141 / 219
第四章
彼岸 3
しおりを挟む
ショーンと分かれ、朝食の食器を載せたトレイを抱えて台所へ返しにいった。
「まぁまぁ、坊ちゃん、そんなこといいんですよ!」と、コンロの鍋を覗いていたスミス夫人が、大慌てで僕の手からもぎ取るようにトレイを受け取る。
「かまわないよ、これくらい。こうして毎日お世話になっているんだから」
「当たり前じゃないですか! あなたはこの家の坊ちゃんなんですから!」
夫人は叱るように軽く僕を睨んだ。それから微笑んでくれる。これまでそうであったように。そして、食器を流しに入れて水を張り、丁寧に洗い始める。金をふんだんに使った高価な食器だ。食洗機へ突っ込むわけにはいかないのだろう。ショーンの言っていたことが実感できる。この家のものは、とても丁寧に扱われているのだ。――僕以外。
――この家の坊ちゃんなんですから。
僕はどれだけこの言葉に励まされ、そして呪縛されてきただろう。ここへ来る度に僕は僕の不在を思い知らされ、そして結びつけられるのだ。息子という立場のもたらす責任に――。僕がどう思おうと、どう感じようと、ここが僕の家なのだ。存在しない僕の帰属する場所。ないよりマシなのか、あるいはない方がマシだったのか。僕にはずっと判らないまま。
彼女は僕に優しかった。いつだって僕を温かく歓迎してくれた。いつも僕にお菓子をくれた。けれど、あのビスケット以来、僕はここで口にしたものに味を感じたことはない。ロンドンにいるときは、正常な味覚を保てているのに。この家は、僕の感覚を麻痺させる。その事実に、僕は今日初めて気がついた。
「ショーン、僕の友人が、あなたのジャムをとても喜んでいたよ。ハロッズにもここまで美味しいものは売ってないって。でも、手作りするのって一仕事じゃないの? 母もこのジャムが好きだったんだってね」
「そう、そう、そうなんですよ! まぁ、嬉しいこと! 奥様もこのジャムが殊の外お好きですよ。秘伝のレシピはね、奥様が考えられたものなんですよ。ようやく坊ちゃんにも召しあがって頂けて、本当に嬉しいこと!」
アビー。秘伝のレシピ。同じ味。白薔薇――。
朗らかに笑うスミス夫人。今日も緑色だ。彼らは特にこの色が好きなのだろうか。この魔術的な色合いが――。
「ああ、僕は今までこの家で何か食べることは、あまりなかったから――」
そうだ。わけのわからない空間で、わけのわからないものを口にしてはいけない。何が起こるかわからないのだから。
カシャン、と、アーノルドが、人形を叩きつける――。
僕が、砕け散る。
繰り返し。繰り返し。
「彼らがあなたによろしくって」
「どなた?」
「マークスとスペンサー」
「はい! はい! 知っておりますとも! あの子たちも坊ちゃんにお逢いできてそれはもう、喜んでおりましたもの!」
「あなた方もドレイクに雇われているの?」
「ドレイクってどなた?」
何をしらばっくれて――。一瞬かっとなりかけていた。だが、夫人の善良そうな瞳はきょとんと僕を見ている。本当に知らないのかもしれない。この名前は――。だいたい、フランシス・ドレイクのわけがないだろう。どこの親がこんな名前を子どもにつけるんだ。あの場で適当につけた偽名、そう考えるべきだったのだ。
「赤毛の彼だよ。火を操る」
ほら、今度は彼女の顔色が変わった。
輪郭が揺らぐ。また眩暈がする。
「いいえ。いいえ。そんな方、ご存じ上げませんとも! 私ども、ご主人さまに忠実にお仕えしておりますとも! 本当ですとも!」
「その言葉に嘘はない? 四大精霊の名にかけて?」
「地の精霊さまの名にかけて!」
地の精霊――。魔術というよりも、信仰か何かに近いのだろうか? 派閥があるとか。もっと詳しくショーンに訊いておけばよかった。
思わず視線を伏せてそっと辺りを見回した。疑念を証明できたのはいいが、ここからどう話を持っていくべきかと思案していたのだ。彼女があのフロックコートの兄弟と知り合いだからといって、一足飛びに赤毛の仲間ということにはならない。警戒をするに越したことはないにしても――、どうすれば……。
「証拠を見せて。忠実に仕えているというのなら、息子である僕の言いつけを守ってくれるよね」
「はい! はい! もちろんですとも!」
「父のノートを返して欲しい。書斎から持ちだしたのはあなたなんだろ?」
夫人の顔がますます蒼褪めて、どこかあの双子たちに似てきた。知り合いというよりも、親戚かなにかなのだろうか? ごく普通に英語を操る彼女にも、わずかに彼らと同じ訛りがある。同郷でもあるのだろうか。
「いいえ、いいえ、あのノートは――、私ども、ご存知あげませんとも……」
「地の精霊の名にかけて?」
夫人の輪郭が揺れている。気分が悪い。振動する空気に酔っているようで、平衡感覚が保てない。
地の精霊、この名を口にする度に、地面が揺れる。覚束なくなる。禁忌に触れるような緊張が走る――。
「ノートを――。お願いだ、」
コウを――。
僕の大地に――。
意識の渦に取り込まれ、僕は何も判らぬままその場にくずおれていた。
「まぁまぁ、坊ちゃん、そんなこといいんですよ!」と、コンロの鍋を覗いていたスミス夫人が、大慌てで僕の手からもぎ取るようにトレイを受け取る。
「かまわないよ、これくらい。こうして毎日お世話になっているんだから」
「当たり前じゃないですか! あなたはこの家の坊ちゃんなんですから!」
夫人は叱るように軽く僕を睨んだ。それから微笑んでくれる。これまでそうであったように。そして、食器を流しに入れて水を張り、丁寧に洗い始める。金をふんだんに使った高価な食器だ。食洗機へ突っ込むわけにはいかないのだろう。ショーンの言っていたことが実感できる。この家のものは、とても丁寧に扱われているのだ。――僕以外。
――この家の坊ちゃんなんですから。
僕はどれだけこの言葉に励まされ、そして呪縛されてきただろう。ここへ来る度に僕は僕の不在を思い知らされ、そして結びつけられるのだ。息子という立場のもたらす責任に――。僕がどう思おうと、どう感じようと、ここが僕の家なのだ。存在しない僕の帰属する場所。ないよりマシなのか、あるいはない方がマシだったのか。僕にはずっと判らないまま。
彼女は僕に優しかった。いつだって僕を温かく歓迎してくれた。いつも僕にお菓子をくれた。けれど、あのビスケット以来、僕はここで口にしたものに味を感じたことはない。ロンドンにいるときは、正常な味覚を保てているのに。この家は、僕の感覚を麻痺させる。その事実に、僕は今日初めて気がついた。
「ショーン、僕の友人が、あなたのジャムをとても喜んでいたよ。ハロッズにもここまで美味しいものは売ってないって。でも、手作りするのって一仕事じゃないの? 母もこのジャムが好きだったんだってね」
「そう、そう、そうなんですよ! まぁ、嬉しいこと! 奥様もこのジャムが殊の外お好きですよ。秘伝のレシピはね、奥様が考えられたものなんですよ。ようやく坊ちゃんにも召しあがって頂けて、本当に嬉しいこと!」
アビー。秘伝のレシピ。同じ味。白薔薇――。
朗らかに笑うスミス夫人。今日も緑色だ。彼らは特にこの色が好きなのだろうか。この魔術的な色合いが――。
「ああ、僕は今までこの家で何か食べることは、あまりなかったから――」
そうだ。わけのわからない空間で、わけのわからないものを口にしてはいけない。何が起こるかわからないのだから。
カシャン、と、アーノルドが、人形を叩きつける――。
僕が、砕け散る。
繰り返し。繰り返し。
「彼らがあなたによろしくって」
「どなた?」
「マークスとスペンサー」
「はい! はい! 知っておりますとも! あの子たちも坊ちゃんにお逢いできてそれはもう、喜んでおりましたもの!」
「あなた方もドレイクに雇われているの?」
「ドレイクってどなた?」
何をしらばっくれて――。一瞬かっとなりかけていた。だが、夫人の善良そうな瞳はきょとんと僕を見ている。本当に知らないのかもしれない。この名前は――。だいたい、フランシス・ドレイクのわけがないだろう。どこの親がこんな名前を子どもにつけるんだ。あの場で適当につけた偽名、そう考えるべきだったのだ。
「赤毛の彼だよ。火を操る」
ほら、今度は彼女の顔色が変わった。
輪郭が揺らぐ。また眩暈がする。
「いいえ。いいえ。そんな方、ご存じ上げませんとも! 私ども、ご主人さまに忠実にお仕えしておりますとも! 本当ですとも!」
「その言葉に嘘はない? 四大精霊の名にかけて?」
「地の精霊さまの名にかけて!」
地の精霊――。魔術というよりも、信仰か何かに近いのだろうか? 派閥があるとか。もっと詳しくショーンに訊いておけばよかった。
思わず視線を伏せてそっと辺りを見回した。疑念を証明できたのはいいが、ここからどう話を持っていくべきかと思案していたのだ。彼女があのフロックコートの兄弟と知り合いだからといって、一足飛びに赤毛の仲間ということにはならない。警戒をするに越したことはないにしても――、どうすれば……。
「証拠を見せて。忠実に仕えているというのなら、息子である僕の言いつけを守ってくれるよね」
「はい! はい! もちろんですとも!」
「父のノートを返して欲しい。書斎から持ちだしたのはあなたなんだろ?」
夫人の顔がますます蒼褪めて、どこかあの双子たちに似てきた。知り合いというよりも、親戚かなにかなのだろうか? ごく普通に英語を操る彼女にも、わずかに彼らと同じ訛りがある。同郷でもあるのだろうか。
「いいえ、いいえ、あのノートは――、私ども、ご存知あげませんとも……」
「地の精霊の名にかけて?」
夫人の輪郭が揺れている。気分が悪い。振動する空気に酔っているようで、平衡感覚が保てない。
地の精霊、この名を口にする度に、地面が揺れる。覚束なくなる。禁忌に触れるような緊張が走る――。
「ノートを――。お願いだ、」
コウを――。
僕の大地に――。
意識の渦に取り込まれ、僕は何も判らぬままその場にくずおれていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
15
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる