夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

大地 8

 チョコレートのようにべとべとに溶けかけている階段を駆け上がり、ひた走った。幸い階上にはまだ火は回っていない。だがここまでの短い距離の間に、僕たちは汗とすすですっかり燻されていた。そのあげくにたどり着いた浴室も、足下から焚きつけられる蒸し風呂へと変わっている。

「アル、下ろして」

 そっと床に下ろすと、コウはよろめきながらアビーのドレッサーの前に立ちシャツを脱ぎ捨てた。そして、大きな瞳を震わせ僕に飛びつくと、ぐいと顔をよせてキスをくれた。わけが分からず、そのままコウを抱きしめて応えようとすると、今度は身体を押しやられる。こんなふうに考えるより先にくるくると動かれるのでは、心が重なっていても判らないじゃないか。

「早く行って。もう扉は開いてる」と、コウは彼の背後の鏡を肩越しに指差す。

 鏡に映るコウの背中――。

 火焔と蔦模様が絡まりあい円を作り、細く長くうねりながらトンネルのように続いている。白い光がその遠い先から漏れ輝いている。思わずコウの背中をじかに眺めて確かめた。けれど肌の上にあるのは見慣れた、ただの模様でしかない。

「これが扉? コウ、どういうこと?」
「説明している時間はなさそうだよ、早く行って、アル。この世界が崩れてしまったら、戻れなくなってしまう」
「でも、きみの入れ墨タトゥーが扉って、きみはどうやってそれをくぐるの?」
「僕は大丈夫。ドラコがどうにかしてくれる。仮にも精霊なんだから」

 ――仮にも、とはなんだ! 仮にもとは! れっきとした精霊だ!

 コウの内側から、くぐもった奴の声が悪態をついている。

「そんな当てにならない話があるかい。奴はきみをこっちの世界に置いておきたいんじゃないの? この入れ墨タトゥーが扉になるっていうのなら、僕のトリスケルだってそうじゃないか。きみはそこからこの世界に取り込まれたんだろ? コウが先に戻ればいい」
「なに言ってるんだ! きみは、」
「僕には精霊の加護があるんだろ? そう言ってくれたじゃないか。それに、も約束してくれていたよ」

 祝福を――。

 僕の真剣な眼差しを、コウは泣きそうに顔を歪めて拒んでいる。こんなとき、コウという僕の恋人は、まったく信用できなくなる。僕を優先するあまり、僕を騙しかねないのだ。ここで無理やり頷かせたところで、その通りにしてくれるかはとても怪しい。

 頑固な彼を頷かせるには、押し問答よりも別案を探す方がいい。

「これは? 扉として使えないかな?」

 ポケットのなかに畳んでいれておいた、魔法陣のコピーを広げてみせた。アーノルドのノートにあるものと正確に見比べようと、アビーの人形を映した写真から僕が図面に起こしたものだ。そのままポケットに入れたままになっていたのだ。

「でも、これは入り口だから」
「大丈夫」

 ドレッサーの引き出しを開け、そこにあったアビーの飾りピンを数本手に取った。鏡に向き合う壁に、コピーの皺を伸ばし、ピンを挿して四隅を留める。

「ほら、出口になった」

 鏡に指差す僕が映る。その同じ鏡面には、魔法陣ではなく白く光る扉が映っている。

「アビーが、僕たちを守ってくれてるんだ――」

 コウが、泣きそうにくしゃくしゃな顔で笑んで呟いていた。


「さぁ、行こう」

 差しのべた僕の手をコウが握る。互いの指を絡ませた手で、鏡に映る小さな扉を押し開けた。





 爽やかな風が駆け抜ける緑の草原。
 なだらかな丘のうえ。
 アビーが腕を広げて、呼んでいる。誰かを呼んでいる。

 あなたが呼んでいるのは――。

 あなたの許に駆け寄って行きたかった。
 あなたに抱きしめてほしかった。
 でも、僕の足は動かなかったし、つないでいるこの手を離すこともしなかった。


 コウがずっと握っていた金色の繭玉を彼女に向けて放り投げる。
 彼女は両手を伸ばしてそれを受け取った。
 
 
 アビー、母さん、あなたはずっとここで待っていたんだね。

 彼を――。






 カ、シャーンッ――!


 柔らかで、冷たい、陶器の壊れる音が響き渡った。


 僕は地面に膝をつき、砕け散り、バラバラになった人形の残骸を胸に抱いていた。ここがどこだか、今何をしているのか、すぐには判らなかった。まるで長い眠りから覚めたばかりのように、ゆっくりと伏せていた顔をあげ辺りを見渡す。月明りの照らす紺青の闇のなかに男が倒れていた。そしてその横にもひとり、僕に背を向けてしゃがんでいる。

「スティーブ」

 ようやく記憶がつながり、僕はその背中に声をかけた。
 彼が振り返る。

「アル――、手伝ってくれるかい?」

 暗く沈んだ、けれどしっかりした口調だった。僕は人形をかたわらの大地に置き、歩み寄って倒れているアーノルドを一緒に抱え起こした。

 彼は意識が混濁しているだけで、息がないわけではないらしい。同じだ。ここへ来るきっかけとなった、コウのときと――。





「アルバート」

 アーノルドを二人がかりで支え山道を下る途中で、スティーブは抑揚のない口調で僕を呼んだ。

「はい」
「すまない」
「いいえ、僕ではきっとできなかった。僕は感謝しています」


 それから館に着くまで、彼はもう何も言わなかった。




 



 
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