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第四章
彼岸 7
スミス夫人には昼食ではなくお茶を頼んだ。彼女は僕の体調をそれは心配しておろおろしている。そしてやたらに、しっかり食べるようにと言うのだが、それは無理というものだ。コウの不在のもたらす空虚さは、僕のなかでぱんぱんに膨れ上がって胃を圧迫し、心臓に負担をかけ、心肺機能を低下させているとしか思えない。我慢できないほど苦しいのだ。考えなきゃいけないこともたくさんあるのに、頭もうまく働かない。
自分が言いだしたくせに、ショーンはこの軽い食事にはつきあってくれなかった。薄情にも、「また後でな」と僕を書斎から追いだした。
サンルームで、夫人にあれこれと世話をやかれながら、僕は一人でお茶を飲んでいるのだ。彼女は朝の台所での会話などすっかり忘れてしまったかのように平然としている。穏やかに、おおらかに。そのことを僕は喜ぶべきなのだろうか。このまま、僕の失態をなかったことにするべきなのだろうか――。
まさか、そんなわけにいくものか!
頭ではそう考えているのに、身体は気怠く動かない。思考と感情と身体が完全に分裂してしまっている。
「坊ちゃん、」
「ん――」
僕を気遣い彼女が用意してくれたクッションを二つも三つも重ねられた大ぶりな籐椅子に、僕はだらしなくもたれて眠りかけていた。神経が昂って眠いとも思わないのに、頭が重くて支えていられない。それに、どこかで期待していたのかもしれない。眠りのなかに、コウがいるかもしれない、と。
「坊ちゃん、――――」
夫人が何か言っている。どこかで聞いたことのあるような、僕には判らない言葉で。まるで呪文だ。ひどく懐かしい――。
コウ――、きみも同じ言葉を使っていた気がするよ。あれは、いつのことだったろう――。
梟の声が、低くしめやかに虚空を揺らす――。
ぼうと仄かな灯りが見える。見あげた空には絵に描いたような星が瞬く。ああ、あれはアンナと一緒に僕が蛍光塗料で描いた星だ。高い脚立のうえで顎を逸らし、腕を伸ばして。後からひどい筋肉痛になったっけ。
それから壁いっぱいに腕を伸ばす大きな樹。外から入る光を爆ぜて、きらきら泳ぐ魚たち。新しく移ったばかりのこの部屋を、アンナは僕の好きなようにさせてくれたのだ。
幼かった僕の部屋だ。彼に壊される以前の、美しかった僕の世界――。悲しくなるほど懐かしい。今も変わらず僕の部屋のはずなのに、ここはあの日から、僕にとっての異界になった。
中学校のころから、アンナの目を盗んで誰彼かまわず連れ込んで遊んでいた。マリーが隣の部屋にいるときは特に。大学に入ってからこの家を出て、週末に戻ってきているときでさえ。彼らが香港に赴任してからは、もうマリーのことさえどうでもよくて――。
僕のこの部屋はまるで底深い井戸のように、森の奥の洞窟のように、迷いこんでくる誰かを呑みこんだ。光の届かない闇のなかで、膨張と収縮を繰り返す内臓が僕を喰い尽くす。そして僕自ら内臓と化して獲物を喰らう。疲れ果てるまで繰り返す。終わりのない享楽で満たされた何も産むことも産まれることもない永遠の子宮。観客のいない劇場で繰り返し投影される映画のように、繰り返される一瞬の永遠――。
バニーに連れ出されるまで僕の住んでいた部屋は、そんな空間だった。
この蜂蜜色の光を孕む梟は、ずっとそんな僕を見ていたのか――。
小首を傾げてホウ、ホウと鳴く。豊かな葉を重ねる梢がその声に呼応するようにざわざわと揺れる。しっとりと露を含んだ下生えにそびえる荒い筆跡の残る大樹の陰に、シーツの皺のような道が見える。その道は森の奥へと続いている。梟の照らす夜の森。ハムステッドヒースの樹々の狭間。隠微な笑い声。樹々の陰には――。影でできた、檻。
ここに、コウがいるような気がした。その願いが足を運ばせる。奥へ、奥へと。
白い環が回っている。螺旋に旋回する。その中心にコウがいる。僕に気づいた。首を横に振って。そんな悲しそうな顔をして――。
僕に手を伸ばして何か言っているのに、届かない。きみの声が聴こえない。
「コウ!」
自分の声で飛び起きていた。
あ――。約束したのに。辛いときは、僕を呼んで、と。
きみはまた、あの夢のように辛い想いをしているの? 幸せな微睡みのなかにいるのではなく、拳を握りしめてたった一人で震えているの?
僕を呼んで。
コウ、僕はいつだってきみのもとへ駆けつけるから――。
ひどく重い額を抑え、テーブルのカップに手を伸ばした。ティースタンドに置かれたサンドイッチ、スコーン、ミニケーキ。その横の皿に食べかけのスコーンがあった。クロテッドクリーム、そして、白薔薇のジャムをたっぷりとのせた――。
僕はこれを食べたのだろうか? 記憶にも残らない間に――。
自分が言いだしたくせに、ショーンはこの軽い食事にはつきあってくれなかった。薄情にも、「また後でな」と僕を書斎から追いだした。
サンルームで、夫人にあれこれと世話をやかれながら、僕は一人でお茶を飲んでいるのだ。彼女は朝の台所での会話などすっかり忘れてしまったかのように平然としている。穏やかに、おおらかに。そのことを僕は喜ぶべきなのだろうか。このまま、僕の失態をなかったことにするべきなのだろうか――。
まさか、そんなわけにいくものか!
頭ではそう考えているのに、身体は気怠く動かない。思考と感情と身体が完全に分裂してしまっている。
「坊ちゃん、」
「ん――」
僕を気遣い彼女が用意してくれたクッションを二つも三つも重ねられた大ぶりな籐椅子に、僕はだらしなくもたれて眠りかけていた。神経が昂って眠いとも思わないのに、頭が重くて支えていられない。それに、どこかで期待していたのかもしれない。眠りのなかに、コウがいるかもしれない、と。
「坊ちゃん、――――」
夫人が何か言っている。どこかで聞いたことのあるような、僕には判らない言葉で。まるで呪文だ。ひどく懐かしい――。
コウ――、きみも同じ言葉を使っていた気がするよ。あれは、いつのことだったろう――。
梟の声が、低くしめやかに虚空を揺らす――。
ぼうと仄かな灯りが見える。見あげた空には絵に描いたような星が瞬く。ああ、あれはアンナと一緒に僕が蛍光塗料で描いた星だ。高い脚立のうえで顎を逸らし、腕を伸ばして。後からひどい筋肉痛になったっけ。
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僕のこの部屋はまるで底深い井戸のように、森の奥の洞窟のように、迷いこんでくる誰かを呑みこんだ。光の届かない闇のなかで、膨張と収縮を繰り返す内臓が僕を喰い尽くす。そして僕自ら内臓と化して獲物を喰らう。疲れ果てるまで繰り返す。終わりのない享楽で満たされた何も産むことも産まれることもない永遠の子宮。観客のいない劇場で繰り返し投影される映画のように、繰り返される一瞬の永遠――。
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ここに、コウがいるような気がした。その願いが足を運ばせる。奥へ、奥へと。
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僕に手を伸ばして何か言っているのに、届かない。きみの声が聴こえない。
「コウ!」
自分の声で飛び起きていた。
あ――。約束したのに。辛いときは、僕を呼んで、と。
きみはまた、あの夢のように辛い想いをしているの? 幸せな微睡みのなかにいるのではなく、拳を握りしめてたった一人で震えているの?
僕を呼んで。
コウ、僕はいつだってきみのもとへ駆けつけるから――。
ひどく重い額を抑え、テーブルのカップに手を伸ばした。ティースタンドに置かれたサンドイッチ、スコーン、ミニケーキ。その横の皿に食べかけのスコーンがあった。クロテッドクリーム、そして、白薔薇のジャムをたっぷりとのせた――。
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