夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

取り替え子 2.

「そうだね――。中間領域にいるアーノルドにコウがどう映っているかは判らないんだ。なんて言えばいいのかな――。彼が認識できている人間は、アビーが亡くなる以前に出逢った人だけなんだ。だから主治医とスティーブは、彼の内的世界でも人間の姿をしている。だけど僕は違う。それにおそらくきみも。スティーブの連れてきた『心理士』という役割を担う記号と、その記号に付属する別の記号だよ。でも、彼がコウをどんなふうに認知しているのかは、今のところなんとも言えない」
「難しいな――」
「彼は、健常者と認知の仕方が違うからね」
「それで、中間領域って何?」

 今さらの質問に一瞬、耳を疑ってしまった。何度もこの語句を使って話しているはずなのに――。でも、よく考えてみるとこれは心理学用語だ。なんとなく意味が想像できてしまうから解った気になってしまうけれど、実際、正確に捉えることが難しい際たるものかもしれない。

「つまりね、アーノルドの属する環境は3つの世界に分かれてるんだ。僕たちには彼の妻アビーの姿は見えないだろ? でも彼には彼女が見えている。彼女は彼の『内的世界』つまり彼の心の住人なんだ。そして僕たちは現実、彼にとっては『外的世界』の住人。彼が、そのどちらの住人とも同時に交流できる空間、それが『中間領域』だよ。でも今の彼は『内的世界』の住人だから、『外的世界』に属する僕たちのことは認識の仕方が健常者とは違うんだ」

 彼自身がコウを一個人として認識できているかどうかは、今回の面談でも確信が持てないままだ。けれど、彼の妄想である彼の妻アビーは、正確にコウの特徴を捉え描写できている。それは彼自身の認識を素通りして、彼の内的世界にコウが取り入れられている、ということだ。だけどなぜこんな不可解なことが起こっているのか説明がつかない。なぜ、それがコウなのかも――。


 僕とショーンは申し合わせたように深いため息をついていた。
 それからしばらく、それぞれがそれぞれの想いに埋没した。静寂が、僕たちのうえに降りていた。


 男の子を欲しがっていた彼の妻アビーが見出した対象は、「取り替え子」という新たな意味と役割を得ている。そしてアーノルドもまた、自分には見えないそれを受け入れようとしている。

 どうやって、彼の目には見えないコウを受け入れるのだろう?

 僕のように、見えているフリをするのだろうか。
 彼の愛する彼女に対して、彼も嘘をつくのだろうか。

 本当はいるのにいない子ども。見えない子ども。

 彼は、彼女のために、その子どもぼくを認めようとしているのだろうか。


 彼の内的世界で、コウが僕になる――。



「内的世界とか、外的世界とか、中間領域――。健常者とは違う……。子どもを欲しがる妄想の妻。まるで御伽噺だな」

 深い吐息とともに吐きだされた自分の言葉に、ショーン自身が苦笑している。

「御伽噺って? 彼の世界に御伽噺はどんなふうに重なるんだろう?」
「うーん……。こういうのってさ、コウの得意な思考法だよな」

 言いながらショーンはよいしょっと机に腰かけ、視線をぼんやりと漂わせる。僕はといえば、書斎机の椅子を拝借して先から座っていたので、行儀が悪いと文句を言うわけにもいかない。

「 さあ人間の子どもよ
  その水辺に行ってごらん
  妖精と手を携えて
  この世の中にはお前の知らない嘆きの種がいっぱいあるんだ 」

 唐突にショーンが何かの詩を諳んじた。人は見かけによらないものだ、と呆気にとられてみてしまった。そんな僕を振り返り、ショーンはくしゃりと笑う。

「イエイツだよ。『取り替え子』の伝承を踏まえた詩なんだ。題は『盗まれた子ども』っていうんだけどな」
「コウにぴったりだ」


 ものの見事に盗まれた。身体だけ残して、コウを盗まれた。

 僕が彼の身体を、心のない人形のように扱ったから――。

 

 ――これは僕の身体だろ?



「 さあ人間の子どもよ
  とうとうその水辺に出かけたね
  妖精と手を携えて
  この世の中のお前の知らない嘆きの種から開放されて 」

 ショーンがまた詩を諳んじる。最後の節がさっきと違う。

 ――嘆きの種から開放されて


 僕は、コウの嘆きの種なのだ……。




「アル」

 視界がぼやけている。

「アル!」

 ゆらゆらとした水辺を覗きこんでいるように、ショーンの顔が歪んでみえる。

「大丈夫だよ! 大丈夫だって! コウは絶対に目を覚ましてもとに戻るって! 元気だって、医者も言ってくれたんだろ! そんな暗示だか催眠術だか知らないが、すぐに解けてもとに戻るよ。だから――」

 ショーンは机から飛び降りて立ちつくしたまま、ぐっと拳を握りしめている。

「コウなら、こんなふうに考えるかなって、俺も考えていたんだ。きみの父親の内的世界は、異界、いわゆる妖精界だ。俺たちには見えない世界だもんな。外的世界はそのままで、俺たちのいる現実。中間領域は、森や水辺、井戸なんかの異界と俺たちの現実世界の重なる入り口、境界域だ。だからさ――」

 僕は喉を詰まらせたまま、頷いた。彼の言わんとしていることがなんとなく解った。以前コウが御伽噺の話をしてくれた時、似たようなことを言っていた気がする。アーノルドの用いた魔術と、赤毛は同じ魔術を用いているのだ。アーノルドの世界を創り出した魔術の心理構造が解れば、コウにかけられている術を解く方法も解るに違いないから――、彼は、そう言いたいのだと思う。

 彼は、サンドイッチののった皿の横にあった紙ナプキンを取り、黙って僕に差し出した。なぜ? と彼を見あげる。彼は困ったように唇を結んで、やっぱり何も言わずに僕の頬を拭いてくれた。


 僕は、泣いていたのか――。そんなことさえ、気づかなかった。








――――――――

出典 *ウィリアム・B・イェイツの詩集「オイシーンの放浪」から「さらわれた子ども」The Stolen Child(壺齋散人訳)
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