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第四章
取り替え子 5.
――アル、好きだよ。
コウ。
――本当に好きだよ。
僕を、まだ、好きでいてくれるんだね。
――心から愛してる。
嘘だ。これは夢だ。
――本当だよ。
目を開けたら、終ってしまう夢じゃないか。
――愛してるよ、アルビー。
コウ、ここにいて。
夢でいいから――。
コウのくれたキスの感触が、唇に残っていた。
眼前にあったコウの寝顔は髪の毛一本乱れた様子もなくて、僕はずいぶんほっとした。眠ったまま彼を襲ったんじゃないかと、本気で心配してしまった。
手にも、身体にも、コウの感触が残っている。こうして繰り返し、繰り返し、僕は僕のうえにきみを再生する。彼と変わらない。意志のないきみを、夢のなかで幾度となく好き勝手に犯し続けている。
僕の声がきみに届くなら、コウ、お願いだ、戻ってきてこの悪夢を止めてくれ。
「アル、いるかい?」
小さくノックの音がする。
「今、行く!」
大声で応え、息を吐いた。
コウのベッドにもたれて眠っていた。軽く頭痛がしている。きっと悲しすぎるからだ。のろのろと起きあがり、コウの髪にキスしてからそばを離れた。ショーンをこの部屋へ入れたくない。今は、彼にコウを見せたくなかった。僕の夢のなかで、コウがあまり可愛かったから。これは僕だけのコウだ。僕だけが見ていいコウだもの――。
「時々、自分がまだ正気を保てているのが奇跡のように思えるよ」と、歩きながら吐息交じりに呟いていた。たかだか夢にすぎないのに、逢えないよりも逢えた後の方がずっと辛いのだ。目が覚める度に、僕はコウの喪失に圧し潰される。
「空漠に重量があるなんて、考えてもみなかったんだ」
僕は僕自身に重さを感じたことなどなかったのに。輪郭から溶けでて溢れる僕は、スパークリングワインのような弾ける泡にすぎなくて。どれほど無数に泡立ったところで、どれもじきに消えてしまう。パチパチと小さな音を立てて。気の抜けたあとに残るのは、饐えた甘い臭いとべたべたした不快な触感だけ。そんなものは僕じゃない。僕は跡形もなく消えている。
「えらく抽象的な話だな。なんのことを言ってるのかさっぱり判らないよ」
ショーンは前を見据えたまま大真面目で応えている。もっともだ。これは僕の独り言にすぎないのだから。
白薔薇が黄金色に包まれ別の花のように表情を変えるこの時間帯に、僕たちはこの花の脇を通りすぎ、塀の裏門から森へ続く小径を歩いていた。ショーンが、妄想のアビーがコウを見つけたという森に入ってみたいと言ったからだ。彼と庭には出ない約束をしていたので、彼の夕食時を見計らって館を出てきた。どちらにせよ、夕闇迫る時間帯に、彼は彼の妻が戸外に出ることは許さないし、森への小径は彼の作業場とは逆方向だから問題はないだろう。
高い煉瓦塀に作られた木製の門扉の錠前を、スミスさんから借りてきた鍵で外す。重い樫の板扉には黒の凝った装飾の鉄製蝶番がついている。この館以上の年代ものみたいだ。もともとアンティークの蝶番を使っているのかもしれない。
ぎぃぃぃ、と軋んだ音を出す扉を開けた。
二階の窓から見渡せるこの森は鬱蒼とした緑だが、こうして見ると樹々の間隔は広く取られていて、充分に陽が射しこみ明るかった。
「へぇー! ずいぶん広いんだな。先が見通せないほどの森なんて、初めて来たよ! ここでなら迷子の妖精を見つけたとしても納得だな」
「そうだね。コウの日本の故郷は、こんな山の中なんだそうだよ。だからなのかな、彼のあの透明感は」
「透明感か――、確かに。いきなり目の前に現れてもあいつなら不思議じゃない」
西に傾いている陽射しは、おい繁る葉々の隙間から丸みのある金赤色の木漏れ日をチラチラと瞬かせながら、高い幹の影を地面の上に細長く伸ばしていた。さながら檻にはまる鉄柵のように――。
コウは閉じ込められたのだ、この檻のなかに。
なぜか、僕はそう思った。
「おい、アル、来てみろよ!」
ショーンの声が遠い。ぼんやりしてしまって、彼から遅れていたのだろうか。我に返ってその声を追いかけた。
林立する樹々が邪魔でショーンの姿が掴めない。
「ショーン!」
「アル、こっちだ!」
「判らないんだ!」
「アル!」
「アル!」
木霊のように、ショーンの声にコウの声が重なる。そんなはずがないのに――。
「コウ!」
声の方向に走っていた。黒々とした樹の幹と長い影が作る檻のなかを「コウ! コウ!」と叫びながら――。
ふっと樹々が途切れ、わずかばかりの空き地が現れた。
「アル!」
コウだ。僕に向かって両手を伸ばして――。
「コウ!」
「駄目だ、アル、むやみに踏みこむな!」
ショーンが僕の腕を掴んでいた。もう少しで、コウの手を取ることができていたのに。コウが消えてしまう。陽が落ちて、闇が影に被さり檻が閉ざされてしまう。コウが見えなくなってしまう。
「放せ、邪魔するな、ショーン!」
「落ち着けよ、アル」
ああ、コウが。
せっかく見つけることができたのに。
もう、どこにもいない――。
コウ。
――本当に好きだよ。
僕を、まだ、好きでいてくれるんだね。
――心から愛してる。
嘘だ。これは夢だ。
――本当だよ。
目を開けたら、終ってしまう夢じゃないか。
――愛してるよ、アルビー。
コウ、ここにいて。
夢でいいから――。
コウのくれたキスの感触が、唇に残っていた。
眼前にあったコウの寝顔は髪の毛一本乱れた様子もなくて、僕はずいぶんほっとした。眠ったまま彼を襲ったんじゃないかと、本気で心配してしまった。
手にも、身体にも、コウの感触が残っている。こうして繰り返し、繰り返し、僕は僕のうえにきみを再生する。彼と変わらない。意志のないきみを、夢のなかで幾度となく好き勝手に犯し続けている。
僕の声がきみに届くなら、コウ、お願いだ、戻ってきてこの悪夢を止めてくれ。
「アル、いるかい?」
小さくノックの音がする。
「今、行く!」
大声で応え、息を吐いた。
コウのベッドにもたれて眠っていた。軽く頭痛がしている。きっと悲しすぎるからだ。のろのろと起きあがり、コウの髪にキスしてからそばを離れた。ショーンをこの部屋へ入れたくない。今は、彼にコウを見せたくなかった。僕の夢のなかで、コウがあまり可愛かったから。これは僕だけのコウだ。僕だけが見ていいコウだもの――。
「時々、自分がまだ正気を保てているのが奇跡のように思えるよ」と、歩きながら吐息交じりに呟いていた。たかだか夢にすぎないのに、逢えないよりも逢えた後の方がずっと辛いのだ。目が覚める度に、僕はコウの喪失に圧し潰される。
「空漠に重量があるなんて、考えてもみなかったんだ」
僕は僕自身に重さを感じたことなどなかったのに。輪郭から溶けでて溢れる僕は、スパークリングワインのような弾ける泡にすぎなくて。どれほど無数に泡立ったところで、どれもじきに消えてしまう。パチパチと小さな音を立てて。気の抜けたあとに残るのは、饐えた甘い臭いとべたべたした不快な触感だけ。そんなものは僕じゃない。僕は跡形もなく消えている。
「えらく抽象的な話だな。なんのことを言ってるのかさっぱり判らないよ」
ショーンは前を見据えたまま大真面目で応えている。もっともだ。これは僕の独り言にすぎないのだから。
白薔薇が黄金色に包まれ別の花のように表情を変えるこの時間帯に、僕たちはこの花の脇を通りすぎ、塀の裏門から森へ続く小径を歩いていた。ショーンが、妄想のアビーがコウを見つけたという森に入ってみたいと言ったからだ。彼と庭には出ない約束をしていたので、彼の夕食時を見計らって館を出てきた。どちらにせよ、夕闇迫る時間帯に、彼は彼の妻が戸外に出ることは許さないし、森への小径は彼の作業場とは逆方向だから問題はないだろう。
高い煉瓦塀に作られた木製の門扉の錠前を、スミスさんから借りてきた鍵で外す。重い樫の板扉には黒の凝った装飾の鉄製蝶番がついている。この館以上の年代ものみたいだ。もともとアンティークの蝶番を使っているのかもしれない。
ぎぃぃぃ、と軋んだ音を出す扉を開けた。
二階の窓から見渡せるこの森は鬱蒼とした緑だが、こうして見ると樹々の間隔は広く取られていて、充分に陽が射しこみ明るかった。
「へぇー! ずいぶん広いんだな。先が見通せないほどの森なんて、初めて来たよ! ここでなら迷子の妖精を見つけたとしても納得だな」
「そうだね。コウの日本の故郷は、こんな山の中なんだそうだよ。だからなのかな、彼のあの透明感は」
「透明感か――、確かに。いきなり目の前に現れてもあいつなら不思議じゃない」
西に傾いている陽射しは、おい繁る葉々の隙間から丸みのある金赤色の木漏れ日をチラチラと瞬かせながら、高い幹の影を地面の上に細長く伸ばしていた。さながら檻にはまる鉄柵のように――。
コウは閉じ込められたのだ、この檻のなかに。
なぜか、僕はそう思った。
「おい、アル、来てみろよ!」
ショーンの声が遠い。ぼんやりしてしまって、彼から遅れていたのだろうか。我に返ってその声を追いかけた。
林立する樹々が邪魔でショーンの姿が掴めない。
「ショーン!」
「アル、こっちだ!」
「判らないんだ!」
「アル!」
「アル!」
木霊のように、ショーンの声にコウの声が重なる。そんなはずがないのに――。
「コウ!」
声の方向に走っていた。黒々とした樹の幹と長い影が作る檻のなかを「コウ! コウ!」と叫びながら――。
ふっと樹々が途切れ、わずかばかりの空き地が現れた。
「アル!」
コウだ。僕に向かって両手を伸ばして――。
「コウ!」
「駄目だ、アル、むやみに踏みこむな!」
ショーンが僕の腕を掴んでいた。もう少しで、コウの手を取ることができていたのに。コウが消えてしまう。陽が落ちて、闇が影に被さり檻が閉ざされてしまう。コウが見えなくなってしまう。
「放せ、邪魔するな、ショーン!」
「落ち着けよ、アル」
ああ、コウが。
せっかく見つけることができたのに。
もう、どこにもいない――。
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