108 / 219
第四章
此岸 2
御伽噺の眠りの森の美女のように、眠りから覚めないコウを犯してしまいたくてたまらない。
しょせん、美しい御伽噺の真実なんてそんなもの。
動かないコウの憔悴した蒼白い頬に触れながら、そんなことを夢想する僕は獣だ。
朝になったら、バニーに相談しよう。いい催眠療法家を紹介してもらおう。目を覚ますことさえできれば、あとはバニーに頼んでゆっくりコウにかけられた暗示を解いてもらえばいい。そうすればきっと、赤毛が帰ってくる以前のコウに戻ってくれる。僕のことを一番に考えてくれていたコウに。それで僕だって、もっと僕らしい僕でいられる。コウを大切にする僕でいられる。
大丈夫。僕たちは、きっとやり直せる。
「きみはちゃんとここにいる。そうだろう、コウ?」
冷たい頬。血の気の引いた唇。生き生きとしたきみは眠ったまま――。
――どうして人は人を好きになるんだろう?
きみは僕にそう尋ねたじゃないか。
コウ、目を開けて。僕を見て。
僕たちはまだ、その答えを見つけていないじゃないか。
コウの横に身体を横たえ、そっと抱きしめた。
彼の体温を、呼吸を確かめたかったのだ。母の刺した野草の刺繍に包まれたコウ。これにも魔術的な意味があるのだと、スティーブが教えてくれた。安らかな眠りを、健やかな日々を得られるように。そんな願いが込められているのだと。
ロマンティックで感傷的な、少女のようだった彼女の祈りが、コウを呼び戻してくれないだろうか。
僕までもが、そんな感傷的な気分に侵されている。しっかりしなければ。少しでも眠って。起きたらもう感情を昂らせないように。明日にはあの人に逢わなければならないのだから。
スミス夫人は彼にどう説明したのだろう? それとも、まだ何も話していないのかもしれない。連絡を入れた時間が遅かったもの。朝一番に挨拶に行かなければならないだろうな。彼を興奮させないように気をつけて。コウのことはどう説明しよう。前のようにはいかないだろう。どうすれば。
言葉はとめどなく、洪水となって頭のなかを流れていた。
煩い、と叫びたくなる。神経を昂らせてしまっているのは僕の方だ。こんな状態で彼に逢うなんてとても無理だ。少しでも眠って、落ち着いて、それから――。
「コウ」
そばにいて。お願いだから。
ここにいて。僕を一人にしないで。お願いだから、この人と二人にしないで。僕はここにいるのに、いないんだ。この人には僕が見えないんだよ。空気のように見えないんだ。スティーブがいるときだけ、見えるふりをしてるんだ。この人、変なんだよ。本当だよ。信じて、スティーブ。
決して口にだすことはなかった言葉が、心から溢れでて暴れていた。堰を切って流れだした語群は渦巻く爆流となってうねり、滝のように落ちて僕を圧し潰す。一語一語が飛沫の礫となって僕の輪郭に突き刺さる。境界に穴をあける。薄い膜はズタズタに破れ、裂け目から僕が熔けて流れだしている。
サーモンピンクの小花模様の壁紙に、蔦模様の絨毯が西日に染まっている。止まったままの金時計。白大理石の暖炉には冬でも火が入ることはない。「妻が暖炉の焔は苦手なんだよ」と、きまって彼はスティーブにそう言った。仕方がないと言い訳するように肩をすくめて。
13歳の僕は、人形のように固まって椅子に腰かけていた。ゼンマイ仕掛けででもあるかのように、ぎこちなくカップを持ちあげ口に運ぶ。添えられた菓子には手をつけてはいけない。だって彼には僕が見えないのだ。知らぬ間にお菓子が消えたら驚くじゃないか。驚いて発作を起こしてしまう。興奮して、彼女の人形を叩き壊す。この人形は本物じゃない、と叫びながら――。
だから僕は人形になる。もう二度としくじってはならない。彼の前では僕を殺す。スティーブが戻ってきてくれるまで。僕を迎えにきてくれるまで。動かない時計の代わりに、1秒、2秒、と時を数えて。西日が闇に呑まれるのを、じっと待つんだ。薄緑の蔦模様が薄闇のなかに消えるのを――、息を殺して。
スティーブ早く来て。
来て、バニー、欲しいんだ。
――埋めて。
誰でもいい。僕を一人にしないで。僕を埋めて。流れでた僕の代わりに。塞いで。被せて。隙間なく。確かめて。僕の輪郭を――。
ねぇ、教えて、コウ――。僕は、本当に、ここにいるの?
また無意識に泣き濡れて、コウを抱きしめていた。
なんの反応も返してくれないコウを。それでもいい。ここにいてくれるだけでいい。それだけできみは僕に温もりをくれる。安らぎをくれる。
母のように。僕を望んでくれた母のように。
きみだけが僕の命の糧。僕を生かす唯一の――。
――お前がこいつを食い尽くしたんだ。
そうだ。あのとき赤毛はそう言ったのだ。こうなったのは僕のせいだ、と。僕がすべての元凶だ、と。だから奴がコウに生命を注いでいるのだ、と。
奴が僕のコウに触れることが、僕はどうしたって許せない。当然じゃないか。僕のコウなのだ。コウは僕のものなのだ。僕のものに手を出されて許せるわけがないじゃないか。
コウはなにも言わなかった。もう言い訳すらしてくれなかった。僕に呆れて。
みっともなく取り乱していた僕に、コウは、愛想がつきたのかもしれない。
しょせん、美しい御伽噺の真実なんてそんなもの。
動かないコウの憔悴した蒼白い頬に触れながら、そんなことを夢想する僕は獣だ。
朝になったら、バニーに相談しよう。いい催眠療法家を紹介してもらおう。目を覚ますことさえできれば、あとはバニーに頼んでゆっくりコウにかけられた暗示を解いてもらえばいい。そうすればきっと、赤毛が帰ってくる以前のコウに戻ってくれる。僕のことを一番に考えてくれていたコウに。それで僕だって、もっと僕らしい僕でいられる。コウを大切にする僕でいられる。
大丈夫。僕たちは、きっとやり直せる。
「きみはちゃんとここにいる。そうだろう、コウ?」
冷たい頬。血の気の引いた唇。生き生きとしたきみは眠ったまま――。
――どうして人は人を好きになるんだろう?
きみは僕にそう尋ねたじゃないか。
コウ、目を開けて。僕を見て。
僕たちはまだ、その答えを見つけていないじゃないか。
コウの横に身体を横たえ、そっと抱きしめた。
彼の体温を、呼吸を確かめたかったのだ。母の刺した野草の刺繍に包まれたコウ。これにも魔術的な意味があるのだと、スティーブが教えてくれた。安らかな眠りを、健やかな日々を得られるように。そんな願いが込められているのだと。
ロマンティックで感傷的な、少女のようだった彼女の祈りが、コウを呼び戻してくれないだろうか。
僕までもが、そんな感傷的な気分に侵されている。しっかりしなければ。少しでも眠って。起きたらもう感情を昂らせないように。明日にはあの人に逢わなければならないのだから。
スミス夫人は彼にどう説明したのだろう? それとも、まだ何も話していないのかもしれない。連絡を入れた時間が遅かったもの。朝一番に挨拶に行かなければならないだろうな。彼を興奮させないように気をつけて。コウのことはどう説明しよう。前のようにはいかないだろう。どうすれば。
言葉はとめどなく、洪水となって頭のなかを流れていた。
煩い、と叫びたくなる。神経を昂らせてしまっているのは僕の方だ。こんな状態で彼に逢うなんてとても無理だ。少しでも眠って、落ち着いて、それから――。
「コウ」
そばにいて。お願いだから。
ここにいて。僕を一人にしないで。お願いだから、この人と二人にしないで。僕はここにいるのに、いないんだ。この人には僕が見えないんだよ。空気のように見えないんだ。スティーブがいるときだけ、見えるふりをしてるんだ。この人、変なんだよ。本当だよ。信じて、スティーブ。
決して口にだすことはなかった言葉が、心から溢れでて暴れていた。堰を切って流れだした語群は渦巻く爆流となってうねり、滝のように落ちて僕を圧し潰す。一語一語が飛沫の礫となって僕の輪郭に突き刺さる。境界に穴をあける。薄い膜はズタズタに破れ、裂け目から僕が熔けて流れだしている。
サーモンピンクの小花模様の壁紙に、蔦模様の絨毯が西日に染まっている。止まったままの金時計。白大理石の暖炉には冬でも火が入ることはない。「妻が暖炉の焔は苦手なんだよ」と、きまって彼はスティーブにそう言った。仕方がないと言い訳するように肩をすくめて。
13歳の僕は、人形のように固まって椅子に腰かけていた。ゼンマイ仕掛けででもあるかのように、ぎこちなくカップを持ちあげ口に運ぶ。添えられた菓子には手をつけてはいけない。だって彼には僕が見えないのだ。知らぬ間にお菓子が消えたら驚くじゃないか。驚いて発作を起こしてしまう。興奮して、彼女の人形を叩き壊す。この人形は本物じゃない、と叫びながら――。
だから僕は人形になる。もう二度としくじってはならない。彼の前では僕を殺す。スティーブが戻ってきてくれるまで。僕を迎えにきてくれるまで。動かない時計の代わりに、1秒、2秒、と時を数えて。西日が闇に呑まれるのを、じっと待つんだ。薄緑の蔦模様が薄闇のなかに消えるのを――、息を殺して。
スティーブ早く来て。
来て、バニー、欲しいんだ。
――埋めて。
誰でもいい。僕を一人にしないで。僕を埋めて。流れでた僕の代わりに。塞いで。被せて。隙間なく。確かめて。僕の輪郭を――。
ねぇ、教えて、コウ――。僕は、本当に、ここにいるの?
また無意識に泣き濡れて、コウを抱きしめていた。
なんの反応も返してくれないコウを。それでもいい。ここにいてくれるだけでいい。それだけできみは僕に温もりをくれる。安らぎをくれる。
母のように。僕を望んでくれた母のように。
きみだけが僕の命の糧。僕を生かす唯一の――。
――お前がこいつを食い尽くしたんだ。
そうだ。あのとき赤毛はそう言ったのだ。こうなったのは僕のせいだ、と。僕がすべての元凶だ、と。だから奴がコウに生命を注いでいるのだ、と。
奴が僕のコウに触れることが、僕はどうしたって許せない。当然じゃないか。僕のコウなのだ。コウは僕のものなのだ。僕のものに手を出されて許せるわけがないじゃないか。
コウはなにも言わなかった。もう言い訳すらしてくれなかった。僕に呆れて。
みっともなく取り乱していた僕に、コウは、愛想がつきたのかもしれない。
あなたにおすすめの小説
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。
初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。
「今すぐ部屋から出ろ!」
独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。
翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。
「俺以外に触らせるな」
そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。
弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。
本当にこのままでもいいのか。
ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。
その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。
どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
さよなら、永遠の友達
万里
BL
高校時代、バスケットボール部のキャプテン・基樹と、副部長として彼を支える冷静な舜一。対照的な二人は親友であり、マネージャーの結子を含めた三人は分かちがたい絆で結ばれていた。しかし舜一は、基樹への決して報われない恋心を隠し続けていた。
卒業を控え、基樹との「ずっと一緒にバスケをする」という約束を破り、舜一は逃げるように東京の大学へ進学する。基樹を突き放したのは、彼が結子と結ばれる幸せを近くで見届ける自信がなかったからだ。
10年後。孤独に生きる舜一のもとに、基樹から「結子が事故で亡くなった」という絶望の電話が入る。ボロボロになった親友の悲痛な叫びを聞いた瞬間、舜一の中にあった想いが目を覚ます。仕事もキャリアも投げ出し、舜一は深夜の高速をひた走る。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。