夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

魔術師 3.

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 この日の夕食の席にも、彼の妻アビーは姿を見せなかった。アーノルドは、苛々している様子を隠そうともしない。

「家内は、いもしない少年を頭のなかで作りだして、すっかり夢中になってるんだよ。今日も一日、その子が不安がるから離れたくないといって部屋に籠りきりだ。よくない傾向だと思わないかい、先生?」

 従順だった彼の妄想が、彼に反抗するようになっている。彼とは別の自我を得たみたいに。これはやはり、症状が悪化していると考えるべきなのだろう。コウの部屋には、鍵をかけるようにした方がいいかもしれない。今後彼のなかで、彼女の対象であるコウへの悪意が育まれていく可能性がないとは言い切れない。外的世界での彼が、彼女の妄想の少年とコウを結びつけていなくても、内的世界の彼女という形での彼は、その少年がコウだということを知っているのだ。

 そんな暗澹あんたんとした推察に圧迫されながら、表面上は彼に同調するように頷いて、僕は黙々とカトラリーを操り食事を続けていた。

 本来、僕はここにいるべき人間ではない。これまで続けていた定期訪問から下ろさせてもらう旨は、すでに彼の主治医に告げているのだ。ドイツ留学はその格好の言い訳になった。このことをまだ話していないのはスティーブだけだ。彼はこの定期訪問を続けることを条件に、僕の留学に渋々賛同してくれたにすぎなかったから――。きちんと話すべきなのは解っている。けれど、僕には彼を説得できる自信がなかった。そんな不安もあって留学という降ってわいた話に飛びついたのかもしれない。この国を出てしまえば、3か月おきに帰国して彼を訪問するなんて、現実的に無理だと言い訳できると思ったのだ。

 だから、その後の面談は僕の後任に誰かを充てるのか、それともこの面談そのものが、僕が彼の身内だという理由からの一抹の希望と義務とを兼ねてのもので、誰かに引き継がせる類のものではないのか、僕は聴いていない。決めるのはスティーブと主治医だ。そのスティーブを偽っているのだから、僕が誰に対して義務を果たせばいいの判らないのは当然だった。

 この時期、彼の主治医はバカンスでいない。連絡はつかないだろう。僕は彼のこの変化を誰に相談し、どう扱えばいいのだろうか。

 バニーに――。
 彼は、知ってくれている。僕の正直な想いも、なにもかもを。彼は僕のバイザーだったのだから。きっと、適切な指示をくれるに違いない。だけど、彼は――。

 ――きみのことが心配だ。帰っておいで。

 もう一度、他でもないバニーにこの言葉を言われたら、僕はきっと、何もかも放りだしてここから逃げだしてしまう。それだけはできない。絶対にしたくない。コウの心を取り戻すまでは――。


 食事の間中、そんな、自分のことばかりを考えていた。だからアーノルドの話にはほとんど上の空だった。もっとも僕が真剣に彼の話を聴いていたことなんて、これまでだってほとんどない。自分以外誰もいない世界に生きる彼の、こんなとりとめのない退屈な妄想を真面目に聴ける人間なんて、この世にいるとは思えない。彼の世界に住むアビーにしても、彼の生んだ妄想にすぎないのだ。彼は閉じられた世界でたった一人、とりとめもなく喋り続けているだけなのだ。



 食事を終え、食堂を辞してからまっすぐコウの待つ部屋へ戻る気になれなくて、また居間へと足を向けていた。そんな僕を見とがめたスミス夫人が、「お茶をお持ちしましょうか」と声をかけてくれた。断る理由もなくて、曖昧に笑って「お願いします」と頷く。



 灯りを点け、ソファーに腰かけるでもなく、ただぼんやりと立ちつくしていた。


 ――お前が死ねばよかったんだ。

 アーノルドが、両手で顔を覆って泣いている。

 僕は記憶にあるはずもない場面を脳裏に描いている。

 ゴシップ誌に、そんなことまで書いてあっただろうか――。これまで、そんな場面を思い描いたことなどなかったはずだ。
 彼が、泣いているなんて、そんなことがあるはずがない。彼のアビーは、彼の内的世界で生きているのだ。泣く必然性がないじゃないか。


 ――妻と子どもと、両方望めば良かったって。彼の時間は止まっているはずなのに、彼の思考にはちゃんと時間が流れていたよ。

 コウが以前、教えてくれた。ここを訪れた後に――。

 彼の世界はいつから狂いだしたのだった? 
 アビーが亡くなってからだ。それから彼の認知はずれ始めた。そう聴いている。彼の心は、アビーの喪失を受け入れられなかっただけで、本当は、その死を知っている――、そういうことなのか。

 どうして今までそんな単純なことに気づかなかったのだ、と自分のことながら唖然としてしまっていた。

 同じように、彼は知っていたのだ。
 アビーが息子を産み、そのために死んだのだということも。
 いくら記憶を書き換えてみても、彼の抑圧された心は知っているのだ。
 彼女の赤ん坊を、憎しみを込めて彼女の棺に投げつけたことを。

 アビーが彼の心を顧みることなく、命がけで男子を望み、育んだから――。


 コウが、そして彼と交わした魔術に関するやりとりが、アーノルドの心に綻びを生じさせたのだろうか――。


 彼は知っている。そして恐れている。

 アビーが、男の子を望み、育むことを――。

 それは彼にとって、彼女の喪失を意味するのだ。




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