夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

魔術師 2.

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 ――アル。

 コウが僕の頬に触れていく。

 ――アル、好きだよ。

 こめかみにキスをくれる。

 時折、彼がすぐそばにいてくれているような、そんな幸せな気配を感じる。
 コウは、死んだように眠ったままだというのに。
 そんな都合の良い錯覚で、僕は本当に彼を殺してしまいかねない――。
 いまだに決心できないままなのだ。
 僕は、言い訳を重ねて、思考することすら拒否している。



 外も内も香る白薔薇アイスバーグから逃れたくて、一階の居間へ逃げてきた。使われていない閉め切られた部屋だ。ここなら、アーノルドと顔を合わせることもない。彼がここへ入ってくることは絶対にないのだから。

 分厚いカーテンの閉められたままの薄暗いこの部屋は、深緑を基調にした設えで気分が落ち着く。彼女アビーのティールームよりよほどいい。それにこの部屋は、白薔薇アイスバーグではなく、幾何学的な刈りこみを中心とした前庭に面している。僕はほっと息をつき、カーテンを少しだけ開けた。射しこむ陽射しに埃がチラチラと舞うなか、かびくさい臭いのする古いソファーに腰をおろす。
 
 色褪せた深緑のブロケード張りの壁が、日に晒されて艶やかさを増している。



 スティーブがアーノルドと二人だけの話があるとき、僕はいつもこの部屋で待つように言われていた。そんなある日、ここがあの部屋だということにふと気づいたのだ。情報源はインターネットで拾った記事だったか、それとも古いゴシップ誌の写真だったか――。

 壁の前のちょうどその位置に置かれていた白薔薇アイスバーグは、開きかけの五分咲きだった。アビーの棺を見下ろすように、その大きな花瓶は置かれていた。

 この部屋は、それ以来今なお変わらないしめやかな空気に充たされている。まるで時が止まったかのように――。



 ――お前が死ねばよかったんだ。

 そう言ってアーノルドは僕をアビーの棺に投げつけた。

 スティーブを待つ間、僕はいつも、アビーの棺の横で血を流しながら床に転がり泣きわめく僕を想像していた。
 僕は泣くことで、いったい誰を呼んでいたのだろう、と。
 スティーブか、それともアンナか――。おそらくアンナだろうな。きっと彼女が僕を拾いあげてくれたに違いない。いや、彼女は僕の血を見て悲鳴をあげ、震えて動けなくなってしまっていたかもしれない。とてもたくさん血が飛び散ったはずだから。それならきっと、スティーブか。
 
 僕はスティーブの言うように、アーノルドが僕を投げ捨てたことを恥じた、などと想像したことは一度もない。スティーブは僕の気休めのためにそう言ってくれただけだ。あの濁った水銀鏡の瞳が恥じ入るなんて、絶対にありはしない。

 ああ、やはりスティーブじゃない。彼は必死に彼を慰めていたに違いない。僕のことなどそっちのけで。きっと名も知らぬ誰かが僕を拾いあげたのだ。


 その場面が目も覚めるような鮮やかさで、眼前に浮かんでいた。
 大きな手が僕を掬いあげるように持ちあげる。優しく胸元に抱いてくれる。とんとんと背中を叩いて。上質の黒い喪服が血で汚れてしまうのもかまわずに。顔は見えない。夏至のころ、僕は生後10か月の赤ん坊だ。目を見開いたまま泣きわめいている。涙で歪んだ視界に映るのは、白いつやつやとした絹のハンカチ。額の血を拭ってくれているのだ。みるみる赤く染まっていく。彼の指先も。

 これは、誰だろう。
 緑がかった黒髪。緑の瞳。アビーと同じ深い緑だ。血縁――、のはずがない。彼女は孤児だったのだから。

 彼にあやされ泣きやんだ僕は、まじまじと彼の瞳に見入っていた。瑞々しい肌は十代のようなのに、年若いのか、老いているのか、まるで判らない深い水底のような瞳をしている。


 しんと水を打ったような室内に、柱時計が、ボーン、ボーンと鳴り響き、時を告げる。


 

 はっ、と気づいて思わず失笑してしまっていた。なんだったのだ、今のは。

 自分の妄想に取りこまれるなんて――。

 僕もいよいよアーノルドの仲間入りか。馬鹿ばかしくて、吐息が漏れた。

 けれど何げなく、日の当たる壁にもう一度視線を向けていた。ここに振り子の柱時計があったのだ。立ちあがり、壁によった。日に焼けた跡が、柱時計の形を残していた。

 脳裏に刻まれた振り子の音はいつの記憶? 
 そして、僕の妄想を形作っていた彼は誰だ?


 逢ったことのない男が、認知できないはずの僕の記憶のなかにいる。
 そんなことが、あるはずがないのに。
 
 
 
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