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第四章
ノート 8.
ようやく気持ちを落ち着けてコウの部屋を出た頃には、窓外はすっかり闇に閉ざされていた。書斎へ顔をだすと、ショーンは先に夕飯を済ませてしまったという。そして「明日は忙しくなるぞ。食欲がなくても少しでも胃に入れておけよ」と大真面目な顔で言うので、「ん」とだけ返事して仕方なく僕は台所へ向かった。
僕の顔を見るなり、スミス夫人は、あれこれ心配そうに言葉を重ねる。煩く世話をやく彼女を見てようやく、そういえば居間を片づけなければ、と思いだした。
ともあれ先に食事だ。夫人は僕がちゃんと食べるまで、解放してくれそうにない。
広いダイニングテーブルでの一人の食事は、侘しく味気ないことこの上ない。だがロンドンのあの家にコウが来るまで、僕はこんなふうに感じることさえなかったのだ。マリーと二人暮しのときだって、時間を合わせて一緒に食事なんてしなかった。コウが僕の生活すべてに、色をのせてくれたのだ。
僕はずっと食事というものは、死なないための栄養補給と、家族というものを体裁づけるための儀式なのだと思っていた。
僕にとって食卓は、神聖で緊張する特別な授業のようなものだった。スティーブとアンナに挟まれて、家族の練習をさせてもらうのだ。学校で引け目を感じることのないように。堂々とテーブルを仕切ることができるように。自慢の息子の心得を立派な父親から教わる場所だ。上手くソツなくこなせれば、スティーブが喜んで褒めてくれる。温かい笑顔を向けてくれる。それにアンナを手伝って子どもらしい思いやりを示せば、彼女以上にスティーブは喜んでくれた。彼はアンナを愛しているから。彼が大切にしているものを大切に扱うこと。これがこの家の規則だった。
だからこそ、僕は彼を大切に扱ったのだ。スティーブの一番大切な対象、アーノルドを――。
スティーブにとって彼は、妻よりも、我が子よりも、ずっと深く人生を分かち合ってきた親友であり、幼馴染だ。物心ついたころからずっと一緒の学校で、寮生活で、家族以上の長い時間をともに過ごしてきた。それぞれに結婚して別々の家庭を持っても、人生の終わりの時まで分かつことなく共に歩むと、疑いなく信じていたのだ。
僕はスティーブのそんな想いを、自分の感情よりもよほど尊重した。僕の存在を殺し続ける彼を丁重に扱った。なによりもスティーブのために。僕の生を望み、彼を苦しめた母の贖罪として。
だから、彼はそんな僕をマリー以上に愛してくれた。僕のなかの彼を愛していたから。同じだけ僕のなかのアビーを憎んでいるのに。僕は、愛されながら憎まれていた。
スティーブはそんな自分に気づかなかった。彼を残して先に逝ったアビーの罪を僕に見せつけ、彼女に代わる贖いを、何度も繰り返し僕に迫った。彼は僕のなかの彼女を許さないのだろう。アーノルドのなかの彼女を殺し、もう一度、彼を自分に引き戻すまでは――。
それでも、僕は――、貴方の愛が欲しかったんだ。僕のなかの彼に向けられる愛ではなく、僕自身を見つけてほしかった。
食べることは、義務だ。アンナを喜ばせるための。スティーブの歓心を買うための。
だから、コウが僕の部屋をノックして朝食を誘いにきてくれるまで、僕は、ずっと食べものの味なんて知らなかった。コウが教えてくれるまで、僕は味わうとはどういうことか知らなかった。
アンナは、それをずっと僕に教えようとしてくれていたのに。そんなことも分らないほど、僕は未熟だったのだ。
「坊ちゃん、ほら、もっとたんと召しあがってくださいな」
スミス夫人の声が、僕の意識を引き戻す。僕は彼女のために、スチームポットから温野菜を取り分ける。
「美味しいよ。いつもありがとう。心配かけてごめん。二度と倒れないように、しっかり食べておかないとね」
アンナのために。スティーブのために。彼らの愛する彼の子どもは、聞き分けのいい良い子でなければならない。
食事を終えて居間へ行くと、僕が無茶苦茶にした部屋はもうすっかり元に戻っていた。まるで時間が巻き戻されたかのようだ。夫人は僕に何も言わなかったのに。
想定内ということなのだろうか。あのノートは、彼ら夫婦と魔術師との関係からは、隠しておくべきものだったのだろう。彼らが僕に直接渡すことは、魔術師への裏切りにあたるのかもしれない。けれど、勝手に見つける分には仕方がない。そういうことなのではないだろうか。
なんだか一気に肩の力が抜けた。
ソファーに腰を下ろして、ぼんやりと壁に残る日焼けの跡を見ていた。そういえば最近は、あれほど耳についていた振り子の音が聞こえない。闇雲に過去の記憶に手がかりを探してしまうのは変わりないのに。
実体を、僕にあてがわれた部屋の壁に見つけたからだろうか。
魔術なんて、きっとそんなもの。
名前を当てられることで魔力を失う小鬼のように、きっとコウにかけられた魔法も、彼自身の本質を見つけだすことで効力を失うに違いないのだ。
僕の顔を見るなり、スミス夫人は、あれこれ心配そうに言葉を重ねる。煩く世話をやく彼女を見てようやく、そういえば居間を片づけなければ、と思いだした。
ともあれ先に食事だ。夫人は僕がちゃんと食べるまで、解放してくれそうにない。
広いダイニングテーブルでの一人の食事は、侘しく味気ないことこの上ない。だがロンドンのあの家にコウが来るまで、僕はこんなふうに感じることさえなかったのだ。マリーと二人暮しのときだって、時間を合わせて一緒に食事なんてしなかった。コウが僕の生活すべてに、色をのせてくれたのだ。
僕はずっと食事というものは、死なないための栄養補給と、家族というものを体裁づけるための儀式なのだと思っていた。
僕にとって食卓は、神聖で緊張する特別な授業のようなものだった。スティーブとアンナに挟まれて、家族の練習をさせてもらうのだ。学校で引け目を感じることのないように。堂々とテーブルを仕切ることができるように。自慢の息子の心得を立派な父親から教わる場所だ。上手くソツなくこなせれば、スティーブが喜んで褒めてくれる。温かい笑顔を向けてくれる。それにアンナを手伝って子どもらしい思いやりを示せば、彼女以上にスティーブは喜んでくれた。彼はアンナを愛しているから。彼が大切にしているものを大切に扱うこと。これがこの家の規則だった。
だからこそ、僕は彼を大切に扱ったのだ。スティーブの一番大切な対象、アーノルドを――。
スティーブにとって彼は、妻よりも、我が子よりも、ずっと深く人生を分かち合ってきた親友であり、幼馴染だ。物心ついたころからずっと一緒の学校で、寮生活で、家族以上の長い時間をともに過ごしてきた。それぞれに結婚して別々の家庭を持っても、人生の終わりの時まで分かつことなく共に歩むと、疑いなく信じていたのだ。
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だから、彼はそんな僕をマリー以上に愛してくれた。僕のなかの彼を愛していたから。同じだけ僕のなかのアビーを憎んでいるのに。僕は、愛されながら憎まれていた。
スティーブはそんな自分に気づかなかった。彼を残して先に逝ったアビーの罪を僕に見せつけ、彼女に代わる贖いを、何度も繰り返し僕に迫った。彼は僕のなかの彼女を許さないのだろう。アーノルドのなかの彼女を殺し、もう一度、彼を自分に引き戻すまでは――。
それでも、僕は――、貴方の愛が欲しかったんだ。僕のなかの彼に向けられる愛ではなく、僕自身を見つけてほしかった。
食べることは、義務だ。アンナを喜ばせるための。スティーブの歓心を買うための。
だから、コウが僕の部屋をノックして朝食を誘いにきてくれるまで、僕は、ずっと食べものの味なんて知らなかった。コウが教えてくれるまで、僕は味わうとはどういうことか知らなかった。
アンナは、それをずっと僕に教えようとしてくれていたのに。そんなことも分らないほど、僕は未熟だったのだ。
「坊ちゃん、ほら、もっとたんと召しあがってくださいな」
スミス夫人の声が、僕の意識を引き戻す。僕は彼女のために、スチームポットから温野菜を取り分ける。
「美味しいよ。いつもありがとう。心配かけてごめん。二度と倒れないように、しっかり食べておかないとね」
アンナのために。スティーブのために。彼らの愛する彼の子どもは、聞き分けのいい良い子でなければならない。
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なんだか一気に肩の力が抜けた。
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実体を、僕にあてがわれた部屋の壁に見つけたからだろうか。
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