夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

化身

 森の中の、儀式が行われたあの空き地までやって来た。僕はここから出発し、ここへ戻ってきたというわけだ。
 だがこの場所には、魔法陣の痕跡はない。代わりに、それ以前に目にした白いキノコを模した円環、妖精の環フェアリーリングがあった。

 何なんだろう、この世界で生じているこの時間のズレタイムラグは――。

 これも僕の記憶の断片でしかないのか、それとも何か意味があるのか。なぜ魔法陣ではなく、この景色なのか――。

 コウがここにいたからだ。ここに囚われていたからだ。

 それしか考えられない。あの時、確かにコウは僕を呼んでくれたのだ。僕の方へ腕を伸ばして。

 どうすればもう一度、あの瞬間に重なることができるのだろう。

 樹々の梢のせめぎ合うなかで、ここだけがぽっかりと空いた頭上の空に応えを探した。ホリゾントの空はのっぺりとした青一色。アーノルドの芸術的感性からは想像できないほど単調な空。アビーにしか関心のない彼には、空なんてどうだってよかったのだろうな。


 はたしてこの空に夜は来るのだろうか。コウがいるとしたら、もう、ここしか思いつかないのに。

 ――虹のたもとは、その狭間の時に在るんだ。

 夢のなかでコウがそう言っていたのだ。「狭間の時」、昼と夜の交差する時間、夕陽の作る光と影のなか。コウに逢えたのは、そんな時の狭間だった。

「だけどこの世界には、太陽がない」

 この当前の違和に思わず呟いていた。ここは時間の止まったアーノルドの閉じられた張りぼて世界なのだ。



 けれど今、頭上に広がるホリゾントの空にできた裂けめからのぞいているのは――。

 強い光。そして風。裂けめから吹きこむ霧状の雲。そしてチラチラと散り落ちる陶器の霧雨。

 おそらくあの裂けめの向こう側に在るのが、集合的無意識の宇宙なのだろう。このアーノルドの隔絶された世界は、いまだコウの内的世界とは重なっていないのかもしれない。
 彼の内的防衛が完全に壊れ、集合的無意識の海に戻らなければ、ここでコウを見つけることはできないのかもしれない。


 ふと、振り子の音を思いだした。彼の書斎で、アビーのいた部屋で聴いた音。時間の止まっているはずのこの世界で、振り子時計は動いていた。ティールームの置時計も。

 崩壊はすでに始まっている。



 のっぺりとした単調な青空に、ものすごい速さで雲が流れていく。

 影が動く――。

 そうか、この世界には今まで影がなかったのだ。薄暗い部屋のなかで、記憶の断片から生じた人間たちが影そのものだったから、とくにおかしいとも思わなかった。この場所の違和感は、そんなところにもあったのか。


  だがようやく雲を割って太陽が顔を出すように、集合的無意識は閉じられていた空をいたのだ。あまねく光は引き絞った弓でこの仮初かりそめの大地に矢を放つ。
 風がどうどうと細長い樹々の梢を揺さぶって、地面の上に黒々とした影を刻む。葉のざわめきは大地の上で命を得たようにうごめいている。
 じきにもっと陽が傾き、樹々の幹の影はさらに長く伸びるだろう。そして、白い円環の上に強固な檻を作りだすだろう。

 そのときこそ、きっとコウに逢える。

 そんな根拠のない確信に充たされていた。この円環のすぐ傍に腰をおろして時を待つことにした。待つ――、というよりも、これ以上成す術もないまま、円の中心を睨みながら考えていたのだ。コウに逢えたら、一番最初に何て言おうか、と。


「コウ、ごめん。僕を許してくれる?」

 そう口に出してみて、泣きそうになった。

 実の親にさえ、在ることを許されなかった僕が、何を請うのか――。

 息が震える。
 堪らない。許されるはずがない。僕がきみを望んだこと自体、間違っていたのだ。

「ごめん、コウ」

 これだけなら、言えるだろうか。

「愛してる」

 たとえ、受け取ってもらえない言葉でも――。

「コウ――」




 西日が赤く樹々を燃やす。黒々とした影が檻を作る。

 白い円環ににじり寄って構え、コウが現れるのを待ちわびる。地面についた指先が、置かれた白石に当たった。その感触の違和感に、えっ、と疑問が湧きあがる。石じゃない。ショーンに見せられたものと明らかに違う。もっと柔らかいのだ。思わずそれを手に取ってみた。

 キノコだ。本物の――。そのキノコの環が西日に染まり、赤く、あるいは黄金色の焔のようにゆらゆらと揺らめき立ちあがる。この小さな空き地に循環する風がくるくると行きすぎる度に、この焔の環の周囲を埋めていた苔むした大地から、するすると緑が芽吹き、瞬く間に釣鐘ベル型の青紫の花をつけて咲かせた。――妖精の花。

 ブルーベルだ。

 小さな青紫の釣鐘が揺れ、澄んだ音が一斉に鳴り響く。青紫の絨毯じゅうたんの上に生じた、輝く焔の環を寿ぐように。
 高く立ち上がる焔は樹々の作りだす檻の影を消し、辺りの空気を熱しながら歪めていた。

 その焔のなかに、陽炎かげろうのようなコウが浮かびあがる。


 僕を見ている。それなのにコウは悲しそうな顔で、首を横に振るのだ。
「ダメだ」と、呟いて。


 やはりダメなのだ――。
 コウは、僕を受け入れてはくれないのだ。

 それならば、とせめてもの想いで、胸に刺していた白薔薇をコウに差しだした。


 僕の代わりにそばに置いて――、と。




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