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第四章
ノート 4.
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最初に書斎へ寄って、ショーンにノートを託した。それから浴室へ。僕の惨状は手を洗えば済むという程度のものではなかったようで、ショーンに「灰被姫は綺麗に変身しないと、王子に気づいてもらえないぞ」と真顔で言われた。
シャワーを浴びて、自室に戻って着替えて、コウに報告に行って――。辛くなるから、もうキスはしない。
「少しづつでも、きみに近づけているといいけど」
今はまだ、返事を貰えなくてもいいんだ。もしそうでないなら、きみを想う僕の声が届いているといいな、と思う。眠っていても無意識の器官は起きて働いている。きみを生かしてくれている。だから僕はきみを諦めないよ。きみの夢のなかで、この想いがきみの支えになれればいいな、と思う。
「コウ、夢のなかでも僕を呼んで。きみを見つけられるように。きみにたどり着けるように」
コウの頬に手を当てる。しっとりと柔らかい肌。生きているのだ。コウはちゃんと生きていてくれているのだ。僕の身勝手な我がままで、心の奥底に閉じこめられているだけで、アビーのように棺のなかにいるわけじゃない。
今はただ眠っているだけの、僕の白雪姫。
ショーンの待つ書斎へと戻ると、灰だらけのノートと格闘していると思っていた彼は、我が物顔でアーノルドの机について持参していたノートパソコンを睨んでいた。僕が入室するなり、彼は気が抜けたように苦笑する。
「参ったよ。ゲール語なんだ」
「それで一から語学学習してるところなの?」
「まぁ、近いかな。翻訳アプリにかけてるんだ」
ゲール語の翻訳アプリがあることにまず驚いた。それも魔術関連の専門用語を理解可能なレベルにまで訳してくれるほどに、その自動翻訳機能は優秀なのだろうか?
ショーンのさっきの反応は、そんな僕の疑問を見越したうえでの苦笑なのだろう。早々冗談を言っているほどの余裕もないようで、彼の視線はすでに画面上に戻っている。
彼の邪魔にならないようにソファーに腰をおろし、そこに置かれていたアーノルドのノートを手に取った。もう灰はきれいに払い落とされている。床に羽箒が置きっ放しだ。ああ、僕も居間の掃除に行かなければ――。とはいえ、今はそんな気力もないのだが。
ノートのページを一枚一枚丁寧に繰った。書かれているページはそう多くない。彼らしい几帳面な手描きの図面が大半を占めている。その横に書き加えてある文章が、ショーンが今、格闘しているものだろうか。
ノートに描かれているのは魔法陣だけではなく、不思議な絵もたくさんあった。一つの身体に二つの頭をもつ羽の生えた人、これは人なのだろうか? それとも天使か悪魔か、また別のなにかなのか――。そして、人の顔をした花の咲く樹。この蛇はその樹を呑みこもうとしているのか、それとも吐きだしているのか――。そして、その蛇を呑みこむ赤いマグマ。これだけが鮮やかに彩色されている。まるで連鎖する悪夢のようだな。
気分の悪くなるような絵ばかりだ。こんなものを見ていると、アビーを喪ったことがアーノルドの病因ではなく、彼にはもともと素因があったのではないかと疑ってしまう。
そしてこれが、夢のなかでコウの立っていた地面でもあるのではないか。その地層といえるもの――。読み解く知識を持たない者には、「気持ち悪いもの」でしかなく、その秘密を知る者には、何ものにも替え難い価値あるもの。コウの本当に行きたい場所であり、絶対に囚われたくない場所でもある。
コウにとっての魔術的な世界は、僕が今まで想像していた御伽噺の世界のようなロマンチックなものではないのかもしれない。
似ていると思っていたアーノルドとコウの違い、それはこの世界に対する恐怖の在る無しなのではないだろうか。この世界の力に依存し、己のためにアビーの魂を閉じこめることを願った彼と、その力がそこに在ることを、惹かれながらも恐れているコウは、違う。決定的に違う。
ならば、コウにとっての魔術的な世界とはどんな世界だ? コウの心を捉えて閉じ込めたのは、どんな世界の、どんな言葉だったのだろう。赤毛はどうやってコウに暗示をかけ、信じ込ませたのだ?
と、思索に耽っている最中に、はぁー、とショーンがここまで届きそうな大きなため息をついた。
「疲れた?」
「んー、きみのパソコンに入っていた魔法陣の図面は、このノートのコピーで間違いなかったんだけどさ。これなぁ、なんだかよく判らないんだよ。とりあえず、その前後に書かれている文章を読んではいるんだけどなぁ。――あー、もっと最後の方だよ」
そういえば、肝心の図面をまだ見ていなかった。ショーンの愚痴ともつかない言い分に気づかされ、僕はパラパラとページを繰る。
ああ、確かに。見覚えのある図面が並んで描かれている。けれど月と太陽の位置、それに見たこともない文字群すべてが左右対称だ。
小首を傾げてショーンを見遣ると、彼の方も意見を求めているのか僕を見ていた。
「根拠もなにもないんだけどね。ぱっと見た限りでは、これってもしかして入り口と出口なのかな、て思った」
「あー!」
ショーンが頓狂な声をあげた。アビーの人形に描かれていたのは左の図面。赤毛の家の天井は右のもの。図は左右対称になっているのに、一方は天井にあって、僕はそれを見上げていたから特に違和感を持たなかったのかもしれない。だがこうして並べて描かれていると、それが鏡写しだということが妙に気にかかったのだ。
「そっちの方は忘れてたよ。それは異界の扉の魔法陣だろ! ほら、やっぱり両方とも魔導書に載ってたってことだな。でもな、今、俺が話してるのは精霊召喚の図のことだよ!」
シャワーを浴びて、自室に戻って着替えて、コウに報告に行って――。辛くなるから、もうキスはしない。
「少しづつでも、きみに近づけているといいけど」
今はまだ、返事を貰えなくてもいいんだ。もしそうでないなら、きみを想う僕の声が届いているといいな、と思う。眠っていても無意識の器官は起きて働いている。きみを生かしてくれている。だから僕はきみを諦めないよ。きみの夢のなかで、この想いがきみの支えになれればいいな、と思う。
「コウ、夢のなかでも僕を呼んで。きみを見つけられるように。きみにたどり着けるように」
コウの頬に手を当てる。しっとりと柔らかい肌。生きているのだ。コウはちゃんと生きていてくれているのだ。僕の身勝手な我がままで、心の奥底に閉じこめられているだけで、アビーのように棺のなかにいるわけじゃない。
今はただ眠っているだけの、僕の白雪姫。
ショーンの待つ書斎へと戻ると、灰だらけのノートと格闘していると思っていた彼は、我が物顔でアーノルドの机について持参していたノートパソコンを睨んでいた。僕が入室するなり、彼は気が抜けたように苦笑する。
「参ったよ。ゲール語なんだ」
「それで一から語学学習してるところなの?」
「まぁ、近いかな。翻訳アプリにかけてるんだ」
ゲール語の翻訳アプリがあることにまず驚いた。それも魔術関連の専門用語を理解可能なレベルにまで訳してくれるほどに、その自動翻訳機能は優秀なのだろうか?
ショーンのさっきの反応は、そんな僕の疑問を見越したうえでの苦笑なのだろう。早々冗談を言っているほどの余裕もないようで、彼の視線はすでに画面上に戻っている。
彼の邪魔にならないようにソファーに腰をおろし、そこに置かれていたアーノルドのノートを手に取った。もう灰はきれいに払い落とされている。床に羽箒が置きっ放しだ。ああ、僕も居間の掃除に行かなければ――。とはいえ、今はそんな気力もないのだが。
ノートのページを一枚一枚丁寧に繰った。書かれているページはそう多くない。彼らしい几帳面な手描きの図面が大半を占めている。その横に書き加えてある文章が、ショーンが今、格闘しているものだろうか。
ノートに描かれているのは魔法陣だけではなく、不思議な絵もたくさんあった。一つの身体に二つの頭をもつ羽の生えた人、これは人なのだろうか? それとも天使か悪魔か、また別のなにかなのか――。そして、人の顔をした花の咲く樹。この蛇はその樹を呑みこもうとしているのか、それとも吐きだしているのか――。そして、その蛇を呑みこむ赤いマグマ。これだけが鮮やかに彩色されている。まるで連鎖する悪夢のようだな。
気分の悪くなるような絵ばかりだ。こんなものを見ていると、アビーを喪ったことがアーノルドの病因ではなく、彼にはもともと素因があったのではないかと疑ってしまう。
そしてこれが、夢のなかでコウの立っていた地面でもあるのではないか。その地層といえるもの――。読み解く知識を持たない者には、「気持ち悪いもの」でしかなく、その秘密を知る者には、何ものにも替え難い価値あるもの。コウの本当に行きたい場所であり、絶対に囚われたくない場所でもある。
コウにとっての魔術的な世界は、僕が今まで想像していた御伽噺の世界のようなロマンチックなものではないのかもしれない。
似ていると思っていたアーノルドとコウの違い、それはこの世界に対する恐怖の在る無しなのではないだろうか。この世界の力に依存し、己のためにアビーの魂を閉じこめることを願った彼と、その力がそこに在ることを、惹かれながらも恐れているコウは、違う。決定的に違う。
ならば、コウにとっての魔術的な世界とはどんな世界だ? コウの心を捉えて閉じ込めたのは、どんな世界の、どんな言葉だったのだろう。赤毛はどうやってコウに暗示をかけ、信じ込ませたのだ?
と、思索に耽っている最中に、はぁー、とショーンがここまで届きそうな大きなため息をついた。
「疲れた?」
「んー、きみのパソコンに入っていた魔法陣の図面は、このノートのコピーで間違いなかったんだけどさ。これなぁ、なんだかよく判らないんだよ。とりあえず、その前後に書かれている文章を読んではいるんだけどなぁ。――あー、もっと最後の方だよ」
そういえば、肝心の図面をまだ見ていなかった。ショーンの愚痴ともつかない言い分に気づかされ、僕はパラパラとページを繰る。
ああ、確かに。見覚えのある図面が並んで描かれている。けれど月と太陽の位置、それに見たこともない文字群すべてが左右対称だ。
小首を傾げてショーンを見遣ると、彼の方も意見を求めているのか僕を見ていた。
「根拠もなにもないんだけどね。ぱっと見た限りでは、これってもしかして入り口と出口なのかな、て思った」
「あー!」
ショーンが頓狂な声をあげた。アビーの人形に描かれていたのは左の図面。赤毛の家の天井は右のもの。図は左右対称になっているのに、一方は天井にあって、僕はそれを見上げていたから特に違和感を持たなかったのかもしれない。だがこうして並べて描かれていると、それが鏡写しだということが妙に気にかかったのだ。
「そっちの方は忘れてたよ。それは異界の扉の魔法陣だろ! ほら、やっぱり両方とも魔導書に載ってたってことだな。でもな、今、俺が話してるのは精霊召喚の図のことだよ!」
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