夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

此岸 2

 御伽噺の眠りの森スリーピングの美女ビューティーのように、眠りから覚めないコウを犯してしまいたくてたまらない。

 しょせん、美しい御伽噺の真実なんてそんなもの。

 動かないコウの憔悴した蒼白い頬に触れながら、そんなことを夢想する僕はけだものだ。

 朝になったら、バニーに相談しよう。いい催眠療法家ヒプノセラピストを紹介してもらおう。目を覚ますことさえできれば、あとはバニーに頼んでゆっくりコウにかけられた暗示を解いてもらえばいい。そうすればきっと、赤毛が帰ってくる以前のコウに戻ってくれる。僕のことを一番に考えてくれていたコウに。それで僕だって、もっと僕らしい僕でいられる。コウを大切にする僕でいられる。

 大丈夫。僕たちは、きっとやり直せる。

「きみはちゃんとここにいる。そうだろう、コウ?」

 冷たい頬。血の気の引いた唇。生き生きとしたきみは眠ったまま――。


 ――どうして人は人を好きになるんだろう?

 きみは僕にそう尋ねたじゃないか。
 コウ、目を開けて。僕を見て。

 僕たちはまだ、その答えを見つけていないじゃないか。



 コウの横に身体を横たえ、そっと抱きしめた。
 彼の体温を、呼吸を確かめたかったのだ。アビーの刺した野草ハーブの刺繍に包まれたコウ。これにも魔術的な意味があるのだと、スティーブが教えてくれた。安らかな眠りを、健やかな日々を得られるように。そんな願いが込められているのだと。

 ロマンティックで感傷的な、少女のようだった彼女の祈りが、コウを呼び戻してくれないだろうか。

 僕までもが、そんな感傷的な気分に侵されている。しっかりしなければ。少しでも眠って。起きたらもう感情を昂らせないように。明日にはあの人に逢わなければならないのだから。

 スミス夫人は彼にどう説明したのだろう? それとも、まだ何も話していないのかもしれない。連絡を入れた時間が遅かったもの。朝一番に挨拶に行かなければならないだろうな。彼を興奮させないように気をつけて。コウのことはどう説明しよう。前のようにはいかないだろう。どうすれば。

 言葉はとめどなく、洪水となって頭のなかを流れていた。
 煩い、と叫びたくなる。神経を昂らせてしまっているのは僕の方だ。こんな状態で彼に逢うなんてとても無理だ。少しでも眠って、落ち着いて、それから――。

「コウ」

 そばにいて。お願いだから。


 ここにいて。僕を一人にしないで。お願いだから、この人と二人にしないで。僕はここにいるのに、いないんだ。この人には僕が見えないんだよ。空気のように見えないんだ。スティーブがいるときだけ、見えるふりをしてるんだ。この人、変なんだよ。本当だよ。信じて、スティーブ。


 決して口にだすことはなかった言葉が、心から溢れでて暴れていた。堰を切って流れだした語群は渦巻く爆流となってうねり、滝のように落ちて僕を圧し潰す。一語一語が飛沫の礫となって僕の輪郭に突き刺さる。境界に穴をあける。薄い膜はズタズタに破れ、裂け目から僕が熔けて流れだしている。


 サーモンピンクの小花模様の壁紙に、蔦模様の絨毯が西日に染まっている。止まったままの金時計。白大理石の暖炉には冬でも火が入ることはない。「妻が暖炉の焔は苦手なんだよ」と、きまって彼はスティーブにそう言った。仕方がないと言い訳するように肩をすくめて。
 13歳の僕は、人形のように固まって椅子に腰かけていた。ゼンマイ仕掛けででもあるかのように、ぎこちなくカップを持ちあげ口に運ぶ。添えられた菓子には手をつけてはいけない。だって彼には僕が見えないのだ。知らぬ間にお菓子が消えたら驚くじゃないか。驚いて発作を起こしてしまう。興奮して、彼女アビーの人形を叩き壊す。この人形は本物じゃない、と叫びながら――。
 だから僕は人形になる。もう二度としくじってはならない。彼の前では僕を殺す。スティーブが戻ってきてくれるまで。僕を迎えにきてくれるまで。動かない時計の代わりに、1秒、2秒、と時を数えて。西日が闇に呑まれるのを、じっと待つんだ。薄緑の蔦模様が薄闇のなかに消えるのを――、息を殺して。


 スティーブ早く来て。

 来て、バニー、欲しいんだ。

 ――埋めて。

 誰でもいい。僕を一人にしないで。僕を埋めて。流れでた僕の代わりに。塞いで。被せて。隙間なく。確かめて。僕の輪郭を――。


 ねぇ、教えて、コウ――。僕は、本当に、ここにいるの?



 また無意識に泣き濡れて、コウを抱きしめていた。
 なんの反応も返してくれないコウを。それでもいい。ここにいてくれるだけでいい。それだけできみは僕に温もりをくれる。安らぎをくれる。

 アビーのように。僕を望んでくれたアビーのように。

 きみだけが僕の命の糧。僕を生かす唯一の――。



 ――お前がこいつを食い尽くしたんだ。



 そうだ。あのとき赤毛はそう言ったのだ。こうなったのは僕のせいだ、と。僕がすべての元凶だ、と。だから奴がコウに生命を注いでいるのだ、と。

 奴が僕のコウに触れることが、僕はどうしたって許せない。当然じゃないか。僕のコウなのだ。コウは僕のものなのだ。僕のものに手を出されて許せるわけがないじゃないか。

 コウはなにも言わなかった。もう言い訳すらしてくれなかった。僕に呆れて。

 みっともなく取り乱していた僕に、コウは、愛想がつきたのかもしれない。




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