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第四章
大地 6
書斎のドアノブに手をかけて開けようとしたとき、「待って」とコウが僕の腕をぎゅっと掴んだ。振り向くと彼は大きく目を見開いて、じっとこの濃いこげ茶色のオーク材でできたドアを見つめていた。いやドアではなく、その向こうにいる誰かを、と言うべきだろうか――。
「コウ、どうしたの?」
僕の腕を掴む彼の手が小刻みに震えているのだ。コウはおもむろに僕を見上げる。
「アル――。もし彼に許されなければ、きみだけでも戻って。ここに僕と一緒に残るなんて言わないで。お願いだ」
「彼って?」
ショーンじゃないのか――。
小首を傾げた僕には応えずに、コウはぎゅっと目を瞑る。そしてそのまま、身体を投げだすようにして僕を抱きしめた。
「頑張るから」
そう呟いて、すっと僕から身体を離したコウは、両手で髪をかきあげて、シャツの皺を伸ばしてきっちりと袖ボタンを留め、身なりを整えている。そして、ようやく僕の手を取ってくれた。僕にはわけの判らないまま、「いいよ、行こう」とコウはドアを開けた。
閉められたままの臙脂色のカーテンの前に、人影があった。背の高い、しなやかな立ち姿。隙間から漏れいる夏の陽射しが逆光となり、顔までは見えない。けれどそれが誰だかすぐに判った。腰まで届く長い黒髪。あの魔術師の男だ。
コウは僕の手を握ったまま、部屋の中央まで進んでいく。距離をとったまま立ち止まり、すっと頭を下げて辞儀する。
男はわずかに身動ぎし、鷹揚に頷いた。コウはずっと腰を折り曲げたままで、頭を上げようとしない。ただ、僕の手だけは離すことなく固く握っている。その指先がずっと震えているのだ。コウの緊張と、この男に対する畏怖の念が伝わってくる。
くっとコウの喉が鳴った。嗚咽を殺して泣いているのだ。
僕はコウの前に回り、膝を折って彼を抱きしめた。
「きみ一人が頑張らなくていい。僕たち二人で成すべきことじゃないか」
――おまえがこれとともに彼を見張り、彼の素行を抑え、道を整えるか。
頭のなかに直接声が響いていた。脳そのものが振動に揺さぶられるような、重厚な声。
まるで統合失調症の体験講義のようだな、と記憶がだぶる。
身体を起こしコウを胸に抱きしめたまま、彼を睨みつけた。この長い沈黙の間この男は、僕には聴こえない形でコウを責めたてていたのかと思うと、腹の底から怒りが湧いていたのだ。
「彼って、火の精霊のことかな? それなら言われるまでもない。あんな無茶苦茶な奴をコウのそばに置いて、野放しになんてしておけるはずがないじゃないか! コウがその務めを果たし、奴との契約を終わらせるまで、僕は奴を警戒し続けることを止めはしない!」
僕が言い終わるや否や、彼はカラカラと本物の声をたてて笑った。笑いながら僕には判らない言葉で何か喋っている。コウが身動ぎして身体を起こし、とつとつと彼に返答する。
「彼、何て言ったの?」
「その気の強さは、白雪姫譲りだなって」
コウは赤くなっている瞼をごしごしと擦りながら答えてくれた。それから、僕ににっこりと笑いかける。
「人形は、持っていっていい、って言ってもらえたよ」
シャツの袖で顔全体を拭うと、コウはすいっと僕から離れて男の方へと足を進めた。
ふわりと男がその長い腕を持ちあげる。指先まで優雅な身のこなしに目を奪われ、もう一方の腕が胸の前に曲げられたのに気づいたとき、そこにはすでに赤い服を着た一体の人形が抱かれていた。
コウは男の前まで来ると、膝を折って床につき両腕を掲げた。男は赤毛の人形を、まるで犬の仔でもつまむようにそのうなじをつまんでコウの手のなかに落とした。
赤毛の人形をしっかりと抱いて僕の許に戻ってくると、コウはもう一度彼を振り返り、明るい声音で何か言った。
「お礼を言ったんだよ」と、僕を見て微笑んでいる。なんだかわけが判らない。だがとりあえず目的は達成できたらしいので、僕も彼に礼を言っておいた。
ふわりと揺れたカーテンから差しこんだ陽射しに照らされた彼は、人とは思えないような美しいその顔に、穏やかで優しげな笑みを浮かべていた。
「やっぱり彼ときみは似てるね」
書斎を後にしてから、コウがほうっと息をつきながら嬉しそうに笑って言った。
「そうかな? 似てるのなんて髪色くらいじゃないの?」
それともコウを泣かせてしまうところが? などと、嫌な想いを思いだす。
「そうじゃないよ。僕の方が申し訳なさすぎて泣いてしまったんだよ。地の精霊は僕の想像以上に優しい方だったよ。ずっと僕を労って下さって、きみのこともいろいろ心配されていて――」
ちらりと僕を見上げたコウの瞳は、ずいぶん照れ臭そうな色をしている。
「コウの頭のなかに直接話しかけていたんだろ? どんな話をしていたのか教えてくれる? 僕はわけが判らなくて、ずいぶんヤキモキしてしまったよ」
なんだか、心配し損っていうのか――。
「僕は男だからね――」
コウがどこかはにかんだような笑みを湛えて続けた。
「ごめんなさいって。地の精霊の血脈を途絶えさせることになるかもしれないから、って」
驚き過ぎて、思わずコウを凝視してしまったよ。
「地の精霊の血脈って、肉体に通う血のことじゃない、って笑われたよ。魂の伝承だからって。だから気にしなくていいって」
コウが僕を見上げる。鮮やかに微笑んでくれている。
「でも、さすがに初めてらしいよ。彼の系統であるきみと、火の精霊を内包する僕が恋に落ちるって。いかにこの世が混乱しているかの証左だなって」
「きっと、混乱を収めるために恋に落ちたんだよ」
「そうだね。自然もこれまでとは違う、新しい摂理が欲しいんだね。世界は弛まなく変化し続けているものね」
世界の変化と僕たちの恋に因果関係があるかは判らなかったけれど、コウがようやくコウらしい笑顔を取り戻してくれたことの方が、僕は、何より嬉しかったな。
「コウ、どうしたの?」
僕の腕を掴む彼の手が小刻みに震えているのだ。コウはおもむろに僕を見上げる。
「アル――。もし彼に許されなければ、きみだけでも戻って。ここに僕と一緒に残るなんて言わないで。お願いだ」
「彼って?」
ショーンじゃないのか――。
小首を傾げた僕には応えずに、コウはぎゅっと目を瞑る。そしてそのまま、身体を投げだすようにして僕を抱きしめた。
「頑張るから」
そう呟いて、すっと僕から身体を離したコウは、両手で髪をかきあげて、シャツの皺を伸ばしてきっちりと袖ボタンを留め、身なりを整えている。そして、ようやく僕の手を取ってくれた。僕にはわけの判らないまま、「いいよ、行こう」とコウはドアを開けた。
閉められたままの臙脂色のカーテンの前に、人影があった。背の高い、しなやかな立ち姿。隙間から漏れいる夏の陽射しが逆光となり、顔までは見えない。けれどそれが誰だかすぐに判った。腰まで届く長い黒髪。あの魔術師の男だ。
コウは僕の手を握ったまま、部屋の中央まで進んでいく。距離をとったまま立ち止まり、すっと頭を下げて辞儀する。
男はわずかに身動ぎし、鷹揚に頷いた。コウはずっと腰を折り曲げたままで、頭を上げようとしない。ただ、僕の手だけは離すことなく固く握っている。その指先がずっと震えているのだ。コウの緊張と、この男に対する畏怖の念が伝わってくる。
くっとコウの喉が鳴った。嗚咽を殺して泣いているのだ。
僕はコウの前に回り、膝を折って彼を抱きしめた。
「きみ一人が頑張らなくていい。僕たち二人で成すべきことじゃないか」
――おまえがこれとともに彼を見張り、彼の素行を抑え、道を整えるか。
頭のなかに直接声が響いていた。脳そのものが振動に揺さぶられるような、重厚な声。
まるで統合失調症の体験講義のようだな、と記憶がだぶる。
身体を起こしコウを胸に抱きしめたまま、彼を睨みつけた。この長い沈黙の間この男は、僕には聴こえない形でコウを責めたてていたのかと思うと、腹の底から怒りが湧いていたのだ。
「彼って、火の精霊のことかな? それなら言われるまでもない。あんな無茶苦茶な奴をコウのそばに置いて、野放しになんてしておけるはずがないじゃないか! コウがその務めを果たし、奴との契約を終わらせるまで、僕は奴を警戒し続けることを止めはしない!」
僕が言い終わるや否や、彼はカラカラと本物の声をたてて笑った。笑いながら僕には判らない言葉で何か喋っている。コウが身動ぎして身体を起こし、とつとつと彼に返答する。
「彼、何て言ったの?」
「その気の強さは、白雪姫譲りだなって」
コウは赤くなっている瞼をごしごしと擦りながら答えてくれた。それから、僕ににっこりと笑いかける。
「人形は、持っていっていい、って言ってもらえたよ」
シャツの袖で顔全体を拭うと、コウはすいっと僕から離れて男の方へと足を進めた。
ふわりと男がその長い腕を持ちあげる。指先まで優雅な身のこなしに目を奪われ、もう一方の腕が胸の前に曲げられたのに気づいたとき、そこにはすでに赤い服を着た一体の人形が抱かれていた。
コウは男の前まで来ると、膝を折って床につき両腕を掲げた。男は赤毛の人形を、まるで犬の仔でもつまむようにそのうなじをつまんでコウの手のなかに落とした。
赤毛の人形をしっかりと抱いて僕の許に戻ってくると、コウはもう一度彼を振り返り、明るい声音で何か言った。
「お礼を言ったんだよ」と、僕を見て微笑んでいる。なんだかわけが判らない。だがとりあえず目的は達成できたらしいので、僕も彼に礼を言っておいた。
ふわりと揺れたカーテンから差しこんだ陽射しに照らされた彼は、人とは思えないような美しいその顔に、穏やかで優しげな笑みを浮かべていた。
「やっぱり彼ときみは似てるね」
書斎を後にしてから、コウがほうっと息をつきながら嬉しそうに笑って言った。
「そうかな? 似てるのなんて髪色くらいじゃないの?」
それともコウを泣かせてしまうところが? などと、嫌な想いを思いだす。
「そうじゃないよ。僕の方が申し訳なさすぎて泣いてしまったんだよ。地の精霊は僕の想像以上に優しい方だったよ。ずっと僕を労って下さって、きみのこともいろいろ心配されていて――」
ちらりと僕を見上げたコウの瞳は、ずいぶん照れ臭そうな色をしている。
「コウの頭のなかに直接話しかけていたんだろ? どんな話をしていたのか教えてくれる? 僕はわけが判らなくて、ずいぶんヤキモキしてしまったよ」
なんだか、心配し損っていうのか――。
「僕は男だからね――」
コウがどこかはにかんだような笑みを湛えて続けた。
「ごめんなさいって。地の精霊の血脈を途絶えさせることになるかもしれないから、って」
驚き過ぎて、思わずコウを凝視してしまったよ。
「地の精霊の血脈って、肉体に通う血のことじゃない、って笑われたよ。魂の伝承だからって。だから気にしなくていいって」
コウが僕を見上げる。鮮やかに微笑んでくれている。
「でも、さすがに初めてらしいよ。彼の系統であるきみと、火の精霊を内包する僕が恋に落ちるって。いかにこの世が混乱しているかの証左だなって」
「きっと、混乱を収めるために恋に落ちたんだよ」
「そうだね。自然もこれまでとは違う、新しい摂理が欲しいんだね。世界は弛まなく変化し続けているものね」
世界の変化と僕たちの恋に因果関係があるかは判らなかったけれど、コウがようやくコウらしい笑顔を取り戻してくれたことの方が、僕は、何より嬉しかったな。
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