夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

儀式 4

 コーヒーカップのなかの、ゆらりと揺れる水面に目が留まった。

 波紋――。そこに映る顔。コウ――。

 思わず目を瞠った。だが目を凝らした先の乳白色に映るのは、驚いている僕の瞳だ。コウはもういない。

 コウ――。泣きそうな顔をしていたのだ。きみの唇は、確かに僕を呼んでいた。



 あまりにも不可解なきみの世界に、僕はどれだけ挑めるだろう。



 また難しげな顔をして考えこんでしまっているショーンに視線を戻す。小首を傾げて彼を見つめた。彼が欲しいのは、理解ではなく共感だ。彼の不安を受けとめ、彼の心的負担を労ってもらうこと。

「そうか――、とても難解な儀式なんだね。あの赤毛がしくじっているくらいだものね。でも、僕たちの目的は儀式を成功させることじゃない。儀式過程でコウの心に影響を及ぼし、意識を呼び戻すことだろう? きみが一流の魔術師でなければならない、そんな必要はないんじゃないかな」
「それはそうなんだけどな……。俺は、ただ形式を踏めばいいだけなんだって解っちゃいるんだ。でも、怖いんだよ。上手くシミュレーションできないんだ」
「それは、これまできみが得てきた知識とはあまりにかけ離れているから、ってことなのかな?」

 基礎練習だと思って取り組んできた課題が、変化球の応用問題だった。パターン思考しかできない彼の、当然ぶち当たりそうな壁だな。

 僕は納得して微笑を湛え、頷いてみせる。

「コウはアーノルドのことをずぶの素人って言っていたよ。その彼にできたんだ。書かれているような精神面の課題はそう重視しなくていいんじゃないかな。それよりも、忠実に実行することで心理が呑み込まれてしまうことの方を警戒する方がいいかもしれない。儀式ってものは、要は暗示にかけやすくするための環境設定なわけだろ? 恐れをもって一歩引いて挑む。きみの警戒心は、逆にきみを守る盾になってくれるんじゃないかな」
「盾――」
「きみに無理を強いていることは、解ってるつもりだよ、ショーン。僕たちはどうしたって赤毛のようにはいかないだろう。それでも僕は、きみのお陰で希望を持ってここまで漕ぎ着けることができた。これで駄目だったら潔くロンドンに帰って、彼に頭を下げてコウを託す覚悟はできているんだ。コウへの責任は、本来、僕が負うべきものだよ。だから――、きみ一人、気負わなくてもいいんだよ、ショーン」

 声が震えていた。言葉にすることで、それは実感となって僕を襲った。そんな覚悟なんてない。ある訳がない。コウを赤毛に奪われ、永遠に喪うかもしれないなんて――。

 それでも、永遠にコウをアビーにしておくわけにはいかないのだ。

「アル。俺だって辛いんだよ、こんな状態のコウを見てるのは――。そうだな、少し気負い過ぎてたのかもしれない。俺はコウみたいにまるごと呑みこむような理解の仕方はできないからさ。端から齧って一口一口咀嚼していかないと身にならないんだ。だから自信につながらなくてさ……。こんな泣き言なんて言ってられないのにな」

 それはそうだろうと思う。彼は本来認めたくないものを認めるために、信じたくないものを信じるために、魔術的世界を見ているのだから。ここにきて儀式様式の違いというものが彼にどれだけの違和を与えたのか。それは少しづつ積み上げていった小石の塔に、いきなり煉瓦を使えと言われたようなものなのかもしれない。取り込む素材の違いは大きい。塔を作ればいいのだから何だっていいじゃないか、というわけにはいかないのだろう。

 だがそもそもの目的は、塔を作ること、儀式の完成ではないのだ。コウが目覚めないのは魔法のせいではなく、赤毛の植えつけた暗示のためだ。僕たちが行おうとしているのは、その過程を逆行させる心理的手順にすぎない。ショーンは魔術師である必要はないのだ。そこを履き違えてはならない。

 そしてショーンを覆っている本当の不安は、目先の様式の違いから受ける混乱よりも、その土台となる彼自身の精神的外傷トラウマにある。本来の彼は、この儀式魔術という分野に嫌悪と憎悪を抱いている。彼の妹が行方不明になったあと、オカルト好きの母親が、黒魔術の生贄にされたのだと騒ぎ立てたからだ。僕はその話を、彼の家へ行ったときに母親本人から聞いた。僕が精神医学研究所のアシスタントを務めていると知って、彼女からカウンセリングにかかるべきだろうかと相談されたのだ。さすがにショーンの目の前でこの話を声高に始められたときには唖然とした。ショーンは彼女の眼中には入っていなかったのだ。専門家として応えたいからと言って、ショーンには席を外してもらった。

 ショーンがアーノルドに誠意ある応対をしてくれたことに驚いたのは、この母親のこともあったのだ。母親への彼の憎しみの感情がアーノルドに転移する可能性を、僕は少なからず考えていたのだ。

 はたしてショーン本人に、彼が儀式魔術、いわゆる黒魔術に惹かれる本当の理由に対する自覚があるかどうかは判らない。今、彼のなかに感じる恐れを生みだしているのが、本当はいつの恐怖に根ざしているものなのか、ここで彼に解説する必要もないだろう。

 僕はただ、それが彼の実体のない空想であることだけを、気づかせてやればいい。


 


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