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第四章
魔術師
柔らかな風に頬をなぶられる。光が揺らいでいる。重い瞼を持ちあげると、窓辺に置かれた軽やかに揺れる白薔薇がまっさきに視界に入った。
寝室にまでこの花を飾るなんて――。
降り積もる白に封じ込められ、自分自身がかき消えてしまいそうな朝だった。
「だめだよ、アル、朝からため息だなんて。幸せが逃げてしまうよ」
背後から腕が回され、僕を優しく抱きしめる。クスクス笑いが背中をくすぐる。
「コウ! 目が覚めたんだね!」
彼の手に手を重ねて握りしめた。温かな手。コウは手首を返して僕の手に指を絡めて握り返してくれる。
だけど――。
あまりにも強く抱きしめてくれているから、僕は寝返りが打てない。コウの顔が見えない。
「コウ、きみを見たいんだ」
「もう少し、このままでいさせて」
緩めようとした僕の手を、コウは逆に強く握りしめる。背中にぴたりとつけられているコウの頬。柔らかな息。温もりの感触。ホッとし過ぎて、泣いてしまいそうだ。
「アル、僕を見つけて」
ふっと、戒めが解かれた。感触そのものがかき消えて――。
怖くて振り返れなくなった。
振り返れば、きっとエウリュディケは黄泉の国へ連れ去られてしまうから――。
いや、たとえそうしなくても、夢はもう覚めてしまっている。こんなものは白薔薇の見せた一瞬の幻惑でしかない。
涙が零れていた。堪らない。僕はこれから幾度となく、こんな喪失を味わわなければいけないのだろうか。幻想に希望を呑みこまれて――。
寝返りを打って、嗚咽しながら動かないコウを抱きかかえた。
ここにいるのに、どこにもいないきみ。
そんなきみを、僕はどうやって見つければいいのだろう? どうすれば赤毛から奪い返すことができるのだろう?
朝食時に、スミス夫人にコウの部屋の白薔薇のことで文句を言うつもりだった。だが、彼女の方からさきに言われてしまった。
「旦那様なんですよ、お花を切ってくださったのは。坊ちゃんのお友達のお見舞いにって」
何かがひっかかっていた。だから僕は「そう、ありがとう。あとでお礼を言っておくよ」としか応えることができなかった。
どこもかしこも白薔薇で溢れ返っているのに、わざわざ部屋にまで――。息が詰まるとは、彼は感じないのだろうな。
今日は風が強い。サンルームの窓から見渡せる花群も、大きく波打ち揺れている。見ているだけで視界が揺らぎ、酔いそうになる。こんな日に、花を摘みにでたのか、あの人は――。
コウ、新しい対象――。彼女の今のお気に入り。花を摘んだのは今日でなく、昨日だ。彼自身がそんなことを話していたじゃないか。そしてそれは、彼ではなく、彼女の話だった。妄想の彼女が、彼には見えない対象に花をやったのだ。
彼の内的世界のこの新しい対象が、彼の外的世界、現実でのコウと一致したのだろうか?
それは彼が、外的世界でもコウの存在を認知しているということになる。そうか――、彼は初めて逢ったときからコウを認知していたのかもしれない。おそらく僕がこれまで考えていたような、「心理士の助手」という役割記号ではなく、コウを、コウとして――。
霧が晴れるように視界が急にクリアになる。視線はまっすぐに揺れる花群を見据えていた。もっとも、見つめていたのは花などではなかったが。
揺れる記憶、あの日の。コウとここを訪れた日の――。
人形のモデル――。確か、そんな話をしていたはずだ。僕は、赤毛が彼の作る人形のモデルになった連中と関係があるのではないかと疑っていて、しつこくコウに訊ねていた。それはコウにしても同じだったはず。
それから儀式、コウはアーノルドに儀式のことを尋ねていた。彼の耳許でなにか囁いて。あのとき彼は激しく感情を露わにしたのだ。でもそれは発作ではなく、ごく普通の人間らしい反応だったから、僕は驚いて、口を挿むことなく彼らを観察していたじゃないか。それから彼はその感情をすぐに収めて、コウと連れだって部屋をでたのだ。
ドアの向こうで彼と二人で交わした話を、コウは後から教えてくれた。彼の言葉を。「妻と子どもと、両方望めば良かった」、彼はそう言ったと。
――アーノルドが言ってたんだ。後悔しているって。彼らを見つけて、また儀式を望みたいんだと思う。
人形、儀式、人形のモデルになった魔術師たち、そして子ども――。
アビーが男の子を欲しがっている。
彼は、コウを生贄にするつもりなのか――。
突飛すぎる連想に、自分でも愕然とした。なにがどうつながって、この結論に結びついたのか判らない。コウは儀式についても話してくれていたじゃないか。アーノルドの知識は素人程度のものにすぎず、彼らがいなければ儀式なんて取り仕切れなかったのだと。
人形、儀式、彼らしか知らない秘儀をコウは知っている。
それならば、彼にとって、コウこそが魔術師だ。
おそらく彼が、彼の内的世界でずっと求めていたはずの――。
だから彼はこんなにも容易く、コウを彼の内的世界に取りこんだのだ。現実のコウは目を覚まさないのに。だがそんなことは、彼の内的世界には関係ないのだろう。
コウはすでに彼の内的世界にいるのだ。彼女のそばに。だが、彼には見えない。彼はコウに形を与えることができていない。
それならば、次にどうする? 彼ならどうする?
――アル、僕を見つけて。
コウの吐息のような囁きが、脳裏を風音のように掠っていた。
寝室にまでこの花を飾るなんて――。
降り積もる白に封じ込められ、自分自身がかき消えてしまいそうな朝だった。
「だめだよ、アル、朝からため息だなんて。幸せが逃げてしまうよ」
背後から腕が回され、僕を優しく抱きしめる。クスクス笑いが背中をくすぐる。
「コウ! 目が覚めたんだね!」
彼の手に手を重ねて握りしめた。温かな手。コウは手首を返して僕の手に指を絡めて握り返してくれる。
だけど――。
あまりにも強く抱きしめてくれているから、僕は寝返りが打てない。コウの顔が見えない。
「コウ、きみを見たいんだ」
「もう少し、このままでいさせて」
緩めようとした僕の手を、コウは逆に強く握りしめる。背中にぴたりとつけられているコウの頬。柔らかな息。温もりの感触。ホッとし過ぎて、泣いてしまいそうだ。
「アル、僕を見つけて」
ふっと、戒めが解かれた。感触そのものがかき消えて――。
怖くて振り返れなくなった。
振り返れば、きっとエウリュディケは黄泉の国へ連れ去られてしまうから――。
いや、たとえそうしなくても、夢はもう覚めてしまっている。こんなものは白薔薇の見せた一瞬の幻惑でしかない。
涙が零れていた。堪らない。僕はこれから幾度となく、こんな喪失を味わわなければいけないのだろうか。幻想に希望を呑みこまれて――。
寝返りを打って、嗚咽しながら動かないコウを抱きかかえた。
ここにいるのに、どこにもいないきみ。
そんなきみを、僕はどうやって見つければいいのだろう? どうすれば赤毛から奪い返すことができるのだろう?
朝食時に、スミス夫人にコウの部屋の白薔薇のことで文句を言うつもりだった。だが、彼女の方からさきに言われてしまった。
「旦那様なんですよ、お花を切ってくださったのは。坊ちゃんのお友達のお見舞いにって」
何かがひっかかっていた。だから僕は「そう、ありがとう。あとでお礼を言っておくよ」としか応えることができなかった。
どこもかしこも白薔薇で溢れ返っているのに、わざわざ部屋にまで――。息が詰まるとは、彼は感じないのだろうな。
今日は風が強い。サンルームの窓から見渡せる花群も、大きく波打ち揺れている。見ているだけで視界が揺らぎ、酔いそうになる。こんな日に、花を摘みにでたのか、あの人は――。
コウ、新しい対象――。彼女の今のお気に入り。花を摘んだのは今日でなく、昨日だ。彼自身がそんなことを話していたじゃないか。そしてそれは、彼ではなく、彼女の話だった。妄想の彼女が、彼には見えない対象に花をやったのだ。
彼の内的世界のこの新しい対象が、彼の外的世界、現実でのコウと一致したのだろうか?
それは彼が、外的世界でもコウの存在を認知しているということになる。そうか――、彼は初めて逢ったときからコウを認知していたのかもしれない。おそらく僕がこれまで考えていたような、「心理士の助手」という役割記号ではなく、コウを、コウとして――。
霧が晴れるように視界が急にクリアになる。視線はまっすぐに揺れる花群を見据えていた。もっとも、見つめていたのは花などではなかったが。
揺れる記憶、あの日の。コウとここを訪れた日の――。
人形のモデル――。確か、そんな話をしていたはずだ。僕は、赤毛が彼の作る人形のモデルになった連中と関係があるのではないかと疑っていて、しつこくコウに訊ねていた。それはコウにしても同じだったはず。
それから儀式、コウはアーノルドに儀式のことを尋ねていた。彼の耳許でなにか囁いて。あのとき彼は激しく感情を露わにしたのだ。でもそれは発作ではなく、ごく普通の人間らしい反応だったから、僕は驚いて、口を挿むことなく彼らを観察していたじゃないか。それから彼はその感情をすぐに収めて、コウと連れだって部屋をでたのだ。
ドアの向こうで彼と二人で交わした話を、コウは後から教えてくれた。彼の言葉を。「妻と子どもと、両方望めば良かった」、彼はそう言ったと。
――アーノルドが言ってたんだ。後悔しているって。彼らを見つけて、また儀式を望みたいんだと思う。
人形、儀式、人形のモデルになった魔術師たち、そして子ども――。
アビーが男の子を欲しがっている。
彼は、コウを生贄にするつもりなのか――。
突飛すぎる連想に、自分でも愕然とした。なにがどうつながって、この結論に結びついたのか判らない。コウは儀式についても話してくれていたじゃないか。アーノルドの知識は素人程度のものにすぎず、彼らがいなければ儀式なんて取り仕切れなかったのだと。
人形、儀式、彼らしか知らない秘儀をコウは知っている。
それならば、彼にとって、コウこそが魔術師だ。
おそらく彼が、彼の内的世界でずっと求めていたはずの――。
だから彼はこんなにも容易く、コウを彼の内的世界に取りこんだのだ。現実のコウは目を覚まさないのに。だがそんなことは、彼の内的世界には関係ないのだろう。
コウはすでに彼の内的世界にいるのだ。彼女のそばに。だが、彼には見えない。彼はコウに形を与えることができていない。
それならば、次にどうする? 彼ならどうする?
――アル、僕を見つけて。
コウの吐息のような囁きが、脳裏を風音のように掠っていた。
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