105 / 219
第三章
迷路 7.
コーヒーの香りがする。
ベランダに面した窓のカーテンが半分だけ開けられている。差しこむ日差しのなかで、ティーテーブルにいるコウは、朝食を前にしてぼんやりとしている。
「おはよう」
僕の声にコウはゆっくりと顔をあげ、それから、「おはよう」と微笑んでくれた。いつものように――。
コウの向かいに座る。僕の皿も用意されている。コウは僕が起きるのを待っていてくれたらしい。まだ温かい料理が、そんなに待たせたわけじゃないよと湯気をたてていて、幾分ほっとする。もうとくになにも考えずに食べた。コウと一緒なら、これを作ったのが誰かなんてこと、どうだっていい。
「アル、ドラコはもうじき戻ってくるはずだから、ちゃんと話をするよ。そうしたら出発しようか」
穏やかな声音でコウが言う。
「どこに行くんだっけ?」
「ワイト島だよ。知人の別荘を借りたんだ」
「そう。楽しみだね。ワイト島って、リゾート地だよね。そういうところ、行ったことがないんだ。人がたくさんいるのかな?」
「そうだね、でもロンドンほどじゃないと思うよ」
ふふっとコウが笑う。夏のロンドンの観光客の多さには辟易する、前にそう言っていたものね。
「のんびりできると思う」
「うん」
僕たちは、そんなたわいのない話をしていたんだ。ごく普通の朝食を食べながら。
それからコウは、あのガマガエル兄弟、じゃなくて、ブラウン兄弟と話があるからここで待っていて、と言って部屋を出ていった。僕は暇を持てあまして携帯をいじっていた。
コウは、なかなか戻ってこなかった。無意味な時間が僕を不安にさせる。
コウは本当にここにいるのだろうか。
また僕から逃げだして、どこかへ行ってしまったんじゃないだろうか。
あり得ない妄想ばかりが浮かんでくる。たった今、一緒にここを出る約束をしたばかりじゃないか。
何もすることがないのが問題なんだ。考えなくていいことを考えてしまう。
気分を変えるためにテラスへ出た。雲ひとつない蒼空だ。だけど風がきつい。居間に面した方と違って、こちら側のテラスはたいして広くない。いく部屋か分つながっているだけで、すぐに行きどまり。景色を見ていても、べつに面白いわけでもない。引き返そうと踵を返したとき、ふと、部屋につづくフランス窓が開いているのに気がついた。閉めきられたカーテンが、風になびいていたのだ。
そのカーテンが、僕の気を引いた。ブリックピンクのカーテン。あんなものがかかった部屋があっただろうか? 僕は全部屋を見て回ったはずなのに。見落としていたのだろうか。それとも、廊下側からは入れないのかもしれない。ここに来たとき、コウを見つけられなかったのはそういう理由か、と思ったのだ。
なんの気なしにその部屋に入った。揺れるカーテンに誘われて――。
既視感に鳥肌がたった。
厚手の生地のドレープをたっぷりとったブリックピンクのカーテンのこちら側は、薄暗い室内の、サーモンピンクを基調にした小花模様の壁紙。薄緑の蔦模様の絨毯。白大理石の嵌めこまれた暖炉の上には金の置時計。そんなところまでが同じだった、あの家と――。
中央のティーテーブルで、「どうぞ、どうぞ、アルバート様」とガマガエルが椅子を引いて僕を待っていた。
「これはいったいなんの冗談だ?」
不快感から、とげとげしい気持ちそのままの声がでていた。それにこの男、今はコウと話しているんじゃなかったのか?
「コウ様はお話し中でございますとも! さぁ、アルバート様、どうぞおかけになってください!」
僕は声に出して言っただろうか? どうでもいいか。どうせすることもないのだし、と仕方なしに腰をおろした。それよりもとにかく尋ねたかったのだと思う。どうしてこんな部屋を設えているのか、ということを。
この内装は、彼の館の、彼女のティールームそのままなのだ。時代がかった色褪せ方までもが。冗談にしては悪質すぎる。
尋ねたいのに、あまりの不快さから言葉がでてこない。気持ちを落ち着けようと、勧められるままにグラスワインをひと息に煽っていた。
喉が焼ける。焔を飲みこんだみたいな、赤――。くらりと頭が傾いでいた。
見下ろしたさきに、ティーテーブルに肘をついて組んだ両手に額をつけた彼がいた。ときどき小刻みに頭を振っている。横で彼の肩を抱き、熱心に話しているのは――、スティーブか。説得しているのだ。彼女の意志を尊重するように、と。子どもを産むからといって、彼女が助からなくなるわけじゃないって。
そうじゃない。彼は正しかったのだ。
彼女のこの決意が、治療を遅らせ命を奪った。僕を諦めさえすれば、彼女はきっと死なずにすんだのに。彼の言う通りに、眼前の彼女をこそ尊重すべきだったのだ。
僕なんて、生まれてこなくてよかったのに。
ここで間違えさえしなければ、彼も、彼女も幸せな暮らしが続いてめでたしめでたし。御伽噺のようなハッピーエンドで終われたに違いないのだ。
人生の選択にやり直しはきかない。
魔術で事実を変えることなどできはしない。
彼は彼女を失ってしまったのだ。
永遠に――。
だから、間違えてはいけない。
僕は、棄てられてしかるべき存在だ。
この事実もまた、変えることのできない真実なのだから。
ほら、彼は決して納得しない。涙を流してスティーブにくってかかっている。彼は彼女を失うかもしれない、ほんのわずかな可能性にだって耐えられはしないのだ。
興奮した彼の拳がテーブルをドンと強く叩く。そこに置かれたグラスを薙ぎ払う。なかに入っていた金色の液体が飛沫となって、カシャンと砕けたガラスと交じりあいながら辺りに飛び散る。
耳の横で、真鍮のシャンデリアのガラス飾りが、シャラリと音をたてて揺れた。
ベランダに面した窓のカーテンが半分だけ開けられている。差しこむ日差しのなかで、ティーテーブルにいるコウは、朝食を前にしてぼんやりとしている。
「おはよう」
僕の声にコウはゆっくりと顔をあげ、それから、「おはよう」と微笑んでくれた。いつものように――。
コウの向かいに座る。僕の皿も用意されている。コウは僕が起きるのを待っていてくれたらしい。まだ温かい料理が、そんなに待たせたわけじゃないよと湯気をたてていて、幾分ほっとする。もうとくになにも考えずに食べた。コウと一緒なら、これを作ったのが誰かなんてこと、どうだっていい。
「アル、ドラコはもうじき戻ってくるはずだから、ちゃんと話をするよ。そうしたら出発しようか」
穏やかな声音でコウが言う。
「どこに行くんだっけ?」
「ワイト島だよ。知人の別荘を借りたんだ」
「そう。楽しみだね。ワイト島って、リゾート地だよね。そういうところ、行ったことがないんだ。人がたくさんいるのかな?」
「そうだね、でもロンドンほどじゃないと思うよ」
ふふっとコウが笑う。夏のロンドンの観光客の多さには辟易する、前にそう言っていたものね。
「のんびりできると思う」
「うん」
僕たちは、そんなたわいのない話をしていたんだ。ごく普通の朝食を食べながら。
それからコウは、あのガマガエル兄弟、じゃなくて、ブラウン兄弟と話があるからここで待っていて、と言って部屋を出ていった。僕は暇を持てあまして携帯をいじっていた。
コウは、なかなか戻ってこなかった。無意味な時間が僕を不安にさせる。
コウは本当にここにいるのだろうか。
また僕から逃げだして、どこかへ行ってしまったんじゃないだろうか。
あり得ない妄想ばかりが浮かんでくる。たった今、一緒にここを出る約束をしたばかりじゃないか。
何もすることがないのが問題なんだ。考えなくていいことを考えてしまう。
気分を変えるためにテラスへ出た。雲ひとつない蒼空だ。だけど風がきつい。居間に面した方と違って、こちら側のテラスはたいして広くない。いく部屋か分つながっているだけで、すぐに行きどまり。景色を見ていても、べつに面白いわけでもない。引き返そうと踵を返したとき、ふと、部屋につづくフランス窓が開いているのに気がついた。閉めきられたカーテンが、風になびいていたのだ。
そのカーテンが、僕の気を引いた。ブリックピンクのカーテン。あんなものがかかった部屋があっただろうか? 僕は全部屋を見て回ったはずなのに。見落としていたのだろうか。それとも、廊下側からは入れないのかもしれない。ここに来たとき、コウを見つけられなかったのはそういう理由か、と思ったのだ。
なんの気なしにその部屋に入った。揺れるカーテンに誘われて――。
既視感に鳥肌がたった。
厚手の生地のドレープをたっぷりとったブリックピンクのカーテンのこちら側は、薄暗い室内の、サーモンピンクを基調にした小花模様の壁紙。薄緑の蔦模様の絨毯。白大理石の嵌めこまれた暖炉の上には金の置時計。そんなところまでが同じだった、あの家と――。
中央のティーテーブルで、「どうぞ、どうぞ、アルバート様」とガマガエルが椅子を引いて僕を待っていた。
「これはいったいなんの冗談だ?」
不快感から、とげとげしい気持ちそのままの声がでていた。それにこの男、今はコウと話しているんじゃなかったのか?
「コウ様はお話し中でございますとも! さぁ、アルバート様、どうぞおかけになってください!」
僕は声に出して言っただろうか? どうでもいいか。どうせすることもないのだし、と仕方なしに腰をおろした。それよりもとにかく尋ねたかったのだと思う。どうしてこんな部屋を設えているのか、ということを。
この内装は、彼の館の、彼女のティールームそのままなのだ。時代がかった色褪せ方までもが。冗談にしては悪質すぎる。
尋ねたいのに、あまりの不快さから言葉がでてこない。気持ちを落ち着けようと、勧められるままにグラスワインをひと息に煽っていた。
喉が焼ける。焔を飲みこんだみたいな、赤――。くらりと頭が傾いでいた。
見下ろしたさきに、ティーテーブルに肘をついて組んだ両手に額をつけた彼がいた。ときどき小刻みに頭を振っている。横で彼の肩を抱き、熱心に話しているのは――、スティーブか。説得しているのだ。彼女の意志を尊重するように、と。子どもを産むからといって、彼女が助からなくなるわけじゃないって。
そうじゃない。彼は正しかったのだ。
彼女のこの決意が、治療を遅らせ命を奪った。僕を諦めさえすれば、彼女はきっと死なずにすんだのに。彼の言う通りに、眼前の彼女をこそ尊重すべきだったのだ。
僕なんて、生まれてこなくてよかったのに。
ここで間違えさえしなければ、彼も、彼女も幸せな暮らしが続いてめでたしめでたし。御伽噺のようなハッピーエンドで終われたに違いないのだ。
人生の選択にやり直しはきかない。
魔術で事実を変えることなどできはしない。
彼は彼女を失ってしまったのだ。
永遠に――。
だから、間違えてはいけない。
僕は、棄てられてしかるべき存在だ。
この事実もまた、変えることのできない真実なのだから。
ほら、彼は決して納得しない。涙を流してスティーブにくってかかっている。彼は彼女を失うかもしれない、ほんのわずかな可能性にだって耐えられはしないのだ。
興奮した彼の拳がテーブルをドンと強く叩く。そこに置かれたグラスを薙ぎ払う。なかに入っていた金色の液体が飛沫となって、カシャンと砕けたガラスと交じりあいながら辺りに飛び散る。
耳の横で、真鍮のシャンデリアのガラス飾りが、シャラリと音をたてて揺れた。
あなたにおすすめの小説
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。
初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。
「今すぐ部屋から出ろ!」
独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。
翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。
「俺以外に触らせるな」
そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。
弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。
本当にこのままでもいいのか。
ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。
その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。
どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
さよなら、永遠の友達
万里
BL
高校時代、バスケットボール部のキャプテン・基樹と、副部長として彼を支える冷静な舜一。対照的な二人は親友であり、マネージャーの結子を含めた三人は分かちがたい絆で結ばれていた。しかし舜一は、基樹への決して報われない恋心を隠し続けていた。
卒業を控え、基樹との「ずっと一緒にバスケをする」という約束を破り、舜一は逃げるように東京の大学へ進学する。基樹を突き放したのは、彼が結子と結ばれる幸せを近くで見届ける自信がなかったからだ。
10年後。孤独に生きる舜一のもとに、基樹から「結子が事故で亡くなった」という絶望の電話が入る。ボロボロになった親友の悲痛な叫びを聞いた瞬間、舜一の中にあった想いが目を覚ます。仕事もキャリアも投げ出し、舜一は深夜の高速をひた走る。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。