の存在を散々我慢してきたのだ。性的な関係がなければいいとか、そんな問題ではないだろう。要は費やされる時間と気持ちの量なのだ。僕は僕に振り分けられていたコウの時間と僕への想いが、赤毛に侵食されるのをずっと耐えていたのだから。コウの気持ちを慮って。それなのにコウは、あんな取るに足らないことで心を閉ざして、僕を締めだしてしまうなんて酷いじゃないか。

 もう、僕のことを愛してくれないのだろうか――。

 こんな想いをコウにぶつけることを考えるだけで苦しくなる。彼は優しいから同情でも僕のもとに戻ってきてくれるのではないか、と縋ってしまいそうで。そんな見苦しい自分に辟易する。

 先に話をつけなければならないのは、コウではなく赤毛なのかもしれない。

 こうして毎日、毎日、一日中、奴はコウを独占しているのだから。


 テーブルに置いたスマートフォンを凝視したところで、何も変わらない。

 僕が動くか、動かないか――。

 こうしてじっと待っていたところで、コウは戻ってきてはくれないのだ。今ならまだ彼を説得し、もう一度僕に振り向かせることができるかもしれない。
 あんなに泣くほど僕が好きだと、言ってくれたじゃないか。
 赤毛という逃げ場所があるから、コウはいつまでも逃げ続けるんだ。

 僕を見て、コウ。もう一度、僕だけを見て。
 僕にはきみしかいないのだから。



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