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第四章
此岸 7
薔薇の香りに息が詰まる――。
開かれた窓辺のブリックピンクのカーテンが揺れている。強すぎる風に煽られた白雪の花びらが舞いこむ。吹きあがり、はらはらと、蝶のように飛び交いながら。まるで自らの意志ででもあるかのように。逆らえない圧に、翻弄されているにすぎないのに――。
昼食はやり過ごしたものの、このお茶の時間は逃れられなかった。じきに彼がここへ来る。彼の妻を連れて。
幾度となく繰り返されてきた面談で、僕には聴こえない彼女の言葉を、彼は分かり切っていることをあえて通訳するかのように、断片的に教えてくれる。
彼の話によると、彼女には僕という人間は認識できていないらしい。ぼんやりとした影のように捉えているのだそうだ。それはスティーブに対しても同じ。彼はそれを彼女の病気のせいだと捉えている。彼の内的世界に住む彼女にとって、人間は彼ただ一人だけ。彼女は誰にも脅かされることのない彼と二人だけの世界で暮らしていると信じているのだ。そしてそれは、彼にとっても同じだ。彼の世界に正しく人間として認知されているのは彼女だけ。それ以外の僕たちは、彼の世界を構成する記号にすぎない。
それでも僕やスティーブが彼に認知されたことを、彼の主治医が進展であると捉えたことはおそらく正しいのだろう。この特別な中間領域である館内に限られているにせよ、それは確かに、閉じられた彼の内的世界の綻びだといえなくもないのだ。この館から一歩でも外に出れば、彼はどんな外的世界に対しても、一切の反応を見せなくなるのだから。息子という存在に彼が形を与えなかったように、彼はこの彼の城以外の世界にどんな形も与えることはない。
彼の内的世界には時間という概念がない。彼は、彼女の葬式のあとから徐々に認知の混乱がみられるようになった。ネジを巻かれることを忘れられたこの部屋の金時計は止まり、彼は、彼の時を生きることを忘れた。
だから彼女の愛着する赤ん坊は成長しない。彼はスティーブの時間的変化を認知しない。それを彼は疑問に思わない。だが彼女は、ときどき、彼女の赤ん坊に疑問を生じる。定期的に、彼の彼女には綻びが生じる。
カチコチと、時計の針が時を刻む音がする。
どこからだ?
僕は視線を流して動かない金時計を視認する。暖炉の上じゃない。それに、これはもっと古くくっきりとした、振り子時計の音だ。ひどく懐かしい――。ぐるりとこの部屋を見回しても、どこにもそんなものは見当たらないのに。
音に誘われ立ちあがっていた。
もうじき彼が来る。これまで通り、落ち着いて対応するんだぞ。そんな言葉が僕を引き留める。
けれど心はすでにこの規則正しい律動に囚われて、浮遊していた。
ドアが開く。彼が来たのだ。スミス夫人がお茶を運んでくれている。今日の彼は人形を持っていない。僕は微笑んで挨拶をする。機械的にもう一度腰かける。
振り子時計は時を刻み続けている。
レースのテーブルクロスのかかるテーブルに、いかにも彼女好みの可憐な花模様のティーセット。ケーキスタンドに置かれたサンドイッチにスコーン、一口サイズのケーキ。
だが、彼女は一緒ではなかった。
彼女は今、新しい対象と一緒にいるという。庭で花を摘んでいるという。対象である少年が、白薔薇が好きらしい。
「せっかくこうして来てもらっているのに、不作法をしてすまないね」と、彼は愛想笑いを浮かべて言う。続けて、事情が許すなら、コウの体調が回復するまでしばらくここに滞在してはどうか、と提案してくれた。その間に、妻の容体の落ち着くときもあるだろう、妻を診てやってほしい、と。
彼は、彼女の孕んだ新しい妄想に困惑していた。そして明らかに専門家の援助を求めていた。こんなことも今までになかったことだ。彼の妄想は、彼に逆らうことも、彼を攻撃することもなかったのだ。だから彼は、主治医や心理士としての僕を認知しながらも、妻のための気休め程度の位置づけに置くだけでしかなかったのに。
変わることのない水銀鏡の瞳に、腐食でできたシミのような怯えが浮かぶ。
この変化は進展ではなく、悪化なのかもしれない。
カチコチと時計の音が耳につく。僕はまた、その音に囚われる。
「先生」
ふっ、と意識が跳ねあがった。
「ああ、すみません。ちょっと考えこんでしまっていました。そうですね、ありがとうございます。そうさせていただけたら、こちらとしても助かります。奥さんの落ち着かれているときにでも、お話を伺いましょう」
すらすらと当たり障りのない言葉が流れていた。彼は安堵したようにまた喋り始める。けれど、僕はもう聴いていなかった。
僕の耳を占領していたのは、あの規則正しい振り子時計の音だったから――。
いつの間にか、彼は席を立ってこの部屋を出ていた。
明るい午後の陽射しが白い花群のうえで光を爆ぜている。風が唸り、濃い緑を連ねる。鎖のように波打ち、揺れながら――。
金色に染まるこの部屋で、まだ幼さを残す13歳の僕は、座ったままテーブルに肘をつき、頭を抱えて俯いているスティーブを背後から抱きしめていた。
「大丈夫だよ、スティーブ。僕がいる。今はまだ無理でも、きっといつか、彼は僕に気づいてくれるよ。だって、僕は彼の息子なんだもの。彼が気づいてくれるまで、僕は諦めない。ずっとここに通い続ける。スティーブの分まで――」
あなたの代わりに――。
あなたの心を、彼に伝え続けるから。約束する、スティーブ。
だからお願い。僕を嫌わないで。憎まないで。
僕を許して、スティーブ。
開かれた窓辺のブリックピンクのカーテンが揺れている。強すぎる風に煽られた白雪の花びらが舞いこむ。吹きあがり、はらはらと、蝶のように飛び交いながら。まるで自らの意志ででもあるかのように。逆らえない圧に、翻弄されているにすぎないのに――。
昼食はやり過ごしたものの、このお茶の時間は逃れられなかった。じきに彼がここへ来る。彼の妻を連れて。
幾度となく繰り返されてきた面談で、僕には聴こえない彼女の言葉を、彼は分かり切っていることをあえて通訳するかのように、断片的に教えてくれる。
彼の話によると、彼女には僕という人間は認識できていないらしい。ぼんやりとした影のように捉えているのだそうだ。それはスティーブに対しても同じ。彼はそれを彼女の病気のせいだと捉えている。彼の内的世界に住む彼女にとって、人間は彼ただ一人だけ。彼女は誰にも脅かされることのない彼と二人だけの世界で暮らしていると信じているのだ。そしてそれは、彼にとっても同じだ。彼の世界に正しく人間として認知されているのは彼女だけ。それ以外の僕たちは、彼の世界を構成する記号にすぎない。
それでも僕やスティーブが彼に認知されたことを、彼の主治医が進展であると捉えたことはおそらく正しいのだろう。この特別な中間領域である館内に限られているにせよ、それは確かに、閉じられた彼の内的世界の綻びだといえなくもないのだ。この館から一歩でも外に出れば、彼はどんな外的世界に対しても、一切の反応を見せなくなるのだから。息子という存在に彼が形を与えなかったように、彼はこの彼の城以外の世界にどんな形も与えることはない。
彼の内的世界には時間という概念がない。彼は、彼女の葬式のあとから徐々に認知の混乱がみられるようになった。ネジを巻かれることを忘れられたこの部屋の金時計は止まり、彼は、彼の時を生きることを忘れた。
だから彼女の愛着する赤ん坊は成長しない。彼はスティーブの時間的変化を認知しない。それを彼は疑問に思わない。だが彼女は、ときどき、彼女の赤ん坊に疑問を生じる。定期的に、彼の彼女には綻びが生じる。
カチコチと、時計の針が時を刻む音がする。
どこからだ?
僕は視線を流して動かない金時計を視認する。暖炉の上じゃない。それに、これはもっと古くくっきりとした、振り子時計の音だ。ひどく懐かしい――。ぐるりとこの部屋を見回しても、どこにもそんなものは見当たらないのに。
音に誘われ立ちあがっていた。
もうじき彼が来る。これまで通り、落ち着いて対応するんだぞ。そんな言葉が僕を引き留める。
けれど心はすでにこの規則正しい律動に囚われて、浮遊していた。
ドアが開く。彼が来たのだ。スミス夫人がお茶を運んでくれている。今日の彼は人形を持っていない。僕は微笑んで挨拶をする。機械的にもう一度腰かける。
振り子時計は時を刻み続けている。
レースのテーブルクロスのかかるテーブルに、いかにも彼女好みの可憐な花模様のティーセット。ケーキスタンドに置かれたサンドイッチにスコーン、一口サイズのケーキ。
だが、彼女は一緒ではなかった。
彼女は今、新しい対象と一緒にいるという。庭で花を摘んでいるという。対象である少年が、白薔薇が好きらしい。
「せっかくこうして来てもらっているのに、不作法をしてすまないね」と、彼は愛想笑いを浮かべて言う。続けて、事情が許すなら、コウの体調が回復するまでしばらくここに滞在してはどうか、と提案してくれた。その間に、妻の容体の落ち着くときもあるだろう、妻を診てやってほしい、と。
彼は、彼女の孕んだ新しい妄想に困惑していた。そして明らかに専門家の援助を求めていた。こんなことも今までになかったことだ。彼の妄想は、彼に逆らうことも、彼を攻撃することもなかったのだ。だから彼は、主治医や心理士としての僕を認知しながらも、妻のための気休め程度の位置づけに置くだけでしかなかったのに。
変わることのない水銀鏡の瞳に、腐食でできたシミのような怯えが浮かぶ。
この変化は進展ではなく、悪化なのかもしれない。
カチコチと時計の音が耳につく。僕はまた、その音に囚われる。
「先生」
ふっ、と意識が跳ねあがった。
「ああ、すみません。ちょっと考えこんでしまっていました。そうですね、ありがとうございます。そうさせていただけたら、こちらとしても助かります。奥さんの落ち着かれているときにでも、お話を伺いましょう」
すらすらと当たり障りのない言葉が流れていた。彼は安堵したようにまた喋り始める。けれど、僕はもう聴いていなかった。
僕の耳を占領していたのは、あの規則正しい振り子時計の音だったから――。
いつの間にか、彼は席を立ってこの部屋を出ていた。
明るい午後の陽射しが白い花群のうえで光を爆ぜている。風が唸り、濃い緑を連ねる。鎖のように波打ち、揺れながら――。
金色に染まるこの部屋で、まだ幼さを残す13歳の僕は、座ったままテーブルに肘をつき、頭を抱えて俯いているスティーブを背後から抱きしめていた。
「大丈夫だよ、スティーブ。僕がいる。今はまだ無理でも、きっといつか、彼は僕に気づいてくれるよ。だって、僕は彼の息子なんだもの。彼が気づいてくれるまで、僕は諦めない。ずっとここに通い続ける。スティーブの分まで――」
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僕を許して、スティーブ。
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