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第四章
虹のたもと 8.
庭に出て、白薔薇の海原に佇んだ。吹き荒れる風のなかに――。
コウは風が好きらしくて、いつも風に話しかけていた気がする。ハムステッドの家で同居を始めたのは、秋から冬へ移り変わるころだった。風はもう強く冷たく吹きすさんでいたのに、彼は頻繁に庭の芝生の上に素足で立って、じっと耳を澄ませているかのように息を殺して呼吸していた。そんな彼は静けさそのものの佇まいで。僕は戸惑い、声をかけることができなかった。
初めてこの館へ連れてきたときも――。
僕を待つ間、この白い花群のなかにきみは一人で佇んでいた。遅れて戻った僕を見たとき、ほっとしたように微笑んでくれたね。その刹那、辺り一面の空気までもが柔らかくほころぶようだった。
あの時と同じに、この庭の白薔薇は咲き初めだ。コウと同じ、開ききっていない初々しい姿形をしている。
開ききり、時に散り落ちていた現実の花群とは違う時間のなかに留まっている。
ここの風はこんなにも強く翔けているというのに、花群は波のように揺れるだけ。風は、花びら一枚落とすことも、傷つけることもなさそうで――。
アビーが亡くなる直前の記憶を保ち続けているのであろう、不自然な楽園。変わらない永遠。アーノルドの幸せな夢の世界。
この歪な世界のどこに、アーノルドはコウを隠したのだろう。
「教えて。コウはどこにいるの?」
僕は彼らに問いかけてみた。どこかこの風に脅えているような白薔薇たちに。
とたんに、花々がピンッとその背筋を伸ばす。継いで一斉に一方向へ頭を倒す。でも残念なことに花の数が多すぎて、その方向が一点に絞れない。館の側ではなく、裏の森の方だということは判ったのだが。
「ふうん――。きみたちは、知っているんだ」と、つい要らない一言を呟いてしまった。ビクッ、と花たちが震えたような気がした。
「怒ったんじゃないよ。教えてくれてありがとう」
困ってつい苦笑してしまう。お礼のつもりで、一番近くにいた白薔薇の花びらを指で撫でると、みるみるうちに薄紅色に染まってしまった。愛らしいな、コウみたいだ。
コウみたい?
――コウは空からこの庭に降りたって、白薔薇を一輪摘んで大切に抱いて持ち帰ったって。そして目覚めたら、僕のベッドで僕を抱きしめていたってわけさ。
まさか、と思いながら、試しに他の花にもいくつか触れてみた。恥ずかしがっているかのようにふるふると震えるものもあれば、小さな棘を出すものもあり。だけど色まで変わったのは最初のだけで、後はどれも白い花びらのまま。この花だけが、僕の指先で頬を染めるように応えてくれたのだ。コウのように――。
そっと、その一輪を手折ってみた。
ああ、御伽噺のように煙が湧いて、愛しい人に変わっていた、なんてわけにはいかないらしい。けれどもしかすると、この花はコウかもしれないじゃないか。一抹の希望を抱いて、ジャケットのボタンホールに刺しておくことにした。
自分がこんな感傷的な行いをするなんて――。
バニーやエリックが知ったら、きっと僕は笑われるな。でも、ニーノならきっと解ってくれる。彼はロマンチストだから。マリーは駄目だな。
これまで誰かが僕の行いをどう思うか、などと気にしたことなどなかったのに。
スティーブを除いて――。
彼は僕の基準だから当然だ。僕の保護者で教育者。僕の超自我――。僕にとって、彼はいつだって正しい存在だったのだ。それを疑ったことなんてなかった。異議を覚えたことも。理解できないと思ったことも。
それなのになぜ、スティーブはあんなまねをしたのか、僕には判らない。
判らないなりに、あの時のスティーブは、僕をアビーの棺に叩きつけたときのアーノルドだと思った。けれど叩きつけられたのは僕ではなく、アーノルドの妄想世界を象徴する人形で。スティーブが本当に憎んでいたのは、アビーでも、僕でもなく、アーノルドの妄想――。そんなふうに感じた。きっと僕の願望だ。だけど僕は、それなのに――、彼の世界が砕け散るのを防ぐために走っていた。
もう終わりにしたい。終わりにする、とずっと心に決めていたのに――。
バニー。きみはこんな僕をどう解釈する?
何度も繰り返し浮かんでくるこの問いは、くるくると空回りするばかりで答えなんて見えない。
そうだ――、人形を壊した後の彼らは?
僕は何も見ていなかった。
覚えているのは、手の中の砕けたアビーだけ。
スティーブは、アーノルドは、どうしているだろう?
今僕のいるこの世界は、どうやらアビーの人形のなかにあるようなのだ。けれど同時に、アーノルドの内的世界でもある。人形はすでに粉々になってしまったのに、この世界はこうしていまだに維持されている。彼の心を支える防衛機制が、どうにか頑張って支えているのだろう。
だが、それも時間の問題だろう。ホリゾントの空には見た目に判るほどの亀裂が入り、それは先に見上げたときよりも鮮明に大きく広がってきている。
キラキラと細かな粒子が空から降っているのだ。粉々になった陶器の欠片が、剥落しているのだ。亀裂からは、強風と霧が吹きこんでその微細な粒子をさながら霧雨のように舞い散らせて――。
この世界が完全に崩れてしまう前に、コウを見つけなければ。アーノルドがどんな魔術を用いたのか判らないけれど、僕がここにいるということは、コウもここにいるはずだもの。彼の世界に重なる僕の内的世界では、コウは僕の確かな対象であることは間違いないのだから。僕の欲動はなりふり構わず対象へと向かう。
まずは、白薔薇の教えてくれたあの森からだ――。
コウは風が好きらしくて、いつも風に話しかけていた気がする。ハムステッドの家で同居を始めたのは、秋から冬へ移り変わるころだった。風はもう強く冷たく吹きすさんでいたのに、彼は頻繁に庭の芝生の上に素足で立って、じっと耳を澄ませているかのように息を殺して呼吸していた。そんな彼は静けさそのものの佇まいで。僕は戸惑い、声をかけることができなかった。
初めてこの館へ連れてきたときも――。
僕を待つ間、この白い花群のなかにきみは一人で佇んでいた。遅れて戻った僕を見たとき、ほっとしたように微笑んでくれたね。その刹那、辺り一面の空気までもが柔らかくほころぶようだった。
あの時と同じに、この庭の白薔薇は咲き初めだ。コウと同じ、開ききっていない初々しい姿形をしている。
開ききり、時に散り落ちていた現実の花群とは違う時間のなかに留まっている。
ここの風はこんなにも強く翔けているというのに、花群は波のように揺れるだけ。風は、花びら一枚落とすことも、傷つけることもなさそうで――。
アビーが亡くなる直前の記憶を保ち続けているのであろう、不自然な楽園。変わらない永遠。アーノルドの幸せな夢の世界。
この歪な世界のどこに、アーノルドはコウを隠したのだろう。
「教えて。コウはどこにいるの?」
僕は彼らに問いかけてみた。どこかこの風に脅えているような白薔薇たちに。
とたんに、花々がピンッとその背筋を伸ばす。継いで一斉に一方向へ頭を倒す。でも残念なことに花の数が多すぎて、その方向が一点に絞れない。館の側ではなく、裏の森の方だということは判ったのだが。
「ふうん――。きみたちは、知っているんだ」と、つい要らない一言を呟いてしまった。ビクッ、と花たちが震えたような気がした。
「怒ったんじゃないよ。教えてくれてありがとう」
困ってつい苦笑してしまう。お礼のつもりで、一番近くにいた白薔薇の花びらを指で撫でると、みるみるうちに薄紅色に染まってしまった。愛らしいな、コウみたいだ。
コウみたい?
――コウは空からこの庭に降りたって、白薔薇を一輪摘んで大切に抱いて持ち帰ったって。そして目覚めたら、僕のベッドで僕を抱きしめていたってわけさ。
まさか、と思いながら、試しに他の花にもいくつか触れてみた。恥ずかしがっているかのようにふるふると震えるものもあれば、小さな棘を出すものもあり。だけど色まで変わったのは最初のだけで、後はどれも白い花びらのまま。この花だけが、僕の指先で頬を染めるように応えてくれたのだ。コウのように――。
そっと、その一輪を手折ってみた。
ああ、御伽噺のように煙が湧いて、愛しい人に変わっていた、なんてわけにはいかないらしい。けれどもしかすると、この花はコウかもしれないじゃないか。一抹の希望を抱いて、ジャケットのボタンホールに刺しておくことにした。
自分がこんな感傷的な行いをするなんて――。
バニーやエリックが知ったら、きっと僕は笑われるな。でも、ニーノならきっと解ってくれる。彼はロマンチストだから。マリーは駄目だな。
これまで誰かが僕の行いをどう思うか、などと気にしたことなどなかったのに。
スティーブを除いて――。
彼は僕の基準だから当然だ。僕の保護者で教育者。僕の超自我――。僕にとって、彼はいつだって正しい存在だったのだ。それを疑ったことなんてなかった。異議を覚えたことも。理解できないと思ったことも。
それなのになぜ、スティーブはあんなまねをしたのか、僕には判らない。
判らないなりに、あの時のスティーブは、僕をアビーの棺に叩きつけたときのアーノルドだと思った。けれど叩きつけられたのは僕ではなく、アーノルドの妄想世界を象徴する人形で。スティーブが本当に憎んでいたのは、アビーでも、僕でもなく、アーノルドの妄想――。そんなふうに感じた。きっと僕の願望だ。だけど僕は、それなのに――、彼の世界が砕け散るのを防ぐために走っていた。
もう終わりにしたい。終わりにする、とずっと心に決めていたのに――。
バニー。きみはこんな僕をどう解釈する?
何度も繰り返し浮かんでくるこの問いは、くるくると空回りするばかりで答えなんて見えない。
そうだ――、人形を壊した後の彼らは?
僕は何も見ていなかった。
覚えているのは、手の中の砕けたアビーだけ。
スティーブは、アーノルドは、どうしているだろう?
今僕のいるこの世界は、どうやらアビーの人形のなかにあるようなのだ。けれど同時に、アーノルドの内的世界でもある。人形はすでに粉々になってしまったのに、この世界はこうしていまだに維持されている。彼の心を支える防衛機制が、どうにか頑張って支えているのだろう。
だが、それも時間の問題だろう。ホリゾントの空には見た目に判るほどの亀裂が入り、それは先に見上げたときよりも鮮明に大きく広がってきている。
キラキラと細かな粒子が空から降っているのだ。粉々になった陶器の欠片が、剥落しているのだ。亀裂からは、強風と霧が吹きこんでその微細な粒子をさながら霧雨のように舞い散らせて――。
この世界が完全に崩れてしまう前に、コウを見つけなければ。アーノルドがどんな魔術を用いたのか判らないけれど、僕がここにいるということは、コウもここにいるはずだもの。彼の世界に重なる僕の内的世界では、コウは僕の確かな対象であることは間違いないのだから。僕の欲動はなりふり構わず対象へと向かう。
まずは、白薔薇の教えてくれたあの森からだ――。
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