夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

夢の跡 7.

 人形を抱えてコウの部屋へと急いだ。僕はこれをどう解釈すればいいのか判らなかったのだ。コウならば何か知っているかもしれないと思った。何の脈絡も、根拠もないのに――。


 コウはベッドから出て窓辺に立ち、外を眺めているところだった。ドアを開ける音にゆっくりと振り返る。

「コウ、」
「ああ――」

 吐息のような声を漏らし、彼はスティーブと同じように悲しげに唇の端をあげた。「やっぱり僕がしなきゃいけないんだね」と独り言ち、僕の方へと歩み寄る。

「きみは何か知ってるの? スティーブから何か聴いてるの?」

 矢継ぎ早の質問に、彼はゆっくりと首を振る。
 コウは目覚めた後、僕のいない間を見計らってスティーブとの時間を取っていたのだ。後からそのことを聞いて、僕たちのことの言い訳かと勘繰って訊ねたのだけど、そのときはただ「違うよ」とコウは笑って首を振った。

「僕が彼に頼んだんだ。でも、こうして僕の許へ戻ってきた。彼にはできなかったんだね。アビーの人形はできたのに」

 コウが何を言っているのか判らない。スティーブは何の説明もしてくれなかったのだから。コウも――。彼らは、これの持つ意味を僕には話したくないということなのだろうか――。


「これは、僕なの?」

 僕の腕から人形を抱きあげたコウの頬に手をあてて、僕のほうへと顔を向かせて尋ねた。いつも以上に透明度を増しているトパーズの瞳に、かすかな不安が見てとれたのだ。

 コウは黙したまま頷く。

 この人形は、僕が初めて彼に逢った時に着ていた服と同じものを着ている。顔は、アビーの人形ととてもよく似ている。けれど同じじゃない。

「コウ、教えてほしい。今さら何を言われたところで驚くことはないよ。少なくともここは現実なんだし、僕には僕自身のことを知る権利があるだろ? それに僕だって、もうそれなりの覚悟はできているよ」

 コウは僕をじっと見つめていた。永遠のように長い一瞬。コウの瞳が、心が揺れている。コウの醸し出す揺らぎは、ショーンの家にあったウインドウチャイムのような、そんな霊妙な音が聴こえてきそうだ。

「――彼はこの人形を作ってから、アビーがそばにいないときだけ、こっそりと取りだしては眺めていたんだ。作業場の棚の奥にずっと隠してあったんだよ」
「なぜ――」
「きみに逢ったから。きみとの出逢いが彼の世界に綻びを作ったんだ。彼のアビーが本当に狂い始めたのはそれからだ。彼はきみに逢いたくて、彼の妄想世界の檻から出ようと何度もアビーの人形を叩き壊した。でも無駄だった。それらはどれも、魔法陣の描かれた本物の人形アビゲイル・アスターじゃなかったから」


 信じられない。そんなこと、信じられるはずがない。


「アーノルドの創りだした世界――、僕の囚われていた虹のたもとは、現実世界のこの館とはまるで違っていた」

 どんなふうに、と僕は瞳でコウに問い質す。コウは悲しげに眉をよせる。このまま続けるかどうか迷っている。僕は彼の髪を撫で、頬を擦った。

「僕は大丈夫。ちゃんと聴いて、消化する。それが僕に関することなら、きみが苦しい想いをして抱えるんじゃない。教えてほしい」

「――荒れすさんでいたんだ。彼の妄想のアビーは、あの狭い世界に彼女を閉じこめた彼を呪い、罵り、苦しめていた。現実世界できみと一緒に逢ったときのような、一見平穏に見える生活なんて、そこにはなかった。彼は――、」

 ここまで一気にしゃべっていたコウは、声をとぎらせ口を結んだ。眉を寄せて目を閉じ、苦しげに息をつく。

「僕は、彼の心を、きみに見せるのが嫌だった。それは地の精霊グノームも同じだったんだと思う。彼は人の心に通じているから。時間を操って、きみに見せないでくれたんだ」
「うん」

 僕はコウを僕の人形ごと抱きしめた。あの夢のなかで、「僕はもう、これ以上きみに傷ついてほしくない」と彼が言っていた意味がようやく解ったような気がする。でも、その分きみは――、

「僕の心はあの森のなかでアビーに見いだされ、アーノルドの館に囚われた。虹のたもとで、彼女は、彼女の魂は――」
「うん――」


 きみは、僕の代わりに心を痛めていたんじゃないの?

 
「大丈夫だよ、コウ」と、彼の震える背中をゆっくりと撫でさする。彼の髪にキスを落とす。


 これは僕が抱えるべきものなのだよ。もう僕のことで、きみが傷つくんじゃないよ。


「僕はきみが思っているよりも、たぶんずっと、きみのことが好きで、大切なんだよ」と、コウの耳許に囁きかける。コウは少しの間しゃくりあげ、それから、ゆっくりと息を整えていった。その間ずっと、僕は彼を抱えていた。僕の痛みを、僕の代わりに抱えてくれていた彼を――。


「アーノルドには、きみが誰だか判らないのに、ずっときみの面影を追っていた。彼の世界のなかで、アビーの姿を保てなくなるほどに――。きみに逢うときだけ、幸せな夫の姿を演じていた。どうしてだか、僕には判らない。でも、僕が一緒に暮らしたアビーは、本物のアビーの魂だ。妄想の自分アビーに脅かされている彼を、とても憂いていた。だから火の精霊サラマンダーの力を借りて、きみを想う僕の心を取りあげて、隠して――」
「きみは戻ってこられなくなり、僕はあそこへ呼び寄せられたんだね」
「彼女はひと目でもいい、きみに逢いたかったんだ。そしてアーノルドに、きみを逢わせてあげたかったんだ」

 コウは片腕を僕の背中に回してシャツをぎゅっと握っていて、嗚咽を殺した声で詰まり詰まりながら話してくれた。

「僕は、きみが、きみのお母さんや、お父さんに、本当に囚われてしまうんじゃないかと――、怖かった。僕はこんな、身勝手な、ひどい奴で、ごめん」

 コウの思考回路は、やはり僕には難解だ。どうしてここで、コウがひどい奴になるのかが、解らない。


「彼らの想いを、ちゃんと弔わなくちゃいけない。僕に任せてもらってもいい?」
「任せるって? 何をするの?」
「この人形は、壊さなきゃならないんだ。こんな精巧な形代を置いておくのは危険すぎる。それに、彼の想いが籠り過ぎているから。この想いは彼らのもとへ帰さないと――」

 壊す、自分自身を――。
 ああ、違う。これは僕じゃない。アーノルドの想いの結晶を、彼自身の許へ還す。コウはそう言っているのだ。

 僕はもう、物へ心を移したりはしない。

「きみを信じてる。でも可能なら、僕も立ち会ってもいい?」

 コウは一瞬迷ったようだった。けれど、霊妙な輝きを湛えた瞳で僕を見つめたまま、コクンと頷いてくれた。





 
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