夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

虹のたもと 5.

 どれほど歩いたことだろう。
 霧が夜の闇を巻き込んで薙ぎ払っていく。そんな夜明けが訪れていた。

 緑の草原になだらかな丘。
 温かな満ち足りた美しい場所。

 柔らかな緑が輝き、ぬけるような蒼穹に鮮やかな虹の橋が架かる。


 足を止めてぼんやりとその風景に見入っていると、嬉しそうな犬の吠え声が僕を呼んだ。

「アレクサンダー!」

 腕を広げると一抱えあるゴールデンレトリバーが大地を蹴って飛びついてきた。僕が小学生のころに飼っていたアレクサンダーだ。地面に押し倒されたところで抱きしめる。頬を舐めるザラリとした舌は、この子が生きていたころと変わらず温かい。長生きしてお爺ちゃんになってから逝ったのに、一番元気で、一番生き生きとしていたころの姿そのままだ。だが、彼がいるということは――。

 一頻りじゃれついた後、彼は、クウン、クウンと鼻を鳴らし、悲しそうな声を出して首を振る。僕を咎めてでもいるように。

「ここはやはり、冥界の入り口、虹のたもとなんだね」

 賢い彼は、そうだというように頷いている。

「コウはここにいるの?」

 じっと、僕を見つめるつぶらな瞳はきょとんとしている。

 コウ――。そうか、この子には判らないんだ。思わずため息がついてでる。とたんにアレクサンダーが、クウンと申し訳なさそうな声をだす。

「いいんだよ。きみが悪いわけじゃない」

 彼の身体を抱きしめて芝の上に腰を据えたまま、ぼんやりと空に架かる虹を眺めていた。あまりにも不自然な、鮮明すぎる虹――。まるでホリゾントの空だ。

 僕は今、僕の内的世界の内側にいる。コウを捜し求めるあまりに、僕もアーノルドになったのだ。それでも、コウにもう一度逢えるのならそれもいいかな、という気がした。

 何もかも棄てて、コウと二人でここで暮らすのも――。

 クゥンと、アレクサンダーが鼻先をこすりつけてくる。コウみたいだ。そうか、コウはこういう仕草がこの子に似ていたんだ、と気づいて笑ってしまった。僕が笑うと、彼は頬をべろべろと舐めてくる。くすぐったくてますます笑った。

「わかった、わかったって、アレクサンダー。ありがとう、慰めてくれて」

 彼の首許をくすぐり、背中の毛をなでてやる。けれど彼は僕に戻れとでもいうように、鼻先で肩口を押してくるのだ。

 解っているよ。ここは生きている僕のいるべき世界じゃない。それに、どうにせよ、ここにいつまでも座りこんでいるわけにもいかない。

 まずは、コウを捜さなければ――。




 虹のたもとが、集合的無意識世界であるならば、コウは必ずここにいるはずだ。僕たちは、この深い意識の水底で繋がっているはずだから。
 どうやら僕はいまだに信じているらしい。僕がきみを想うように、きっと、きみも僕を想ってくれているのだ、と。

 ――だから僕はここにいる。きみに導かれて。


 これまでの僕は、この集合的無意識というオカルティックな側面を持つ考え方を信じたことはなかった。けれど今のこの状況下で、仮説の一つとして取り入れることができないほど、自分が柔軟性を欠いた人間だとも思わない。

 儀式魔術は、魔術師を深い自己催眠にかけトランス状態にまで陥らせ、集合的無意識にアクセスさせるための装置だといえる。魔術における儀式だけではない、すべての宗教で、信者を変性意識状態に導く道具として、暗闇、蝋燭などの不安定な光源、香、特殊な韻律が使われる。現代において、宗教的権力者の用いていた様式はすでに秘儀ではない。科学によって解析され有効性を認められたマインドコントロール手法なのだ。集団催眠によって陥った集合的無意識のなかで、人々は一つの意識を共有するかのような連帯感という錯覚を得る。

 僕が今ここにいるということは、仕掛けられたその錯覚のなかにいるということだ。ここは、イメージ通りの、不自然で、美しい、作り物の世界だ。僕の想像するアーノルドの内的世界そのままの。

 そしてそれは、コウの想像するアーノルドの内的世界でもあり、アーノルド自身の創り出した内的世界でもある。それぞれの思い描く世界が多重構造的に重なり合う場所――、それがこの個々の意識の深層にある大海、集合的無意識の観念だといえるかもしれない。

 だがこれは、僕にとってとても都合のよい解釈だ。実際の定義からはかなり逸脱していると思う。その辺りは帰ってから文献を探して確認しようと思う。今のところ僕はただ、僕のいる場所を定義づける理屈が欲しいのだ。

 コウを喪ったまま、放りだされて夢を見ているだけの自分なんて許せない。どうしたって、希望を探さずにはいられない。たとえそれが、確たる証左に則ったものでなかろうと――。




 髪を散らす向かい風に身をすくめ、腕で防いで丘の先を見通した。彼の館があるはずなのだ。

 高く見あげたホリゾントの空には、微細な光がチラチラと舞っている。まるで昼の空に輝く星のように。だがあの煌めきは――。




 カ、シャーンッ――!

 夢の世界の壊れる音が、僕の脳裏で響いている。


 その後思い至ったのは、アーノルドのノートに描かれていた二つの魔法陣の図だった。


 ――根拠もなにもないんだけどね。ぱっと見た限りでは、これって入り口と出口なのかな、て思った。

 
 鏡写しの二つの魔法陣。僕はこの意味を、もっと深く吟味するべきだったのだ。



 

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