149 / 219
第四章
ノート 3.
コウの部屋に置いたままだった蜂蜜酒を持ちあげて、違和感に小首を傾げてしまった。なんだか中身が減っているような気がするのだ。ショーンの来たその日に、点滴を終えたコウに一口あげただけなのに。半分とはいわないが目に見えて減っている気がする。
きみがこっそり起きあがって飲んでいたのなら、嬉しいのに。
眠り続けるコウに、一口だけ口移しで含ませてみたのだ。どうせ無駄だろう、と期待しないように自分自身に言い聞かせながら。
「これ、スミスさんにあげてもいい? いるなら、置いておくけど、」
答えてくれないの――?
「きみが目を覚ましたときのために、もう一本注文しておくから、ね?」
コウの乾いた唇が痛々しくて、唇を近づけそっと触れた。舐めて含んで、堪らなくて、唇を吸い繰り返し食んだ。片手で頭を反らせて持ちあげ指で口をこじ開ける。舌を侵入させ彼の舌に絡める。
応えてくれないの、コウ――。
蜂蜜酒の瓶を掴んで、逃げるように部屋を後にした。
スミスさんに瓶を渡し、お引き取り願った。もう彼の話につき合ってあげられる気分ではなかったのだ。
もうなんだっていい。コウが目を開けてくれるなら。僕を見て、僕の名前を呼んでくれるのなら。根拠なんてなくていい。1%の可能性があるのならなんだってする。
部屋に鍵をかけ、棚という棚を開けてアーノルドのノートを探した。彼の口から正確な場所を聞きだすよりも、きっと、その方が早い。
――旦那様はあのノートを見つけることはできませんとも! 旦那様は絶対に、ここにはお入りになることはありません!
彼は確かにそう言ったのだ。彼はここには来ないから見つけることはない、と。つまりノートはこの部屋にあるのだ。
マホガニーのキャビネットの引き出しをさらい、小ぶりな本棚の本は全部引き抜いて中身を確認する。壁にかかった額絵の裏も。ノートは深緑色の革張りで金で蔓草の箔押しが施されている。日記帳と同じ装丁のはず。
色褪せた深緑のブロケード張りの壁。閉じられたカーテンから差しこむ夏の陽射し。艶やかに光る黒い棺。喪服の弔問客。泣き叫ぶ赤ん坊。白薔薇に囲まれて横たわる、貴女――。
アビー、――母さん、どうかもう僕のコウを返してくれ。コウの魂を僕に返して。お願いだ。少しでも、僕を愛しむ心があるのなら――。
その場に立ちつくしたまま、動けなくなった。ゼンマイが止まってしまった。僕の動力はコウなのだ。コウがいないと何もできなくなる。何もかもがどうでもいい。もう嫌だ。我慢できない。こんなにも永遠に似た悪夢のなかで、どうやって生きろというのだ――。
ぼろぼろと溢れてくる涙に視界が溺れている。部屋全体が濡れて漂う。黒大理石の暖炉も――。
――妻が暖炉の焔は苦手なんだよ。
冬でも火が入ることはない暖炉――。
暖炉フェンスを跳ねのけ、夢中で火掻き棒で灰の中をかき回した。何かが引っ掛かった。固い何か――。
白い灰を払いのけ、咳きこみながら両手でさぐった。
ノートだ。灰で仄白くなっている。
見つけた――。
身体の芯から、枯渇していたエネルギーが戻ってくる。
コウが、アビーが、僕を導いてくれたような気がして――。
深く息をついて、しばらくその場にへたりこんでしまっていた。だが徐々に気持ちが落ち着いてくると、今度はこの部屋の惨状をどう説明しようか、と思わず笑ってしまったよ。
床の上に放りだしたままの本、ひっくり返された引き出し、そこら中に散乱している置物。極めつけは、灰だらけの絨毯か――。
あまりのストレスで、転換性障害の発作がでたとでも言えばいいだろうか。あまりにも現実的じゃないな、症状として部屋を荒らしたなんて言い訳は。
自分で片づける方がずっと現実的、ということか――。
深いため息。
とにかくまずは手を洗って、掃除道具を借りてこよう。スミス夫人への言い訳は――。訊かれたら正直に答えればいい。
ようやく見つけたノートはパラパラとページを繰るだけで灰が舞うような代物だ。引き出しをひっくり返した中からハンカチを見つけ、軽く叩いて灰を落とし、また別の一枚で包んでおく。
それから、これだけを手にしてこの部屋を離れた。まず何よりも先に、ショーンに見せたかった。
彼はもう儀式の準備に取りかかっているのだ。儀式の様式の判らない部分は、他の魔導書から仕入れた知識で補うらしい。コウの暗示を解く、というのが第一の目的にせよ、成立した契約を白紙に戻すための儀式であれば、アーノルドの用いた様式に沿ったものでなくても問題ないだろう、というのが彼の見解なのだ。
ショーンには申し訳ないが、僕は不安だった。僕に専門知識がない以上、彼を信じるしかないのではあるが、できることならリスクは最小限に抑えたい。
コウを取り戻す――、それが第一ではあっても、やはり僕は、アーノルドの築いた内的世界を壊すことことになりかねない儀式の孕む危険性を、恐れていたのだ。
きみがこっそり起きあがって飲んでいたのなら、嬉しいのに。
眠り続けるコウに、一口だけ口移しで含ませてみたのだ。どうせ無駄だろう、と期待しないように自分自身に言い聞かせながら。
「これ、スミスさんにあげてもいい? いるなら、置いておくけど、」
答えてくれないの――?
「きみが目を覚ましたときのために、もう一本注文しておくから、ね?」
コウの乾いた唇が痛々しくて、唇を近づけそっと触れた。舐めて含んで、堪らなくて、唇を吸い繰り返し食んだ。片手で頭を反らせて持ちあげ指で口をこじ開ける。舌を侵入させ彼の舌に絡める。
応えてくれないの、コウ――。
蜂蜜酒の瓶を掴んで、逃げるように部屋を後にした。
スミスさんに瓶を渡し、お引き取り願った。もう彼の話につき合ってあげられる気分ではなかったのだ。
もうなんだっていい。コウが目を開けてくれるなら。僕を見て、僕の名前を呼んでくれるのなら。根拠なんてなくていい。1%の可能性があるのならなんだってする。
部屋に鍵をかけ、棚という棚を開けてアーノルドのノートを探した。彼の口から正確な場所を聞きだすよりも、きっと、その方が早い。
――旦那様はあのノートを見つけることはできませんとも! 旦那様は絶対に、ここにはお入りになることはありません!
彼は確かにそう言ったのだ。彼はここには来ないから見つけることはない、と。つまりノートはこの部屋にあるのだ。
マホガニーのキャビネットの引き出しをさらい、小ぶりな本棚の本は全部引き抜いて中身を確認する。壁にかかった額絵の裏も。ノートは深緑色の革張りで金で蔓草の箔押しが施されている。日記帳と同じ装丁のはず。
色褪せた深緑のブロケード張りの壁。閉じられたカーテンから差しこむ夏の陽射し。艶やかに光る黒い棺。喪服の弔問客。泣き叫ぶ赤ん坊。白薔薇に囲まれて横たわる、貴女――。
アビー、――母さん、どうかもう僕のコウを返してくれ。コウの魂を僕に返して。お願いだ。少しでも、僕を愛しむ心があるのなら――。
その場に立ちつくしたまま、動けなくなった。ゼンマイが止まってしまった。僕の動力はコウなのだ。コウがいないと何もできなくなる。何もかもがどうでもいい。もう嫌だ。我慢できない。こんなにも永遠に似た悪夢のなかで、どうやって生きろというのだ――。
ぼろぼろと溢れてくる涙に視界が溺れている。部屋全体が濡れて漂う。黒大理石の暖炉も――。
――妻が暖炉の焔は苦手なんだよ。
冬でも火が入ることはない暖炉――。
暖炉フェンスを跳ねのけ、夢中で火掻き棒で灰の中をかき回した。何かが引っ掛かった。固い何か――。
白い灰を払いのけ、咳きこみながら両手でさぐった。
ノートだ。灰で仄白くなっている。
見つけた――。
身体の芯から、枯渇していたエネルギーが戻ってくる。
コウが、アビーが、僕を導いてくれたような気がして――。
深く息をついて、しばらくその場にへたりこんでしまっていた。だが徐々に気持ちが落ち着いてくると、今度はこの部屋の惨状をどう説明しようか、と思わず笑ってしまったよ。
床の上に放りだしたままの本、ひっくり返された引き出し、そこら中に散乱している置物。極めつけは、灰だらけの絨毯か――。
あまりのストレスで、転換性障害の発作がでたとでも言えばいいだろうか。あまりにも現実的じゃないな、症状として部屋を荒らしたなんて言い訳は。
自分で片づける方がずっと現実的、ということか――。
深いため息。
とにかくまずは手を洗って、掃除道具を借りてこよう。スミス夫人への言い訳は――。訊かれたら正直に答えればいい。
ようやく見つけたノートはパラパラとページを繰るだけで灰が舞うような代物だ。引き出しをひっくり返した中からハンカチを見つけ、軽く叩いて灰を落とし、また別の一枚で包んでおく。
それから、これだけを手にしてこの部屋を離れた。まず何よりも先に、ショーンに見せたかった。
彼はもう儀式の準備に取りかかっているのだ。儀式の様式の判らない部分は、他の魔導書から仕入れた知識で補うらしい。コウの暗示を解く、というのが第一の目的にせよ、成立した契約を白紙に戻すための儀式であれば、アーノルドの用いた様式に沿ったものでなくても問題ないだろう、というのが彼の見解なのだ。
ショーンには申し訳ないが、僕は不安だった。僕に専門知識がない以上、彼を信じるしかないのではあるが、できることならリスクは最小限に抑えたい。
コウを取り戻す――、それが第一ではあっても、やはり僕は、アーノルドの築いた内的世界を壊すことことになりかねない儀式の孕む危険性を、恐れていたのだ。
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。
初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。
「今すぐ部屋から出ろ!」
独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。
翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。
「俺以外に触らせるな」
そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。
弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。
本当にこのままでもいいのか。
ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。
その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。
どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
さよなら、永遠の友達
万里
BL
高校時代、バスケットボール部のキャプテン・基樹と、副部長として彼を支える冷静な舜一。対照的な二人は親友であり、マネージャーの結子を含めた三人は分かちがたい絆で結ばれていた。しかし舜一は、基樹への決して報われない恋心を隠し続けていた。
卒業を控え、基樹との「ずっと一緒にバスケをする」という約束を破り、舜一は逃げるように東京の大学へ進学する。基樹を突き放したのは、彼が結子と結ばれる幸せを近くで見届ける自信がなかったからだ。
10年後。孤独に生きる舜一のもとに、基樹から「結子が事故で亡くなった」という絶望の電話が入る。ボロボロになった親友の悲痛な叫びを聞いた瞬間、舜一の中にあった想いが目を覚ます。仕事もキャリアも投げ出し、舜一は深夜の高速をひた走る。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。